その17 俺と彼女の1on1
翌日。
一限が終わり、休憩に入ってすぐに俺はたたっと駆け出し一組へ向かった。短い休み時間に出向くのはどうなのかと迷ったが、早く謝りたい気持ちを優先した。
果たして白野は――いた。
教室の奥から二番目の列、最後尾に席を取った白野の姿があった。
考えてみれば教室にいる白野を見るのははじめてのことである。なんか新鮮。
でも俺は、なぜか白野を二度見することになった。
なんていうんだろ。……未視感っていうんだっけ?
見慣れたはずの白野にどこか異質さ――はじめて見るような違和感――を抱いた。
「……あれ?」
背筋を正し、黒板の方を向きながらてきぱきと机の上を片付けている。
その横顔は、いつも俺が見慣れていたあのへにゃっとした感じは一切ない。
硬い印象だ。よく言えば凛々しい。
顎を引いてキリっとした表情をしていた。
今度は、その顔の印象に、既視感を抱く。
そうだ、このかちこちになった表情。髪型こそいまはふわっとした軽い印象に変わっているが、この表情で髪を手入れしない伸ばしっぱなしにしたら……そのまま、ユズにもらった写真に写っていた白野だ。
佐倉に通っていた頃はこうだったのだろう、と瞬時に納得させられる。
机の上に置かれた物は、どれも角に対して九〇度に保たれており。ノートに書きこまれた字でさえ以前見た丸みを帯びた字とは少し異なり、几帳面に罫線に整列している。
なんとも他を寄せ付けない。
浮いた感じで、教室の中に鎮座していた。
「……えーと、これはいったい」
「……っ! う、浦木くん!」
が、入り口のところに現れた俺を見た途端にさっきまで漂わせていたピシっとした空気が粉々に砕ける。
いつもの白野だった。浦木が目にする、いつもの。
「あ、う、う、え、えーとえーと……すいませんっ!」
「え、あ、おいっ!」
またしても脱兎のごとく。足元につむじ巻くような速度で、白野はベランダへ出て外伝いにどこか他の教室へ逃げた。は、速すぎる。まさかここまで反射的に逃走されるほどの好感度になってたなんて……!
呆然としたまま残された俺は、一組の人々からじっと見つめられた。
「……浦木、だよね? なんかしたの、白野さんに」
話しかけてきたのは一組の、以前俺が白野を訪ねてきてた頃に何度か応対してくれた女子だった。
「なんていうか。俺が白野の気持ち考えないことしちゃった、って感じ」
「あー夫婦喧嘩かぁ」
「いや夫婦じゃないし」
「でも付き合ってるんでしょ?」
「……まあ、そうです」
一組の女子は後ろを向いて、周りにいた女子たちと目配せを飛ばしあった。何人かがにやっとしていた。
なんだよ。面白いネタが入ったみたいな反応すんなよ、おい。
「だってあの《鉄壁》と名高い白野さんが付き合ってるって、面白いネタっしょ」
「名高いって、一組のあんたらが呼んでるだけだろ。あとナチュラルに俺の心を読むなよ」
「ごめんて。でも、そのあだ名は佐倉にいた頃かららしいわよ? 佐倉出身の子が言ってた」
あ、そうなんだ。……あの学園祭とか部活の写真を見る限り、そういうあだ名になってても不思議はないか。
「で、そっちから訪ねて来た、ってことは浦木から謝ろうとしてんのよね」
「うん。でもあんな感じで、逃げられる」
「謝らせてもくれないってたいへんだぁ」
同情したような声音の女子。少しやさしさが沁みた。
そこで、俺は後ろからポンと肩を叩かれた。
だれだよと思って振り向いたら、知らない男子が俺の横を通り過ぎながらにやっと笑って自分の席らしきところで椅子に座った。
連れションでも行ってたのか、同じように後ろから来た一組の男子がほかにも数名。最初の奴と同じにポンポンポンポン肩を叩いては通り過ぎていく。なんだどうした。
そうして最後に肩を叩いた男が、俺にべったりした笑みを向けつつ掌を差し出してくる。
「フラれし者よ……おかえり、独り身へ! いまならカムバックキャンペーン実施中!」
「ソシャゲかよ。っていうかフラれてねえよまだ。っていうか初対面でド失礼だなお前ら!」
にやにやにやにちゃぁ、とこちらにイヤーな笑みを向けてきている数人を順に指さしながら言うと、奴らは順繰りに口を開いた。
「いやぁ、だってなぁ。そもそも分不相応だったんだよ浦木君」
「うんうん。おれたちからすると、高嶺の花オブ高嶺の花、すげえ美人な上に勉強も運動もなんでもできちゃうあの白野さんが」
「お前みたいな特筆すべき点のないモブっぽいのとくっついたってのは……この三週間ほど、ひどくおれらの心をかき乱してたくらいには分不相応だ」
「このまま破局までいってくれるとうれしいね」
「いつ別れんの?」
「はよ別れろ」
「すぐ別れろ」
「リア充死ね」
こ、こいつら……あれか。
新御堂が言ってた『白野と釣り合わない』って俺の噂してた連中か!
