その6 そしてお付き合いがはじまる
とは言っても気配を読むことについては初心者の俺だ。
日の暮れかけた道を歩き、時折辺りを警戒して――新御堂に教えられたように視線のラインを探って目配せしながら歩いたものの、ついに白野を見つけることはなくバス停に着く。
「はぁ」
週の終わりであるが、今日は結局一度も遭遇できていない。
一応一組にも寄ってはみたのだが、やっぱり今日も会えなかった。
もう俺が訪ねるのも恒例になってきたので一組の例の女子にも「ついさっきまでそこにいたのに、いま探すと見当たらないのよね……なんかごめんね?」と同情の目を向けられたくらいである。
過度に接触しすぎないように避けられてる感が、ある。
仕方ないけどさ。
息がしづらくなるんだもんな。……こう言うとなんか俺、アレルギーの原因みたいだな。
「土日は会えないだろうし、また次に接触できるのは月曜以降、か」
今日一日会えなかったことにさみしさを覚えてつぶやき、俺はやってきたバスに乗る。あとは自宅近くに着くまで揺られるだけだ。俺は気を抜いた。
ぼーっとしながら、スマホを取り出してアプリでも開こうとする。
――そのとき。
まだアプリを起動していない真っ暗な画面が。
ちょうど鏡面のようになって、俺の後方を映した。
「…………んん?」
もぞもぞ、と。
最奥の列のシートの陰に、黒い影が動いた。
そーっと振り返ってみる。
前方にはほかにお客さんもいたが、俺の後方はしーんとしてひとの気配がない。
でもよくよく見ると、やっぱり。シートの縁から、ひょこひょこと黒い髪がのぞいていた。
姿勢としては前傾になって、おなかを押さえているような格好である。
俺は気になって声をかけた。
「……あの、もしもし? 具合が悪いとかですか?」
様子をうかがおうと思って席を立ち、近づきながら言う。
人影はびくりとした。腹痛か、吐き気かな。
「次の次のバス停で最寄りの内科ありますけど、よかったらついてきましょうか」
視線を合わせようと屈みながら最奥の席に来て。
間近なところまで来て、俺は話しかけた相手が髪の長い女の子であることと、座席に置かれた学生カバンの存在とに気づいた。
柔軟剤だろうか、ほのかに甘い香りがする。なんというか女子っぽい空気がそこに沈殿していた。
それくらい、近くに来てしまった段階で。
「具合悪くて耐えられないようなら、次のバス停で止めてもらいますけ、ど……」
声をかけていた俺はようやく、気が付いた。
あっ。
このなんか荒い息遣い。既視感。
「………………っち、っちちちち、近っ、すぎてっ、んんぅっ。ふっ、はぁっ……やっ……息が……苦しっ……!」
喘ぎはじめた。
前傾姿勢でスマホを抱えながら、白野かなたがぷるぷる震えていた。
まさかここで会うとは思わず、俺もドキっとして胸を押さえた。
「……あの、とりあえず、距離取るから」
「お、お願い、はふぁ、しまっ、~~っ……」
なにか堪えるようにしている白野からすすすと距離を取る。バスの最奥の列で、白野が右手の一番奥。俺が左の一番奥に位置することになった。
この距離ならぎりぎり大丈夫なようで、「ぷはぁ!」と長い素潜りを終えたかのように白野は息継ぎをした。
「ごめんなさい……もう大丈夫、です」
「よかった。というか体調は?」
「あ、いえ。もともと具合は悪くなくて、その。浦木くんがこっちを向いたから、あわてて頭を下げただけというか」
「あわてて?」
「いえ……その……」
こっちから目を逸らしながら、膝の上に置いていたスマホをゆっくーりゆっくーり脇にどけて、俺の視界から外そうとしている。
じ、っとその様を見つめていると、やがて観念したのかおずおずとこちらにスマホを差し出してきた。
画面をのぞきこむ。……俺の後ろ姿が、盗撮されている……。
あっ。
俺、たしかにさっき、もうあと家帰るだけだなーって感じに『気を抜いた』っけ……!
これか。これがお前の言ってたことなんだな、新御堂!
