その15 シナリオ通りにゃすすまない
リビングに案内して、ソファを勧める。白野は失礼します、とスカートの裾を払って座り込んだ。
きょろきょろと、視線をあっちこっちにめぐらしている。俺の生活空間がどんな感じかというのが気になっているようだ。
「ここが浦木くんのおうちですか……」
「お茶淹れるから、適当にくつろいでて。飲みたいものある?」
「は、はいっ。ちょっと、注文は考えます」
背筋をぴしっとして背もたれには一切体を付けないようにしている。
がちがちだ。まるでリラックスできていない。
胸に手を当て、すー、はー、と深呼吸して息を整えようとしているようだが……少しすると口許を押さえて上体を屈した。なんだどうした。
「こ、この空間に満ちた匂いが、浦木くんのものだと思うと……胸が、苦しく!」
「たしかに他人の家ってなんか独特な匂いを感じるけども俺だけじゃなくて妹も父親もここで暮らしてるから!」
「言われてみれば、たしかに」
はっとして普通に呼吸しはじめる。思い込みでそこまで体に影響が出るってすごいな。将来的には水で酔っぱらったりできそう。
「で、飲み物どうする?」
「では温かい緑茶で」
「ん、わかった」
俺は温めておいた急須へ茶葉を入れ、ミネラルウォーターを沸かした。
そっと湯を注いでお茶を淹れ。どうぞとローテーブルへお出しする。白野は静かに湯飲み茶碗へ手を添えた。いただきます、とお茶を口へ運ぶ。
「結構なお点前で……」
「いえいえ。お菓子も食べていいから」
「あ、ではいただきます」
ぎくしゃくゆっくりとテーブルのお茶請けに手を伸ばし、ぽりぽりあられをかじっている。
俺はキッチンと白野のいるソファの中間くらいへスツールを置いて腰かけ、その様を見守っていた。
いまのところは、予定通りだ。俺はほくそ笑む。
「ところで昼だけど、パスタでいいかな。ある程度下ごしらえはしたんだけ、」
ど、と言い終える前に白野はぽろりとあられを落とした。
「お、お昼ごはんを、つくってくださるのですか……?」
「せっかく家まで来てくれたし。普段は弁当だから冷めたものが多いけど、やっぱりあったかいうちに食べてもらう方がおいしいだろうし」
俺がキッチンの方を見やると、白野もそちらへ視線を向けた。
それから頭を抱えた。
「ど、どうしたの」
「まさかお昼ごはんをご相伴にあずかるとは、考えてもおらず!」
「……もしかしてもう食べてきちゃった?」
「そうなのです……おなかが空いたなどと口にしてご迷惑をおかけするわけにもいきませんので、自宅で昼を……それもパスタを!」
「おお……そっか。昨日のうちにつくる予定だって連絡しとけばよかったな……」
白野、満腹のご様子。
俺は脳内で「昼食のパスタ」「デザートのケーキ」の段取りに大きくバッテンを付けた。
用意はしていたけど、仕方がない。切り替えよう。
そう思っていた俺の前で、白野はがばっと立ち上がった。
「ちょっとお出かけしてきてもかまいませんか」
「え、急になに」
「小一時間ほど外を走って、おなかを空かせてから戻ってきます」
「さすがに無理でしょそれは……走り回った直後に食べることできるとも思えないし」
「しかしそれでは悔やんでも悔やみきれません!」
「夕方に早めの夕飯ってことで食べればいいんじゃない? 家帰って食べないといけないって言うならあれだけど」