俺が合点いったのを察したかのように、奴らは腹をさすりながら俺を見て大笑いした。
「他人の不幸でメシがうまいぜ!」
「人間性がひでぇ……」
「こいつらこんなんだからモテないのよね」
「おい委員長正論はやめろ」「その術はおれに効く」「委員長、攻撃力高い女はみんな避けるからね」「つまりお前も同じ穴のムジナだよ……!」「同じ穴ってなんかエロくね」「たしかに」
「やかましい!」
委員長が一喝すると男子たちは黙った。ヒエラルキーが目に見えるようであった。
「……こほん。まあとにかく。浦木、ここ来るなら放課後じゃない? 放課後はベランダの鍵施錠するからあっちから逃げらんないし。白野さんの運動レベルだとルートが二つあるうちは捕まえらんないと思うわ」
「そうしよっかな……ありがと、委員長」
「ちょっ、浦木もそう呼ぶの? まあいいけど」
ばいばーい、と手を振られながら、休憩も終わり間近になったので自分のクラスへ戻る。
その間、俺はなんとなく考えてしまった。
……分不相応、か。
『ぜったいに選ばれる側じゃなくて選ぶ側だと思う』
ユズが白野を見たときに言ってたセリフがよみがえる。
俺はかぶりを振って、その言葉を頭から払いのけた。
+
放課後になり、担任の世良先生が「終礼ー」と声をかけるや否や駆け出す。
かつてない速度でだれよりも早く廊下に出た俺は、そのまま一組へと突撃していった。
すると向こうも考えることは同じだった。
俺を避けていち早く帰宅するためだろう、白野も廊下を駆けていた。
まだほかに廊下に出てきているひとは少なく。
一対一。
対決がはじまった。
「――――白野ぉっっ!!」
「ひっ、浦木くん?!」
俺の声に気づき、一瞬ひるんだ顔をして。
しかしすぐに表情を引き締めた白野は、肩にかけたカバンの紐をぎゅっと握って俺に向かって走り込んできた。
一階への階段は俺の後方にある。
どうあっても俺とぶつからなくてはならない、このすれちがいが勝負だ。
ここで――止める!
そして謝る!
決意と共に両手を広げ待ち構え、どんどん視界の中の白野が大きくなっていく。
一歩一歩の歩幅が大きく、力強い。
やがて。
残り距離が二メートルを割ったところで。
白野は急激に、歩幅を縮め緩急をつけた。
チェンジオブペース! 速度に慣れた俺の目に映る白野が停滞し、タイミングがずれる。
それでも腕のリーチでなんとか捕えようと構えつづけた。
そこで、白野の身体が右に傾く。
届け、と左腕を伸ばす。
指先が、白野の右肩をかすめ――――ようとしたところで、ギュキっと高い音が響いた。
「――んゃぅっ!」
俺と近づきすぎたためにあがる嬌声がたなびき。
白野が消える。
いや、体が追いつかないだけで認識はしていた。
見えてはいた。
右足に体重をかけるかと思いきや――左足を右足より外に踏み込み、不安定な姿勢でぐるんと右回転し俺に一瞬背を向けながら身を屈め、右手側へ抜けていったのだ!
なんつー鮮やかなターンだよ!