「けっ、消します。いま消しますので!」
妙な感動を覚えて固まっていると、白野は俺が盗撮のショックに固まっていると勘違いしたのか、震える指で操作して画像を削除しようとする。
「あ。いやべつに写真撮られるのは構わないんだけど」
「えっ! 寛大!」
「なんだったら、撮りたいときに言ってくれれば請け負うよ。そんな後ろ姿じゃなくっても」
気軽にどうぞ、と提案してみる。
だが白野はぶんぶんっ、と首を激しく横に振ると両サイドの髪を握ってもじもじしはじめた。どうもこのポーズが気恥ずかしいときの防御姿勢らしい。あざとい。
「やっ……ありがたいお申し出なのですが、私としては自然なままのお姿を写真に納めたいという感じでやってまして」
「そうなの?」
「正面からのお姿だと目が合ってしまって、じっと見返せないですし。固まってしまいます」
「そんなバジリスクみたいに言われても……」
考えてみたら白野、俺と目を合わせたことがほとんどない。
こっちを向いてても大抵喉元か胸元の辺りを見てる。そういう理由だったか。
「ていうか、なに? きみも家はこっちの方なの?」
「いえ、自宅は地下鉄乗っていくので反対方向です」
「ならなんでバスに」
俺が首をかしげると、かーっと赤くなった白野は縮こまって窓際に身を押し込め、ぼそぼそとつぶやいた。
「い、一緒に下校しているような気分を味わいたく思いまして。先回りして、ひとつ先の停留所から乗ってきました」
えへ、と笑っている。可愛い。
でもそんな回りくどいことするくらいならもう直接声かけて、一緒に帰ろうと言ってくれればいいのに……まあできないからそんなやり方になってるのか。
「ひょっとして、今日も俺を追いかけて動いてくれてた?」
「ええ。今日はとくにお困りごともないようだったので、お声がけすることはなかったのですが」
「まあ、うん。たしかに、すごく困ってるってことはなかったけど」
「あれっ。なにかお困りのことがありましたかっ?」
自分の至らなさを責めるかのような顔つきで、白野は弱弱しい声を出した。
まあ、困ってたというか。
「じつは俺、ずっと白野を探してたんだ」
「! な、なぜ浦木くんが! 私などを、お探しに……!」
「えーといやそのなに、大したことじゃないんだけどさ」
過剰なほどびっくりした反応をされたのでこっちもビビってしまい、予防線を張るような真似をしてしまった。
落ち着け。落ち着くんだ。
せっかく二人きりの時間が持てたんだ。……いやでもこの場で告白はさすがにアレだな。じゃあせめて次の機会を得られるように仕向けよう。
俺は深呼吸して、ゆっくりと語り出す。
「この前から白野、いつも俺を助けてくれるというか、訪ねてくれてたから」
「は、はい」
「今日は一度も会えてないな、と思って。違和感があったというか」
遠回しな言い方でも好意を伝えるには勇気が要って、語尾がしおしおと縮んだ。
でもここまで口にしたので、勢い任せで言い切る。
「さ、さみしかった、というか。ね」
二人の間に沈黙が落ちる。
ぶううん、とバスが左折していく音だけが長く伸びていく。
さすがにまっすぐ顔を見るようなことはできず、俺はうつむいて反応を待つ。
視界の端で、白野の手が彼女の太腿の上でわちゃわちゃした動きをしているのが見えた。混乱しているようだった。
「え、え、ええええっ? さっ、さみしかった、とは……」
「あー、うん。ここんとこ毎日なんかしらのかたちで会ってたから、急にそれがなくなった感じがして。会えないと、その。さみしいなー、と。会いたいな、と思って」
「あっあのっあのあのっ! そんなこと、言われますとっ」
「うん?」
「あの……お困りでないときとか、ご用事がないときに、会いに行ってもいいので……?」
「そりゃいいよ、もちろん!」
顔を上げて、白野を見つめる。
ちょうどこっちを向いたところだったらしい彼女も頬をぼっと赤くして、両手で顔を覆うと首をふりふり、窓ガラスに身体を押し付けるような動きをはじめた。「うう~」と喉奥でうめき声を押し殺すような音もしている。
「すいませっ、ちょっ、感極まっちゃって……」
「感極まってたんだいまの……」
今度こそ本当に具合が悪くなったのかと心配してしまった。
涙目でこちらをちらちらしている白野は、はぁー、と長く息を吐いて呼吸を整えるとあらためて俺に向き直った。
「……もしかしてご迷惑をおかけしていたのではないかと、内心はらはらしてたので」
「なんで?」
「私、休み時間になるといつも浦木くんのご様子をうかがいに行ってたんですよ。それで今日クラスのひとから、休み時間になると入れ違いにいつも来るひとがいる、と聞いて」
「あ、それ俺のことだ」
