08.夜闇に紛れて
――――誰か居る。
蓮華がその気配に気が付いたのは、喫茶店を出て直ぐのことだった。
近くも遠くもない距離を保ちつつ、何者かは蓮華を尾行する。尾行する何者かが、明らかに普通の人間でないことは気配から分かった。
蓮華の感覚は鋭い。特に『奇跡』に関しての感知能力は天性の物だ。
その感覚が告げていた。尾行しているのは――――奇跡所有者だと。
「…………」
蓮華は敢えて、開けた場所へと進路を変える。右へ左へ。尾行は途切れない。誘われていると、理解しているのだろうか? それとも、敢えて誘われているのか。
暫くして蓮華は目的地である公園へと辿り着いた。広々とした公園は昼間ならば人々の憩いの場だが、夜の公園には人気が無く、ポツポツと街灯だけが存在を主張していた。
蓮華は歩みを止めた。丁度、街灯の真下だった。まるでスポットライトのように蓮華の姿が照らされる。少女の美しい面持ちが、背後へと向けられた。
そこには、いつの間にか女が立っていた。
蓮華と同じく街灯の真下で、光を全身に浴びて。
若い女だ。焦げ茶色の髪をした、中々の美貌の持ち主。蓮華やベアトリーチェの様な傾国の美しさに比べれば見劣りするが、それでも美しいと思う女だった。
「誰?」
臆せず、蓮華は問う。
冷たい声音だった。彼女は既に臨戦態勢と成っていた。
「敵だよ」
焦げ茶色の女が笑う。
馬鹿にした声音。
彼女は既に攻撃を行っていた。
「――――凍れ」
上空から降り注いだ火球を全て、視線を向けもせず蓮華は凍らせる。端から見れば有り得ない光景だが、彼女達の『奇跡』に条理は通用しない。
凍り付いた火球が降り注ぐ。鈍い落下音が響き渡り、砕け散る中、蓮華の瞳はじっと女の背へと向けられていた。
「――――炎の翼」
そこには、翼が生えていた。
しかも普通の翼ではない。赤熱した、燃え盛る炎の翼だ。神々しさすら感じさせる翼は火の粉を撒き散らし、遠く離れていても強烈な熱を感じさせる。
不意打ちを防がれた女は、しかし嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「防がれたか。ま、そう簡単にいったら面白くないよな。むしろ防いでくれてホッとする」
「貴方は何者?」
「だから敵さ。そんで同類。同じ天から力を授かりし者。『奇跡』を持つ者。お前にも分かるだろ? 『奇跡』持ってるんだから」
蓮華は肯定しなかった。
ただ冷徹に問い掛ける。
「何の用?」
「大したことじゃない。単なる警告さ。ちょっとこの街に大事な用事が有ってね。それを解決するまで『奇跡』を持ってるお前には何が起きても何もしないでもらいたい。簡単だろ? あ、もしちょっかいを出せば、燃やす。そういうことだ」
まるで友人と話すように女は殺意を露わにした。
しかし蓮華はどこ吹く風と、マイペースに質問を続ける。
「用事って何?」
「それ以上は答えないよ。お前、探る気だろ? 感心しない。好奇心は猫を殺す。それ以上、訊く気なら覚悟して――――」
「――――『千の魔術を統べる者』」
その名を聞いた女の表情が一変する。
蓮華は表情一つ変えず言葉を続けた。
「既に知ってる。一応、訊いただけ」
「なんだ……そうだったのか。じゃあ話は簡単だ。………お前は、どうすることに決めたんだ?」
女の問いは、言外に手を出すなと告げていた。手を出せば言葉通り容赦なく燃やすのだろう。
「…………別に。私には、関係のないこと」
蓮華は敢えて嘘をついた。
別に戦うことを恐れてはいない。ただ、秋が戦う時に自分の存在を伏兵に出来るかもしれない。そんな思いがあった。
女は笑みを浮かべ、うんうんと頷く。蓮華の嘘に気が付いてる様子は無い。
しかし次の瞬間、発せられた言葉は蓮華の予想を裏切るものだった。
「そうか。なら私の用事に付き合って貰うか」
