その7 妹からの女の子対応指南
廃墟系デザインのトークアプリ『RUIN』を白野も持っていたので、ひとまず連絡先を交換するとその日は解散することになった。向こうは家が反対方向というのもある、帰りが遅くなってはいけないだろうと判断してのことだ。
しかし、土日の間は会えないだろうと思って落ち込んだ帰り道だったというのに――大躍進だ。まさか付き合えるなんて。
俺は興奮を隠しきれず、ともすれば叫び出してしまいそうだったので、あふれる多幸感を糧に無意味に走って帰った。
マンションの七階、角部屋にある我が家の鍵を開ける。
「ただいま~」
左手にある自室にカバンと学ランを投げ込み、まっすぐ先にあるリビングへ出る。
テレビに向いた二人掛けソファに腰かける女が、ぱりんとチップスをかじって俺を迎えた。
「おふぁえり」
着ているセーラー服は禾斗目のように全体が真っ白なものとはちがい、襟はスカートの群青色に合わせた色味のデザインだ。
帰宅してから緩めたのか襟から垂れる空色のスカーフは結んでおらず、だるそうな半目でテレビを見つめる。肩までとどく髪はうちの家系由来のものでくしゃっとしており、俺もこいつもよく生徒指導から「パーマあててないか?」と言われる。
浦木杠。
現在中三、俺の年子の妹だ。
「ユズ、お前今日は早かったんだな」
「午後からだるかったから六限と部活サボったの。ていうか……お兄ちゃん、なんか汗かいてるけど。暑そうね、喉渇いてる?」
「ちょっと走ってきたからな。渇いてる」
「そ。冷蔵庫に例のアレあるよ。わたしの分も取って」
「はいはい」
すごすごとリビングから戻ってキッチンに入った俺は、冷蔵庫から例のアレ――湿布臭がするとよく言われる炭酸飲料だ――を取り出すと、プルタブを起こしてユズの前にあるローテーブルに置いた。
「ありがと」と気の抜けたようなお礼を口にしつつ、奴は袖の余ったセーラーにくるまれた手を伸ばして缶を手に取る。
俺はユズの横、座布団に腰を下ろすと炭酸を飲みながらスマホを出した。
白野とのRUINの履歴には、「よろしくお願いします」と互いに送り合い、既読がついた画面が表示されている。
それだけなのにうれしくて、俺はにまにました。
「よーしユズ、今日は夕飯なに食べたい」
「焼肉」
ユズはこっちを見もせずに即答した。
ふむ、肉か。今月はまださほど食費使ってないし、いいか。
「わかった。ちょっと遅い時間だからスーパーもあんまり肉残ってないかもしんないけど、買えるだけ買ってこよう」
「え、本当? めずらしい。鉄板洗うの面倒だからって普段やりたがらないのに」
驚いたように目を丸くしてこっちを見る。
今日くらいはね。幸せのおすそ分けみたいなやつだ。
そんな優しいことを考えていたら、ユズはなんとも言えない顔で俺からちょっと引いた。
「ていうか、気持ち悪っ。なにそのゆるんだ顔? 失敗した福笑いみたい」
「だれが福笑いだよてめー!」
「だってだいぶ気持ち悪いよ、顔。ちょっと鏡で見てみなさいよ」
あんまりな言い分だと思いながら、ローテーブルに置いてあった手鏡(ユズが眉毛整えたりするのに使ってる)を取った。
……まあ言ってることわからんでもないな、と思ってしまった。なかなかにしまりのない顔になっている。
ぴっしゃんぴっしゃんと頬を平手で二度叩き、俺は顔つきを平常時に戻した。ユズに訊ねる。
「どう?」
「三〇点」
「だれが顔の採点しろっつったよ。しかも低いな」
「赤点ではないって感じよ。わたしの採点厳しいからね、カラオケの本格採点くらいの難易度だと思ってよ」
「でもお前さぁ。兄の採点してるけど、似た顔の自分については点数どうなんだよ」
「化粧すれば六〇点。内、化粧が二〇点」
「自分にも他人にも厳しいなお前……というか中学生で化粧するもんなの?」
「ほんのり、だけどね。周りに合わせて覚えた。わたしもお兄ちゃんに似て元から顔立ち薄いし、細工はしやすいのよ」
そんなものか。……そういや白野は化粧してるんだろうか。近づけないし、すぐに顔を背けるのでまじまじと見つめたことないからよくわからないけど。
まあ、化粧しててもしてなくても可愛いだろうなと思う。絶対可愛い。
「ちょっ、こわいこわいこわいっ。お兄ちゃんまた顔崩れてる」