「これは各部活に誘われるわ……」
言ってる場合じゃない。
すぐに振り返り、俺は追いかける。だがここで稼がれた二秒でわらわらと廊下に流出する生徒の壁が増えており、俺と白野の間に距離を生んでいく。
階段にたどり着いたときには、白野はもう踊り場に飛んだところだった。それもまた着地の一歩で鋭角に切り返し次の階段へ飛んでいく、恐るべきVターンを駆使していた。
基礎的な身体能力に差があり過ぎる。
「ま、待……」
待たない。一切容赦ない。
なんとか追いつこうと俺も三段飛ばしで駆け下りるが、はかない抵抗だった。それでもやめるわけにはいかず、へろへろで走る。
校門だと走っていった場合生徒指導に止められるからか、一階に降りた白野はクラブ棟へ向かっていった。校舎の窓側にあるグラウンドの向こうにあるクラブ棟は、裏手に森林公園があるのでそこから帰ることもできなくはない。
グラウンドを斜めに突っ切っていく白野を、すでに三十メートルは離されている俺が食い下がる。
公園に入ったらおしまいだ。森の中へ無駄に広く長く張り巡らされたウォーキングコースはひとを撤くにはうってつけである。
三階建てのクラブ棟の影に入り、白野はペース落とさず森を目指していく。
もうダメだ。追いつけない。
どうにもならなくなって、俺は酸素が足りなくなってきた頭でぼんやりと白野の後ろ姿を見つめながら、ぜえぜえ言いながら魔法の呪文を叫んだ。
「ま、待てよ……か……――かなたぁっ!」
「ふゃぅっっ!?」
びくっとして白野が足つったように動きを止めしゃがみこんだ。いまだ! と俺は速度を上げ――ることはもうできなかったので、とりあえず速度を落とさないようにしながら追いつく。
自分の体を抱きしめるような恰好で屈んでいた白野は、ぜえぜえ言いながら追いついてきた俺を見てあわあわしていた。
「や、やっ、と……追いつい、た……」
「う、浦木くん……」
あんまり運動しないので急な激しいランニングに耐えきれず、ちょっと吐きそうだ。うえ、げほげほ言って声も出ない。
しばらくしゃべることもできず、白野の前で木の幹に手をつきながら呼吸を整えた。その間、白野は逃げ出すこともなく、カバンの中をごそごそやっていた。
「あ、あの。お茶です」
「あ? あー……ありが、と……」
まだ未開封だったペットボトルを投げてもらい、ぐびぐびと一気に半分ほど飲んだ。ちょっとむせた。
あー……とひと息ついて。
やっと落ち着いた俺が見やると、しゃがんだままの白野がそこにいた。
じっと、身じろぎひとつせず。
俺を見上げて、そそくさと目を逸らした。
「……急に名前呼んで、ごめん」
「い、いえ」
「それと」
地面に膝をつき、白野と視線の高さを合わせた。
両手も地面に置いて、俺は頭を下げる。
目を閉じたまま祈るように、白野に謝った。
「ごめん。この間、寝てるときに写真撮ったこと。軽率だった」
「え、ええええ! いやそんな浦木くっ、顔を上げっ」
「いやダメだ。そんな、白野が逃げ回りたくなるくらい嫌だったのを、大して考えもせずただ自分が写真ほしかったって理由だけで……馬鹿だったよ。本当にごめん」
「いやちがっ、嫌とかではなくですね、ていうかそんなにほしかったんですか写真!?」
「……うん。好きなひとの写真だから、どうしてもほしかった」
「す、好きな、ひと、って、~っ……」
「でも白野を傷つけるようなことだったから、二度としない」
「……へ、はい? 傷つけ、え?」
「考えてみたらむかしの写真も見られたくなかったみたいだし、白野は写真自体が苦手なのかなって、いまはやっといろいろ考えをめぐらしてる」
「……あの、べつにですね」
「もっと最初から白野がどう思うか考えて、わからないときは訊くべきだったと反省してる」
「いえその。浦木くん」
「だから、むしのいい話だとは思うけど……もう一度、やり直したいと! そう思って、謝りに来ました! ごめんなさい、本当にごめんなさ」「ちょっちょっと私の話も聞いてくださいっ!」
遮られたので、俺は素直に口をつぐんだ。でもまだ顔は上げない。
白野が俺の頭より少し高い位置で、こほんと咳払いしている声が聞こえた。
「……あのですね浦木くん。まず根本的なところからご説明いたしますが……私、怒っていないのです」
「……え?」