「はいっ。私もクラスのひとが言っていた特徴から浦木くんだと気づきました。それで、もしや浦木くんが私の訪問を迷惑に思っており、やめてほしいと言いに来ていたのかなーと……」
「あー。で、今日は訪ねて来なかったと」
「本日はさほどお困りのこともないようでしたので……」
そわそわとしながら白野は言った。
そういう事情だったか、と理解した俺は安堵した。
俺が教室に訪ねていたのが白野にとって負担になっていないかと、こっちもちょっぴり案じていたのだ。
「じゃあお互い、気を遣ってたってことで」
「そ、そうなりますね。恐縮です」
「いや恐縮しなくても」
「浦木くんのお心をわずらわせるなんて、恐縮するしかないですよ! そのお心は私などではなくもっと別のことに向けられるべきかと!」
「そんなこと言われても――」
「言われても?」
「…………、」
――もうむしろほかのことに関心がいかないくらいなんですが。
なんて。言えるはずもない。
黙り込んでしまい、二人の間に沈黙が落ちた。
うわあ。いたたまれない。
緊張して、喉からまったく声が出てこない。
心臓が変な動きをしている。ちょっとしたことで止まるんじゃないかと思えるほど苦しい。
「浦木くん」
「ふぇぁいっ?!」
「ど、どうしたんですかそんな悲鳴をあげて」
「ああ……いやべつに。考え事で気を取られてて」
はははと空笑いでごまかしながら胸を押さえる。白野は不思議そうにしていた。
次いでもじもじと指先を絡めてはほどき、手元をわちゃわちゃさせながら言う。
「なら良いのですが。そのー、浦木くん。先ほど仰っていた、ことですが。……本当にこれから私、とくに用事がなくともお会いして、いただけるのですか……?」
「あ、ああそれか。いいよ。世間話でもしにきてくれれば」
「それでは、今度からたまに。浦木くんがお手すきのときなどを見計らって。お訪ねします……いいんですよね? 本当に、本当にいいんですね?」
「大丈夫、大丈夫」
「はぁぁう……! いまからなにをお話しするべきか、案を練らなきゃ。綿密な計画を立てて、無駄のないお時間を過ごしていただかなくては……」
両手を合わせて、うれしそうに、白野は笑った。
本当にうれしそうだった。
ささいな俺との会話に一喜一憂して、まっすぐな感情でくるくると表情を変える。
その様がたまらなくて、目を奪われる。
会って一週間も経っていないのに。
頭の中が占められていて。
白野の仕草ひとつひとつが気になって。
ずっと見ていたいと、俺はそう思った。
けれど白野はいそいそと身支度をしていて、カバンとスマホを手元に引き寄せていた。
「ではでは……ご帰宅に途中までご一緒できて、感無量でした」
「あ、もう、帰るのか」
「はい。次お会いできたときにお話することを考えるためにも、今日はお先にお暇させていただきます」
通路に出るためにちょっと俺に近づくことになるので、「んっ……」と一瞬艶っぽい声を漏らしてから、白野はぺこりと一礼する。バスはいつの間にか速度を落としており、次の停留所が迫っていた。
乗降口のところでもう一度頭を下げて、白野が降りていく。
彼女がいなくなった途端に、車内に差し込む日が急に陰ったような気がした。
すっと気温が冷え込んで、心臓に痛みが走る。
そう、痛みだ。さっきまでの苦しさとはちがう。
白野が去っていくことに対して覚えたさみしさが、胸の奥深くで冷たい痛みを発しているのだった。
バスの中には俺とこの痛みだけ取り残されそうになって、
気が付くと、
ビーっというドアの閉まる音を背に、俺は飛び出していた。
「……えっ、あれっ! なぜ浦木くんも降りているのですかっ? ご自宅はまだだいぶ先の方でしたよね?」
驚きすくんでいる白野から二歩半くらいのところに着地した俺は、膝に手をついた。
肩で息をしているのは、急に動いたからというわけじゃなく。
意志に反して動きの鈍い身体を、無理に従わせたからだろう。
「まだ……白野と、話がしたくて、……話を、聞いて、ほしくて」
かろうじてそれだけ言って、細く長い息を吐く。
戸惑っている白野はぎゅっとカバンを掻き抱いて、俺を見つめている。
言いたいことはうまくまとまっていない。
もっと話す機会をつくって仲良くなってからの方がいいんじゃないか、とか。なんでこの場? もっと場所考えろよせめて体育館裏だろう、とか。冷静な自分の考えも頭をよぎる。
でも。
それでも、だ。
心臓の痛みが、ここで言えと衝動を後押ししている。
想いのままに、俺は言葉を発した。
「白野。――告白してもらって、俺。うれしかった」
まっすぐに目を見る。
白野があわてて目を逸らす。
けれど静かに、こくりとうなずいた。