「家の夕食は……そう、ですね。なんとか、要らないと伝えてみます」
「や、あんま無理しないでいいからな?」
「無理を通します」
力強い言葉だった。これで白野家における俺への印象に影響ないといいけど。
さて、昼食はひとまずお流れになった。となると次は……
「じゃ、映画でも観る? のんびりできるし」
「はい……」
しおしおとしている白野の前に、おすすめのラインナップを並べた。
彼女は一通りタイトルを眺めてから、俺の方に上向けた掌を差し出した。
「では浦木くんのチョイスで」
「え、俺? 白野がなんか好みのとか気になるの選んでくれればいいんだけど」
「あまり映画も見たことがないもので、よくわからないのです」
小首をかしげて言う白野。
そんなもんかと思いながら、俺は無難そうな恋愛映画を選んだ。
ホラーを観て「キャッこわい」「ハハハ大丈夫だよこっちにおいで」みたいな展開にあこがれはあるけど、それやると白野の場合恐怖じゃなく俺のせいで気絶することになるしな……。
テレビの下にあるゲーム機にディスクを突っ込み、再生する。
すぐに配給会社のロゴとか、当時の近日発売映画の予告なんかが流れていった。
「浦木くんは休日、こうして映画を観るなどして過ごしておいでなのですか?」
「妹につられてだけど、よく観る方だと思う。金曜夜から土日でだいたいいつも三本は観るし」
「そうなのですか……私も映画、趣味にしましょうか」
「趣味って能動的につくるもんなのかな?」
「じ、自動的にできるものなのです?」
「興味持ったら勝手にハマってくんじゃないかな。うちの妹はそうやって映画にハマったし、友達の新御堂もベース演奏にハマってったな」
ユズはB級映画を観て大笑いした経験からハマった。新御堂はアニメでベースをぶん回すキャラを見てハマった。みんな意外とそんなもんだろう。
白野はというとなぜか考え込んだ様子で、「興味、ですか」とぼやいている。
「いまいち、よくわからないですね。くぎちゃんとかしゅーは、趣味に燃えている人々なのですが」
「しゅー……ああ、RUINのグループにあった名前だ」
「ええ。しゅーはバンドのライブと部活を生きがいにしてるひとですね。くぎちゃんはネットとゲーム。あ、前に浦木くんのフレンドになったゲーム、あれもくぎちゃんのサブアカウントを貸してもらったのです」
「道理でレベルとか所持キャラが時間とお金かかってそうだったわけだ……」
あと、ちょいちょい白野の言動に混じるなんらかの分野の用語らしきものの出どころもわかった。その友達二人からの影響なんだろう。
「ということは、白野は『興味を持てるものにいままで遭遇しなかった』ってことになるのかな」
「そうですね……興味を抱いて、執着したようなものは、ひとつしか」
「ひとつはあるんだ」
「え、ええ……それは、まあ……」
伸ばしていた背筋をちょこっと丸めて、膝の上に置いた掌をぎゅっと握り締めてスカートの裾にしわが寄った。
ちらりと、横目で俺を見る。
「……浦木くんです」
「……え?」
「浦木くんが、人生で一番興味を持ったものなんです……あ、やややっぱりいまのなしで!」
「いや、なしって言われてもこれはさすがに」
え、俺?
俺が趣味なの?
趣味:浦木工ですか?