「というわけで顔を上げてください」
「あ、はい」
そろそろと顔を上向けて、下から見上げるように白野を見た。普段は身長差から俺が見下ろすことばかりなので、こういう角度の顔を見るのはめずらしいなと思った。
俺と膝を突き合わせた白野はたしかに怒っておらず、むしろ戸惑った顔をしていた。
「えとですね。写真も、苦手というわけではないです」
「え、そうなの」
「はい。べつに、ほしいのでしたら、撮っていただいてもかまいません」
「本当に?」
「本当です。ただ、寝顔は……少し、恥ずかしかったですが」
口許を片手で隠して目を背ける。やっぱり恥ずかしかったか、と申し訳ない気分になった俺はもう一度「ごめん」と謝った。白野は「いえ、ですから大丈夫です」とささやき声で言った。
「じゃあ、なんで昨日今日とこんなに逃げたの……?」
「それは……その。あの写真の距離が、あまりに、近かったものですから……」
言われて思い返す。たしかに、せっかくだから大きく撮ろうと思ってかなり接写した。顔のアップにするべく、三十センチくらいまで身を乗り出したろう。
白野は林檎のように赤い頬をむにゃむにゃさせた。口許を隠していた片手が離れると、唇がゆるんでいるのが明らかになる。
「で、ですから。そんな近くで、じいっと見つめられていたのだと思ったら……感極まって、わぁー、っとなってしまいまして。恥ずかしくて、感情の処理が追い付かず……」
ぎゅっと目を閉じ両手で顔を覆う。
首筋から耳までが真っ赤になって、覆われる直前に見えた恥ずかしそうな眉のしなだれ方がやけに印象に残った。
「だから、逃げたのか……?」
「そうなのです。すみません、ご心配おかけして」
「や、俺が原因なんだから構わないんだけども」
「ですか。……にしても、あぁ……あんな大胆な距離に浦木くんがいたなんて、想像するだけで……うぅー」
首をふりふり震え声で言う白野だが、そこまで言われることではないような……そんなささいなことで、と言いかけたものの。
昨日新御堂が言っていたことを、思い出す。
『ささい』かそうでないかは、相手の。つまり白野の捉え方感じ方次第ってこと。
その距離まで近づいて見つめられていたことが、白野にとってはすごく気恥ずかしくて、それでいて重大な出来事だったのだ。
「それこそ……さ、触ったりできる距離でしたし……」
「してないしてないっ、してないからね、俺!」
「あれ。そうなのですか」
「無断で写真撮った身でなに言っても信憑性ないとは思うけど、触るとかはしてないから!」
「え……私てっきり……体に触れられていたのかと思って、それもあってわぁー、となっていたのですが」
「してないです」
信じてもらう以外になにも手段がないけど、そう口にする。
すると白野はじっと俺の両手に目を落として、しばらく黙り込んでいた。信用に足るかどうか見定められているのだろうか……と膝の上で握った拳にさらに力を込め、俺は白野の言葉を待った。
ややあって、彼女はぽつりと漏らした。
「そうですか。少し、残念です」
「え」
「……私からは、浦木くんに触れられませんから。きっと恥ずかしくて、気絶しちゃうので」
むずがゆいような顔で曖昧に笑う白野は自分の掌に目を向けて、さみしそうに手を閉じた。
……えっと。俺が触れてないって宣言に、「残念」って言ったよな、いま。
それは、その……触れることができるのが、うらやましいって意味?
それは、つまり……俺に触れてみたいと思ってるってこと?
つまり、要するに……俺から触れてもOKってこと?
……………………いやいやいやいやいやいや早合点はダメだ。
ついさっきまで写真のことでやらかしたーと思ってたのに、ここでまた勘違いして変な気を起こせば元の木阿弥だ!
冷静に。あくまで冷静に、対処しよう。
「そうだな。白野からは、触れられないもんな」
「ええ。浦木くんがうらやましいです」
「……なにがうらやましいの?」
「やろうと思えば、私に触れることもできるじゃありませんか。まあ、意識があるときならば反射的に抵抗してしまうでしょうけど……」
膝の間で重ねた両手をもじもじさせながら、白野はちらちらと上目遣いに俺を見ていた。
……えっと。
意識があるときなら反射的に抵抗する=意識がないときなら大丈夫、って意味?