「えっ、俺またゆるんでた……?」
「ほっぺたの筋肉壊れたの? なんでそんなに顔がゆるキャラなのよ、今日」
缶に口をつけながら、ユズはおそるおそる俺の顔を見る。
うーん、そんなに言われるほどとは。気を付けよう。どこまで保てるかわからないけど。
「ちょっと今日のうちはこういうしまりのない顔になるかも。悪いけど」
「なんで? なにか辛いことでもあった……?」
「いやそこは普通いいことあったか訊くとこじゃないの?」
「お兄ちゃんにいいことなんて起こりそうにないし。辛いことから目を背けるために顔だけでも笑ってる、とかの方があり得そうかなって」
「お前の中の兄貴像が悲惨すぎる」
どんだけ幸薄そうに見えてんだ。まあ幸運に恵まれたことなんてないけど。
「いいことあったんだよ。だから顔がゆるむんだ」
「……えっまさか宝くじ?! すごーい、お兄様! さすが! 分けて!」
「露骨に態度変えてんじゃねーよ! 当たってねえよ!」
「だって急に食べたいもの聞いてくるし。お金が入ったのでなければなによ」
「いやまあその、なんて言うのかね。へへ。ちょっとね」
「うそぉ……お兄ちゃんに彼女できるとか……」
「おいまだなにも言ってない」
白野もちょいちょい読心してくるけど、なんなんだ? 俺いつの間にか心の中ダダ漏れになってんの?
「お兄ちゃんわかりやすいのよ。顔にだいたい出てる」
「うそぉ……妹にも内心がバレバレとか……」
「口調真似しないでよ。ていうか、どうなの。彼女できたなら、デートの約束とかした?」
お。新御堂の野郎とはちがい、ユズはちゃんと俺に恋人ができたのを信じた上で話をしてくれるらしい。
「まだぜんぜん。そもそも、ついさっき告白してOKもらったところなんだ」
「へぇ、そっか。――あ、お兄ちゃん。デートでごはん食べるときは、注意してね」
「なんだ注意って。大丈夫だよ、俺ワリカンとかしないって」
「そういうのじゃなくて。向こうがファミレスとか行きたい、って言いだしてボックス席に座るようだったら、気を付けて」
「なにを?」
「あとから向こうの仲間がやってきてお兄ちゃんを奥に押し込めて出られないようにして、『この宗派に入信するまで帰さない』って流れになるかも」
「悪徳宗教のやり口じゃねーか! たったいまテレビのニュースで流れてたやり口そのまんまの!」
やっぱりこいつも俺がまともにお付き合いできたと信じてなかった!
などという心中の絶叫も読まれているらしく、ソファに深くもたれてチップスをぱりぱりやりながらユズは半目で俺を見据える。
「罰ゲーム・宗教・マルチ商法・電波受信者といくつか候補が思いついたけど、宗教が一番ありそうかなって」
「俺、そんなに普通のお付き合いできそうにないかなぁ?!」
「え……そこまで必死になるって、本当に普通のお付き合いなの?」
「あん? そりゃあお前、」
言いかけて考え、少し固まる。
……あれ、普通とは言えない気がするな……。
い、いや。恋愛なんて十人十色、正解はそれぞれの心の中にあるはずだ。俺と白野の関係は特別変かもしれないけど、それが間違いとは言えないはずだ。
俺はこの結論を胸に、ユズに言い切る。
「あのな、ユズ。少し普通じゃないとしても、恋愛に間違いなんてないんだよ」
「経験者ぶっててなんかウザい……」
「お前しばくぞ」
「いやだって、普通じゃないのは認めたでしょいま? ていうか、少し普通じゃないってどういうの?」
「なんていうか……接触禁止なんだ」
「お兄ちゃん、それレンタル系の彼女でしょ」
「ちげーよ! あれだよ、ピュアなの! 清い関係!」
「お兄ちゃんが清いとか……笑止」
冷たい目でこちらを見るユズの脳裏には、先日見つかってしまった桃色煩悩漫画(スポーツ少女がいろいろ運動して汗だくになるやつ)の数々がよぎっているのであろうことが感じられた。おお、兄妹で以心伝心だ。でもどうか兄の誠実さを信じてほしい。
「いや本当に。清くいくから。ああいうのはああいうのでそりゃ読んじゃうけど、現実で欲をぶつけるようなアホなことしないから……」
「あーはいはいわかってるわかってる、冗談よ冗談。本気でシュンとしないでよ」
「……お前こそそんな性格してると恋人とかできないと思う」