首筋まで赤くした白野は身をよじって俺の方から目を逸らし、テレビ画面をにらんでいた。
あの、来訪直後からこんな発言をぶっこまれると困るんですが。
「浦木くん。え、映画映画。はじまりますよ」
「あ、うん。わかってるけども」
「集中しませんと。せっかくの映画ですから」
「集中するのは無理……というか、白野だって目ぇ泳いでるし」
「そんなことないです! 映画ひさしぶりなので、なんというか目が慣れてないだけですっ!」
強硬な態度で、白野は映画映画と言いつづけた。
しかし集中を欠いているのはお互い明白で、じーっと映画を観ているようで、気が付くと互いを目線で追っている。はっとして目を逸らす。
め、目が合うとどぎまぎする。全然映画の内容頭に入ってこないぞ。人生で一番? 人生で一番かぁ……そこまで思われてるなんて、さすがに思いもしなかったというか……やばいやばい顔が熱くなってきた。
「う、浦木くん。浦木くんは、映画以外のご趣味などないのですかっ?」
自分のことから意識を逸らそうと、白野は俺の方に話を振ってくる。
さすがにこの流れのままは俺も厳しかったので、前の話題から切り替えるように咳払いをいくつかして調子を整えてから、応えた。
「えーと俺? 趣味は、なんだろ……料理かな」
「なんと……それなのに私は昼食をとってくるなどという許されざるミスを……」
「落ち込まない落ち込まない。いくらでも食べる機会あるんだから」
「うう、そう言っていただけると気持ちが楽になります。しかし、なるほど。浦木くんの腕前は趣味で日々研鑽していたがためのものなのですね」
「最初は趣味ってわけでもなかったけどね。自分でつくるんだしせっかくならおいしいもの食べようと思っていろいろ試してるうちに、自然と日々情報集めるようになってた」
「ああ、わかります。私もいつの間にか日々自然と浦木くんの情報を集めるようになっておりました」
「……そっか」
結局どこから俺の情報漏れてんだろう。知ろうとしてくれている、ってのはうれしいからべつにいいんだけど。
「ま、結局は環境でだんだんと趣味になっていった、ってことじゃないかな。そんなに興味なくてはじめたことでも次第に趣味になる、っていうのも多いと思う」
「ははぁ。そういうものですか。私はそういったものがさっぱりなかったので」
「勉強とかは? 白野、成績すごくいいけど興味はないの」
「与えられた課題をこなすのは得意ですが、とくにやりたいことというわけではありませんね」
さらりと言ってのける。
そういや教科書も学校に置いていくようなタイプだったな。
「でもそれで学年トップってすごいよな、いまさらだけど」
「そんなことないですよ。上には上がいましたし、……まあ。なんといいますか。勉強には、少し疲れてしまったというのがあるかもしれません」
めずらしく歯切れの悪い様子で言い、口をつぐんだ。
俺では到底届かないような領域の話だけど、模試でも上位層となるとトップ争いとかそういうのが嫌になった、ってことだろうか。
だからランク下げて禾斗目に来た、と言うならわからない話でもない。
「部活も強制だからやってただけ、って言ってたっけ」
「バスケのことですか? そうですね……楽しかったですし、全力で取り組んでおりましたが、私のそれはコートの上だけでしたので」
「コートの上だけ?」
「はい。ほかの、もっと本気でやっている方々――しゅーとか――は、それこそ四六時中バスケのことを考えておりましたが。私はコートにいるときしか、考えておりませんでした。だから、ここまでだろうと。そう思ってしまったのですね」
懐かしむような顔つきで、白野は目線を遠くへ向けた。
しかし、それにしては結果が出せているような気がする。俺はユズからもらった写真を思い返しながら、ぼやいた。
「でも部活、東海大会とか行ってたんだよね」
「あれ、なぜそれを?」
「ああ、じつはさ」
俺が和室へつづく鴨居の方を指さすと、長押にユズの制服がハンガーでひっかけてあった。
なぜか白野は顔を真っ赤にした。
「……浦木くん、佐倉に、侵入を……?」
「女装して侵入したわけじゃないよ! あれはユズの制服! ユズからいろいろ聞いたの!」
「あ、なあんだ。そうなのですね。ユズちゃん、佐倉の後輩だったのですか」
「そういうこと……で、なんか写真とか見せてもらって」