女が獰猛な笑みを浮かべた。背中の炎翼が羽ばたき、さながら蛍のように火の粉が夜闇に舞う。空に舞い上がった女は雄々しく翼を広げた。
「そらッ!」
翼が大きく広がり、薙ぐように一度だけ羽ばたく。巻き起こる風と共に轟々と猛る火炎が蓮華へと放たれた。灼熱が地を駆け、闇を切り裂く。
「凍れ」
蓮華の宣告は厳かに響き渡った。
凍る、凍る。全てが凍る。地を駆けた炎は氷の大地へと変貌し、儚くも砕け散る。
「いい『奇跡』だな」
上空から聞こえてきた声に蓮華は空を見上げる。火の粉を撒き散らし、雄大に翼を広げる女の姿は、とある生物を連想させた。
「不死鳥…………」
「綺麗だろう? 自慢の『奇跡』だ」
嬉しそうに笑う女を他所に、蓮華はとある『奇跡』を思い出していた。
――――『不死鳥の炎翼』。第一階梯に属する『奇跡』。唯一無二の零とは違い、複数存在する『奇跡』だが、それ故に零より劣っている訳ではない。
むしろ『不死鳥の炎翼』は、破壊力なら上の方だろう。消し炭で済めば、まだマシかもしれない。かの『奇跡』なら塵一つ残さずに燃やし尽くすことが可能なのだから。
「その顔…………どうやら気付いてくれたか」
「何に?」
「私の『奇跡』にさ。天が私に与えた炎の翼。不死鳥と称される力だ。素晴らしいだろう? こんなに美しい『奇跡』はまたとない」
自慢げに女は言う。彼女は自分の『奇跡』が誇らしいのだろう。美しく、それでいて強力な力だ。
きっと羨まれてきたのだろう。褒め称えられ、憧憬の眼差しを向けられてきたのだろう。
(私とは、真逆に)
急速に体温が低下する。
ぽたり、ぽたり。
目を閉じれば、聞こえてくる。
ぽたり、ぽたり。
耳を塞ごうと、聞こえてくる。
ぽたり、ぽたり。
呪いと化して、聞こえてくる。
ぽたり、ぽたり。
ぽたり、ぽたり。
血が、ぽたり。
涙が、ぽたり。
首が、首が、首――――――――――――が――――――――。
「 している」
声が、聞こえた。
誰か、言った。
言葉は、分からない。
意味が、分からない。
果たして、氷室蓮華に分かるのだろうか?
「…………どうして」
「何?」
「どうして私は――――――――――私は、望んでいない。なのに――――同じ力を持っているのに――――――――お前は幸せだ。どうして――――」
「…………ッ」
呪詛にも似た言葉が女の肌を撫でる。
空気が一変した。少女の瞳が真っ直ぐに女を見る。
黒い――一切の光を許さぬ漆黒の眼。それは、底無しの闇。瞳の奥に秘められているのは、ドロドロに濁った闇だった。
「――――殺してやる」
氷室蓮華には、幸福など与えられなかった。
それでも、かけられた言葉は覚えていた。
意味が分からずとも、心の底に眠っていた。
それがあるから、戦える。
明確な殺意が女へとぶつけられた。これまで無感情に事を見ていた少女から放たれたものとは思えぬ邪悪な殺意が。
全身に刃物を向けられた様な強烈な圧迫感。蓮華の殺意の圧は、これまで女が対峙してきた奇跡所有者の中でも最悪の部類だった。
「凍れ」
宣告と共に月明かりに照らされていた女の周囲に影が差す。見上げれば周囲一体を破壊出来るであろう巨大な氷塊が今まさに、落下していた。
「な…………ッ!」
咄嗟に炎翼を羽ばたかせ、氷塊の範囲から逃れようとするが、直ぐに思い留まる。
最早、全力で逃げようと逃げられる範囲ではなかった。
「クソッ!」
氷塊に向き直り、全力を翼に込める。
翼は応えるように翼を広げ、夜を昼に変える熱量が、翼を業火へと変貌させた。夜空を覆わんばかりに増した炎の翼は、文字通り夕焼け空に似ていた。
迫る氷塊はは巨大だ。生半可な一撃では破壊など夢のまた夢。だがしかし、女には自信がある。強力な『奇跡』も備えている。
(たかが氷の塊程度、破壊できない訳がない――――!)
炎が舞い上がり夜が黄金へと姿を変える。
炎と氷が激突した。