「それはどうでしょう」
「え、できたの」
「いやいないけど。わたし男の子の方が好きだし」
半目のまま、結んでないスカーフの端をつまんでひらひらさせる。
その制服が示す彼女の身分は、佐倉女学院中等部の生徒であるということだ。つまり女子校。奴の好みに合う人間がいない。
「お兄ちゃんはいいよねー共学で。わたしも女子高だるいし高校から共学にしよっかな」
「……佐倉、あんまり楽しくないか?」
「ん? ああ、心配しないでよ。べつに学校イヤになったとかじゃないって。今日も早退したの、生理でだるかっただけだから」
けらりと笑って、ユズは足を組みかえた。
こいつは小学校の頃不登校になった時期があるので、どうもこういう話題には過敏になるのが俺の悪い癖だ。
茶化すように、ユズは俺に人差し指を突きつけながら言う。
「お兄ちゃんってさ、察し悪いけど察しようと努力はするのよね。こういう話のときとくにそう思うけど」
「なんだよ察し悪いって……自覚はあるけど」
「あはは。でもそういう泥臭いとこ、好きなひとは好きだと思うよ。恋人になったってひともそうなんじゃないかな」
「どうなんだろ……とくにそういう面見せた覚えないけど」
「ね、ね。相手のひとの写真とかないの? なんて名前のひと?」
「ん、あーまだ写真はないんだ。向こうは俺の写真持ってるけど」
「なんで向こうは持ってるのよ」
「盗撮されてて」
「……えええー……こっわ」
しかし写真、か。見たとこRUINのアイコンとかも無地のままだから、本当に写真ないな。
「いまどきアイコンも初期状態ってめずらしいひとね」
「おい勝手にのぞくな」
「なによ、挨拶しかしてないじゃない。えと、白野……かなた? なんか聞き覚えある名前」
「佐倉出身らしいぞ。文武両道で模試は全国五位以内だったとか」
「え、マジ? なんでそんなひとが禾校に?」
「知らん。そのうち訊いてみようかな」
「RUINで訊けばいいじゃない。ていうかもっとお話ししなよ、付き合ったばっかりなんでしょう? 鉄は熱いうちによ、ホラはやくはやく」
「お前の方が盛り上がるなよ……まあ、連絡はしようと思ってたけど。でもこういう初メッセージってなに送ればいいの?」
迷っている俺に、ユズは大仰に肩をすくめて見せる。
「『家着いた いまから可愛い妹にごはん作りますー』とか。現状と、妹がいるっていう会話の糸口になりそうなこと絡めて送ったらいいんじゃない? 向こうも返事しやすいでしょ」
「お前なんか手慣れてるな……」
「中学から私立だと知らない人間ばっかの環境で再スタートだから、初対面の人間とのコミュニケーションはお兄ちゃんより経験あるのよ」
ふふんと無い胸を張るユズ。だが言っていることは納得できたので、俺はスマホにほぼその通りの文面(可愛い、を除いた)を打ち込んだ。
瞬間に、既読がついた。ソファから降りて俺の横でぱたぱたしていたユズが、楽しそうに画面を見つめる。
「もう既読ついたね。向こうもそわそわと送る文面考えてたんじゃない、これ」
「かなぁ」
「楽しそうでいいな、いいな」
心底うらやましそうに言われると、ちょっと俺も得意になる。へへ、そう? まあ付き合いはじめなので。そりゃ楽しいさ。
といったところで、俺は買い物に出ることにした。そろそろ肉を買ってこないと夕飯がつくれない。
「お兄ちゃんタンね、タン。ねぎ塩。あとレバー、カルビはちょっとでいい」
「いつも思うけどなんかお前好みがフケてるよな……」
「脂っこいの苦手なだけよ」
なんて、やりとりをして。
買い物している間もちょくちょくスマホを見ていたが、返信は来なかった。
そして帰宅。夕飯をつくり、父は帰りが遅いようなので二人だけでテレビを見ながら食べる。
食べ終わって食器を洗う間も横にスマホを置いていたが、やはり返信はない。
「お風呂、わたし今日シャワーだけだから先入るね」
「いいよ。行ってきな」
ユズがあがり、俺も入浴を済ませ。
脱衣所に置いていたスマホを見ても、まだ返信はない。
……なんか返信遅いな? どうかしたんだろうか。
べつに見返してみても変な文面ではないし、返事に困るものではないと思うのだが……
そう思ってもこないものは、こない。
返信がこない。
――そうして、週が明けた。