「しゃ、しゃしん!」
がたっと白野が立ち上がる。なんだどうした。
「写真、浦木くんがお持ちなのですか……?」
「えっ。ま、まあ何枚か、学園祭とか部活の写真をユズに送ってもらって」
「ユズちゃんが手に入れられる、ということは中等部時代の……? む、むかしの写真なのですねっ?!」
ひどく狼狽した様子でキッチン近くのスツールへ腰かける俺を見た白野は、ばばっと視線を走らせた。途中で、俺がキッチンカウンターの上に置いていたスマホを見つける。わたわたと両手を振りながら、俺に懇願してきた。
「けっ、消してください! 消して!」
「な、なんでそんなに」
「そのっ、中等部のときはまだ、なにも見た目に気を遣っていなかったので! とても浦木くんにお見せできる姿ではないのですっ!」
「『中等部のときはまだ、なにも』……?」
え。
もしかして。
告白されたときに対面して、俺は白野のことものすごく好みの外見だと思ったけど。
「あのさ、ひょっとして、白野」
「は、はい」
「今日の服装だけじゃなく普段の恰好とかも……俺の好みに、合わせてたってこと?」
「あ。……あ、う、う、ぅ、…………」
俺の推測に、白野はかーっと頬を紅潮させてよろめいた。
……ええー、マジか。
高校デビューとかじゃなかったんだ。
「……でも、あんなに見た目変えるって……」
相当、努力する必要があったはずだ。
いくら元の素材が良かったとは言っても、集合写真で俺でも見つけるのが難しかったくらいの変貌なんだから。ある程度の期間をかけなくてはいけなかったはず。
しかし告白されたのは入学から間もなくのことだった。
――では、いったいどのタイミングから白野は俺のことを知っていて。
どのタイミングから、好みやらなんやらを調べはじめたんだろう?
「う~っ、浦木くん、消して! 消してください!」
「ちょ、ちょっ待ったわかったから。わかったから落ち着いて」
白野がソファに突っ伏して泣きそうになっていたので俺は考えごとを切り上げ、言われるがままにデータを削除した。さらば映画二回分の写真。
……あとからまたユズに送ってもらう手もあるけど、こうまで嫌がるならあきらめよう。俺はきれいになったカメラロールをさらした。
「消したから。これで、大丈夫だろ」
「……ありがとうございます」
「いいえ。というか、そんな気にしなくても。むかしの写真はむかしの写真で、いいんじゃないかな」
「だ、ダメです。……だってむかしは、髪はただただ伸ばしっぱなしでしたし……服装もなにも気を遣っておらず……」
「べつにむかしの恰好がどうとか、それは気にならないけどな」
「けれど、浦木くんのお好みの恰好ではないはずです」
「んー。好みの恰好が見られるのは、たしかにそれはそれでうれしいことなんだけど」
スツールの上で体の向きを変え、真正面から白野に向き直って言う。
「でも恋人だからって『白野が常にそうしなきゃいけない』ってわけじゃないよ。俺は基本的に素のままでいてほしい。今日の服装もすごくいいけど、もし白野が本当は着たくないものなら自分がラクでいられる恰好してきてくれていい」
「よろしいのですか? それがたとえば……浦木くんのまったく、好みでない恰好だったら?」
「まあその恰好が好きかどうかは言うよ」
俺の返事に白野は答えを見失ったかのような顔をする。ああ、そんな心配そうにしなくていいのに。
「けど、だれかとの関係って、そこからだと思うんだよ」
「そこから?」
「うん。なにもかも全部どっちかの趣味に合わせるなんてきっとできないし、だからこそ考えを伝えあっていくようにしないといけないと思う。それは服装だけじゃなくて、二人で一緒にいるときのあらゆることについて、そうだ」
なにしろ、まだ出会って一か月も経っていないのだ。
知らないことは山ほどあるし、互いにいろいろな部分を伝えあっていかなければならないと思う。
長く一緒にいたいと感じているから、なおさら。
「だから、その服装が本当にしたい恰好かどうか。白野がしたいことをできてるかどうかを、常に考えててほしい。迷ったり悩んだりするようなら俺に話してくれてもいいし、前みたいに友達に相談してみてもいい」
無理は、してほしくないのだ。
それはきっとのちのちにも響いてくるから。