いやちがうな。
ちがうよな。それは飛躍しすぎてる。その数式のイコールは間違いだな。俺はかぶりを振って目を逸らし、頬を掻きながらぼそぼそと返した。
「まあ、でも。そりゃあ、『やろうと思えば』の話だろ……」
「……やろうとは思わないのですか?」
おっと俺への意志確認が入った。
返事は『はい』か『いいえ』の二択に絞られる。
……そうか。わかったぞ。
この問いは俺の気持ちを試している。
一度寝顔の盗撮に至ってしまった俺が、またよからぬことを企んだりしないよう、牽制するための確認だ。間違いない。
となれば『否』と明確に宣言すれば白野も安心できるだろう!
「いいや。そんなことやろうとは思わない」
「………………………………………………………………………………………そう、ですか……」
ええええええ!
なんでめちゃくちゃ落ち込んでんの!?
いまの俺の回答のどこに不備があった?!
「ちょっ、ちょっと確認いい? 白野」
「はい?」
こてんと首をかしげて白野が反応する。その顔色からはいったいなにを望んでいるのかまったく読み取れない……俺はなんでも明け透けに顔に出てるってのになぁ。
ともあれ、わからないものは訊くしかない。
一時の恥というやつだ、それくらいは我慢しよう!
「あの……もしもあのとき、俺が白野に触ってたとしても……怒られなかった?」
「……みなまで言わせないでください」
瞳を潤ませた白野は下唇を噛んでうつむき、ぷるぷる震えはじめた。
その様を見ているうち、俺の心臓がヤバい動きをはじめる。
触れても怒られないの……? と考えた瞬間に不整脈が起きそうになった。
頭の中を、白野に触れようとする図が駆け巡る――
――いやいやいやいやいやいやいやいや。
不埒な想像はよせ。
健全に。健全にいこう、ね。
「……じゃあ、その。もし仮に。仮にね?」
「はいっ」
「今度、白野が寝てたとして……」
「は、はいっ」
居住まいを正した白野と向き合い。
俺はのぼせた頭で、勢い任せに確認を取った。
「て、手をつなぐとか、髪を撫でるとか、抱きしめるとかしても――怒らない?」
「え、それだけですか?」
「えっ」
「…………あっ」
明らかにしまった、という口調の一音のあと、白野は硬直した。
長い数秒が、そのまま過ぎていった。
それは風が吹いたのと同時にだったのか、あるいは白野の動きの速さが風を巻き起こしたのか。
とにかくどっちかわからないくらいものすごいスピードで白野は近くの木の裏に駆け込み、俺から見えなくなった。
「わすれてください忘れてください忘れてください――っ!! いまのはどうか、聞かなかったことにっっ!!」
「あ、うん……はい」
全霊の叫びにうろたえて、立ち上がりかけていた俺はその言葉を受け入れてしまった。
でも頭の中では「…………あっ」と言った瞬間の白野がなにを考えていたのか、ひたすらその妄想だけがぐるぐると渦を巻いていた。
だって「それだけですか」と訊ねてきたってことは、手をつなぐのでも髪を撫でるのでも抱きしめるのでもないことを白野が考えてたってわけで……それ以外の、体に触れることっていうと……ああああぁぁやばいやばいやばいやばい落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け!
「……あのっ、……本当に、いまのは……忘れてほしい、です」
こそっと木の陰から半分だけ出した顔でこっちを見つつ、茹で上がったような頬に不安の色を載せた白野がなんと言っていいかわからないという表情を浮かべている。
なんならもうその顔だけでも煽情的だった。
俺は中腰の姿勢だったが、バっと後ろを向いて前屈みになった。ダメだね。もうそっちを向くことはできませんね。
「し、白野……十分。十分間、俺にくれ」
「え、えっ?」
「十分経ったら、もうお互いに……いまの話は、なかったことにしよう」
「あっ。はいっ!」
同意の下、一旦会話をリセットするために時間を置いた。
俺は森を吹き抜ける風に耳を澄まし、地面の落ち葉を数えて無心になろうと努力した……。