16.命を抱き締める
憎悪という感情に突き動かされるのは、瑞希にとってこれで二度目だった。怒りで赤く染まった視界の中、許し難き怨敵の姿を跡形も無く破壊する為に、全身全霊で『奇跡』を呼び起こす。
「『蒼き空を穿つ』ッ!」
手元に出現するのは蒼き長弓。姿形は常と変わらないが、何度か瑞希と共闘したことのあるセラには分かった。これまで見てきた『蒼き空を穿つ』とは違うと。
だがセラに臆する必要など一切無い。彼女の横に座すのは至高の天使。『千の魔術を統べる者』の使い手すら退け、『竜の腕』を取り込んだ今となっては誰一人として『あなたの隣に立つ者』に勝てる者など居ないだろう。
それに『蒼き空を穿つ』の能力は既に知っている。あの『奇跡』の能力は矢を複数同時に放つだけの貧相なもの。使い方次第では確かに強力だろうが、『あなたの隣に立つ者』を相手するならば明らかに役立たず。
「蹂躙しなさい『あなたの隣に立つ者』」
天使に命令を下し、セラは身を引く。命令を受けた『あなたの隣に立つ者』から返事は無いが、彼女が裏切ることは決してないと知っている。その為にセラは準備をしてきたのだから。
『■■■』
天使言語。人には理解出来ぬ天上の旋律が響き渡る。
対する瑞希は『奇跡』を発現させたまま不動。怒りに身を任せ、突撃してくると思っていたセラには意外だった。
純白の剣を携え、『あなたの隣に立つ者』が跳躍。彼我の距離を一気に詰める。しかし尚も瑞希は動かない。ただじっと、セラを睨め付ける。
「どうしたのかしら。怒り過ぎて頭の中が真っ白になっちゃった?」
挑発するように言葉を投げ掛ける。嘲笑うセラに対し、瑞希は一言だけ、言葉を返した。
「その程度なの?」
「ッ!」
数え切れぬほど戦場に身を置いてきたセラですら震え上がる殺気。半ば反射的にレイピアを振るい、飛来してきた矢を弾き飛ばす。
「いつの間にッ」
「遅い」
『あなたの隣に立つ者』の剣を躱し、更に放たれる一矢。狙いを決して違えぬ瑞希の矢は吸い込まれるようにしてセラへと迫る。何となレイピアで弾き飛ばすが、直ぐに次の矢が飛んでくる。
「この女――――!」
『あなたの隣に立つ者』の剣を舞うように躱し、一瞬の隙を逃さずに矢を放つ技量と度胸。これまで見てきた巫瑞希という少女の形が崩れ去る。
「お前は危険だ。ここで殺すッ!」
このまま生かしておくと碌なことにならない。そう直感し、セラは『あなたの隣に立つ者』に指示を出す。だが『あなたの隣に立つ者』の口から溢れたのは天使言語ではなく赤い血だった。
「ッ! まだ完璧には融合しきれていないか」
舌打ちし、セラは『あなたの隣に立つ者』に再び命令する。今度は血を吐き出すことなく、美しき旋律が紡がれる。
『■■■』
絶対神聖領域。究極の守りを展開し、セラも領域の中に入り込む。これで瑞希の矢は決して届かない。
「結界系の能力ね」
何本か矢を撃ち込み、セラにも『あなたの隣に立つ者』にも届かないことを悟ったのだろう。瑞希は『蒼き空を穿つ』を解除し、セラを殺意の籠もった瞳で睨め付ける。
「逃げるつもり?」
「逃げるなんてとんでもないわ。言った筈よ。お前は殺す、と。ただそれが今ではなくなるだけのこと」
ふわりと、『あなたの隣に立つ者』とセラの体が浮かび上がる。見れば『あなたの隣に立つ者』が純白の翼を羽ばたかせていた。
「必ずお前を殺すわ瑞希。それまで待っていて頂戴ね?」
「それは私の台詞。望……貴女は絶対に許さない」
「セラよ。それは偽りの名。貴女と日々を共にした姉の、ね」
それがセラの最後の言葉だった。
翼を広げ、『あなたの隣に立つ者』とセラは天高く舞い上がる。恐らくどこかに身を隠し、準備を整えるのだろう。
だが今は去った者のことなど瑞希は眼中に無かった。ふらふらと覚束ない足取りで瑞希は大介の下へと向かう。血で服が汚れることなど気にもせず、瑞希は大介を抱き上げた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