「要は白野がラクに、楽しくいられる在り方を第一に考えてほしいってこと。その白野の理想を、俺に教えてほしい。俺も白野に、よろこんでほしいと思ってるから」
静かに言い切る。
……なんだか熱っぽく語ってしまったけど、言いたいことだったから、いいや。
俺の前でぺたんとフローリングに女の子座りしていた白野は、引き結んだ唇をむにゃむにゃとさせてから、瞳を潤ませた。
「……浦木くんのお心遣いの深さに、なんとお礼を言えばいいのか……」
「んなおおげさな」
「おおげさではありません! そんな風にだれかに想っていただけたのは、はじめてで」
「俺だってそうだよ。そこまで徹底して好みまで合わせてくれてたとは」
「いえ、私がやったことは調べればだれだってできることです。表面的な、だれだってなぞれる道ですよ」
「そうかなぁ……」
「私はただ、知って、その好みに合わせようとしただけです。浦木くんは、私を理解しようとしてくださいました」
上目遣いにこちらを見て、白野は胸元で両手を重ねる。
ふにゃりと表情を緩ませて、俺の目を一瞬、見る。そっと逸らす。
「本当に……いつも、ありがとうございます」
「いえいえ」
「でもべつに私はこの恰好をすることも、浦木くんの好みを調べそれに合わせることも、全部楽しいことですよ? だから大丈夫です」
「本当に?」
「……まあ、厳密なことを言ってしまうのなら。私はいままで趣味と呼べるものがなかったので、好きなものとかそういった基準がまだ自分の中にないだけかもしれませんが」
「ああー、そりゃそうか」
「ですから、思うところがあれば今後はちゃんとお伝えします。その上で……今後もお付き合い、いただければと存じます」
三つ指ついて、白野は深々と頭を下げた。
俺は慌ててスツールから飛び降り、白野の前で膝をついて座り込むと「こちらこそ」と頭を下げた。
それから、ほとんど同時に顔を上げ。
ふっ、と肩を震わすように、二人で笑い声をあげた。
+
そのあとはまた映画を観ることに戻ったが、序盤で話し込んでいてろくに観ちゃいなかったので適当なところで切った。
そしてほかのを観ようかと話しているときに、ゲームのスタート画面に表示されていたタイトルを指して「あれ、くぎちゃんとやったことあります」と白野が言ったのでちょっと対戦プレイして。……びっくりするほどボコボコにされて。マジで苦手な分野ひとつもないなこのひと、と再認識させられて。
駄弁ったり、テレビを観たり。
のんびりした時間を過ごして。
五時になったところでごはんどうしようかな、と少し席を外してキッチンに行き。
戻ってきたら、白野はソファの背もたれに身をあずけてすぅすぅと寝息を立てていた。
「あれ、寝ちゃったのか」
おなかの上に丁寧に両手を揃えて、少しだけ首を傾けて眠っている。
……やっとうちの空気に慣れてきて、張りつめてた気が緩んだのかな。
「ふぁ」
とか思っていたら俺もあくびが出た。
仕方ない。昨晩は楽しみでなかなか寝付けなかったから。
白野も同じ理由で眠気が来たのだとしたら、うれしいんだけど。
「なーんてね……」
俺はソファの背にひっかけてあったブランケットを広げて両手の間に渡し、そっと白野の肩にかけてやった。
当たり前のことだが、意識が無い状態なのでこの距離に来ても白野が飛び上がることはない。
ソファの隣に腰かけると座面の軋みで起きるかもしれないので、彼女の足元にしゃがみこみフローリングにあぐらをかきながら顔を見上げた。
――きれいだと思う。
普段可愛いなぁと思っているのは仕草や表情によるところが大きいのだなと感じた。
そういったものを失くして静かにそこにたたずんでいる白野は、本当にただきれい、という印象を受けた。
薄化粧した顔の中で、ほんのわずかに色を帯びる頬。普段は赤面ばかり目にしているから、普通の顔色を見るのはめずらしい。桃を思わせる、ほんのりと色づいた白い肌だ。
長いまつげの一本一本まで、水気をまとったようにツヤがある。
細い眉は常の目まぐるしい変化がなく、穏やかに垂れていた。
整った小さな顔を縁取るラインは終端だけ鋭く、まとまりを引き締めていて。
桜色の唇がふるりとした弾力を感じさせた。
……。
…………。
………………。
じーっと見つめているうち、心臓が高鳴ってきた。
……もうしばらくここにいたら、魔が差すかもしれない。
どうしよう。この場を離れた方がいいだろうか?