「毎日会って、ちょっとしたことだけど、俺に世話焼いてくれて……いやちがうな。べつに世話焼いてくれるとかでなくてもよかったんだ。ただ会いに来てくれるだけで、顔が見れるだけで、よかった。白野は……すごい、可愛くて。会えると、うれしい。一緒にいて、楽しいんだ」
ぜんぜん息がつづかなくて、深呼吸した。
心臓はいよいよもって限界に近い早鐘を打つ。
全力の一言。
もうこれ以上ないってくらいに、気力を振り絞って。
俺は、白野に告げた。
「だから、言うよ。俺、白野のこと好きだ」
すべての音が奪い去られて、自分の心音しか聞こえなくなる。
目を見開いてこちらを見た白野は、すぐにうつむいてしまった。垂れ落ちる前髪の隙間から顔色はうかがえず。どうすればいいかわからないまま俺は空気に取り残される。
しんとした沈黙が耳を刺す。
白野は動かない。俺も動けない。ずっとこの時間がつづくのではないかと、だんだん恐ろしくなってくる。
ややあって。
白野は、恐れるかのようにふるふると、ゆっくり首を横に振った。
「……浦木くん、それは、その。あの。……過分なお言葉で、私にはもったいないくらいで」
「もったいなくなんか、ないよ。俺はそう思ってる」
「でも……そう言っていただいても、私は」
カバンをぎゅっと抱いて身を震わせる。
「恋人には、なれないですし」
「いいよべつに」
自然と、そんな言葉が出てきた。
白野は呆気に取られた様子で顔を上げる。
俺の頬が緩む。
「いや、本音を言えば恋人、ってかたちになりたいんだけど……白野の中での『恋人』ってのと俺の思う『恋人』が一緒じゃない可能性もあるかなと」
「浦木くんの思う、ですか」
「あのとき白野は『近づけないから恋人は無理』ってことを言ったけど。べつに俺は『近づけない恋人』っていうのも、ありだと思ってる」
距離は開いて、二歩半。
いまの二人の間を隔てる、限界距離。
でもこれくらい離れていれば、ちゃんと話もできる。だったらそれでいい。それがいい。
そんな俺の考えがよくわからないのか、白野は不安そうに問うてきた。
「では、浦木くんは距離以外のなにをもって、その。こっ、恋人……、と呼ぶのですか?」
「だれより白野を大事に想っていて、だれよりも白野をよろこばせたいと思ってる。……そういう奴がここにいるって認めてくれれば、それで」
言葉にしてみたら本当に単純だった。
けれど、そんなことを想える相手がいたことなんて、いままでなかった。
だからその気持ちの在り様が、たぶん恋だと思った。
「認める……それだけで?」
「うん。それ以外は、いまはいい」
俺はただ、自分にとって白野が特別だということを、白野本人に知ってほしくて……できれば、そういう奴がいるって受け入れてほしかった。それだけ。
あとはもう白野がなにを望むかだった。
なにも望まないなら、俺も望まない。
でも、もしも。なにか望んでくれるのなら、俺は全力で叶えたい。
それだけだった。
「…………いいん、ですか?」
ぽつりとつぶやき、白野は胸に抱いていたカバンをゆっくりと肩に提げ直す。
「私、なにひとつ浦木くんにあげられませんけど」
「白野がうれしそうだったら、それが見返りになるからいいよ」
パンをもらったときに白野から言われたことと、ほぼ同じ意味合いの言葉だった。
向こうも気づいたのか、恥ずかしそうに苦笑する。
二人の間で、ひとつ秘密を共有したような気分だった。
白野は片手で顔を押さえ、一度だけしゃくりあげるような声を漏らした。
はぁー、と深く息を吐き。
掌を下ろすと、赤く潤んだ瞳で俺を見つめた。
「でしたら……何卒」
両手をおなかの前で重ねて、ぺこりと頭を下げて白野は言った。
よろしくお願いします、の意だとしばらくの間気づけなくて、俺は固まっていた。
「い、いいの?」
「はい……不肖の私です、きょ、距離としてはお近づきにはなれませんが……」
二歩半。限界の距離の向こうで、白野は震えている。
でもこの距離で接することを許してくれた。
変な距離感だろうし、あまり周囲に理解してもらえないだろうけど。
それでもこれが二人だけのものであるなら、俺にとってはなににも代えがたい。
いろいろ、大変なことは予想されるけど――乗り越えていけると信じたい。
「何卒、恋人として。お付き合いのほどを、よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ!」
互いに頭を下げ合って、どちらともなく照れ笑いを浮かべる。
温かでやわらかなものが胸の中に満ちあふれるように感じる。
だれかを想うということ。
想い合うということ。
それはこんなにもすばらしいことなんだなと、俺は噛み締めていた――――――
――けれど。
このときの俺はまだ気づいていなかった。
この白野かなたという人物が、
俺の想像のさらに数倍、面倒なところの多い人物だということに……!