でも白野が起きたときにだれもいないとなったら不安がらせる気がする。残ろう。
とか考えつつじつにスムーズにスマホを取り出している俺だった。あっ、なんだこれは。なんでスマホを。カメラ起動させて出してんだ。音が出るからよせ。
……ムービーなら大きな音しない? なるほど。
いや盗撮じゃん。え、白野も盗撮してたって? なるほど。
「いや倫理観、倫理観を持て」
かぶりを振って画面を落としスッと俺はスマホをしまおうとした。
でも視界の端に映る白野は、とてもきれいで。魅力的で。
ちょっとくらいはいいんじゃないか? とまたしても悪魔のささやきが耳元でうるさくしはじめていた。よせ馬鹿。ムービーをやめろ。
――よし、じゃあこうしよう。
悪魔のプレゼンがはじまった。
――男らしくカメラで撮る。一枚だけ。
ほほう。それで?
――それで白野が起きてバレちゃったら、潔く告白して消す。
なるほど。男らしい。
――うまく残せたらホーム画面の背景にしようぜ。
さすがにそれは恥ずかしい。却下だ。
というわけで悪魔の誘惑に負けた俺はムービーモードから写真モードに切り替えた。画質は最高で。ぐーっと身を乗り出して。
少し日が傾いたがまだまだ明るい部屋の中、画面に映る白野を見つめる。
フレームを固定し、白野の顔に焦点を合わせた。
いざ。
尋常に。
撮影を――
「――ただいまー。お兄ちゃん白野さんまだいるの?」
え、ユズご帰宅? もうそんな時間?
あ、本当だ六時だ。白野の寝顔に集中しすぎてスマホの時計も全然見ていなかった。
というところですでにボタンを押しており、シャキーとカメラの撮影音がした。
ぱち、と白野が目を覚ました。
ブランケットがふぁさっと落ちる。
俺が中腰に立ち上がりつつ玄関への廊下の方を振り返る。
とたとた歩いてきたユズが半目で俺を見る。
片手にぶら下げていた俺のスマホを見る。
いま起きたばかりの白野を見る。
白野のスカートの裾を見る。
すごい顔をする。
「おいお前いまものすごい失礼なこと考えたろ!」
「じゃあそのスマホはなに?」
「これはぁ……そのー……」
とか言ってる場合じゃない。俺はハッとした。
いかん。いま俺がいるのは白野から距離にして三十センチほどの位置。
日頃確保している二歩半の距離からして、あまりに近い。超至近距離と言っていい。
おそるおそる、俺は白野の方を向いた。
「ちっ、ちちちち近すぎます――――――」
彼女は顔を引きつらせ、
息を飲み込んで溜め、
眉を八の字に、
瞬時に赤面し、
「――――ゃんっ!」
声にならない叫びをあげて、ばたっと気絶して倒れた。
「え、えっ、ええっ!? ちょっ、白野さん?!」
「……あーあ。今週は気絶させることなかったんだけどなぁ」
「なっなに普通にしてるの?! えっこれよくあることなのっ!?」
慌てふためくユズと共に、なんやかんやで介抱して。さすがのユズもスマホのカメラの件はすっかり忘れてしまった。
そして白野は寝ぼけていたのでカメラを向けられた記憶がないらしい。
というわけで俺はちゃっかり、白野の寝顔写真を手元に残すことに成功したのだった。