謝った所で意味が無いのは知っている。既に大介の命は失われた。
『繋がる手、離れる絆』は、何かと何かと繋げ、また離す力を持つ。望……否、セラはこの『奇跡』で大介から『竜の腕』を奪ったのだ。
目的は『あなたの隣に立つ者』に与える為だろう。黒い鱗に覆われた腕が何よりの証拠だった。
奇跡所有者にとって『奇跡』は心臓にも等しい。『奇跡』の喪失は死と同義だ。これは如何なる奇跡所有者でも変わらない。
今は暖かい大介の骸も次第に熱を失い、冷たくなるのだろう。これまで普通に言葉を交わし、日常を過ごした人間の死は、余りにも重く悲しい。そのことを誰よりも理解している瑞希だからこそ、溢れる涙を止めることが出来ない。
「ッ……!」
二度と繰り返すまいと思っていた悲劇の再来は、悲しみだけでなく燃え盛る憎悪を瑞希の心に灯した。止まらぬ涙を何度も拭い、大介の死体を抱えたまま立ち上がる。両腕に感じる彼の重さをこれからも背負っていかねばならない。彼の死は瑞希の所為でもある。
「……帰りましょう」
戦場から逃げるように立ち去ろうとし――――そこで瑞希は気が付いた。
「アレは……」
空に浮かぶ紫の円環。
複雑な紋様が刻まれ淡い光を放つそれは、漫画で見た魔法陣と呼ばれる物に酷似していた。
「新手……?」
大介を抱えた状態で戦うのは得策ではない。瑞希はそう判断し、いつでも逃げられるように身構える。その間にも円環は次第に光を強くしていく。まるで天に輝く太陽のように眩い輝きを放ち、燐光が吹き荒れる。
何かが来ると、瑞希の直感が訴えた。それも単なる奇跡所有者ではない。セラでも『あなたの隣に立つ者』でもない。もっと異質で醜悪な何かが来る。
最早直視出来ぬほど輝きを強めた円環。
それが唐突に砕け散った。
「――――――――」
言葉を失う。全身が凍り付いたように動かない。呼吸すらも忘れ、瑞希は砕けた円環から現れた彼女を見詰める。目を逸らせば死ぬと、本能が騒々しいほど警鐘を鳴らしていた。
常闇を身に纏い、黒曜石の眼を輝かせ、濡羽色の髪を揺らす彼女は、存在しているだけで周囲の空間を黒色に染め上げる。まるで世界そのものが彼女に恐れをなしているかのようだった。
青空に一瞬にして塗り潰し、夜へと変貌させた女が瑞希へと視線を向ける。目と目が合った時、瑞希は死を覚悟した。例え世界が引っ繰り返ろうと、この女には勝てない。そも人が勝てる相手かどうかすら怪しい。
怪物という形容すら生温い存在を前に、瑞希はただ時が過ぎるのを待つしかなかった。彼女の興味から自分が外れ、消えることだけを心の中で祈り続ける。
そしてそれは思いの外直ぐに訪れた。瑞希から目を逸らし、女の姿が闇に溶けていく。同時に空を覆い尽くしていた黒も次第に消えていった。
後に残されたのは白髪の少女だ。歳は瑞希とさほど変わらないように見えるが、落ち着いた雰囲気は老練を感じさせる。蒼穹よりも蒼く澄んだ瞳が印象的だった。
「まさか『夜』を使うことになるなんて……彼女は危険だわ。直ぐにでも何とかしないと」
瑞希の存在に気がついていないのか、少女はぶつぶつと独り言を呟き、腕を振るう。円環が再び出現し、瑞希は全身を強張らせた。また黒色の彼女が現れるのでないのか。そう思ったからだ。
しかし瑞希の予想とは裏腹に円環から出現したのは若い男だった。地面に膝を付き、苦悶の表情を浮かべる彼の顔を、瑞希は知っている。
「大丈夫? 直ぐに彼女を向かわせたけど、この世ではない何処かに居た訳だから何かしら影響を受けていると思うけど」
「何とか、な。むしろ魔力の消費による疲労の方が辛い」
「なら直ぐに休みましょう。今後のことも含めて話し合わなければいけないし。……それで、さっきからこっちを見ている貴方はどうしてここに居るのかしら?」
蒼眼が瑞希を射抜く。可憐な見た目からは想像もつかない鋭い視線に思わず開き掛けていた口を閉ざした。
「貴女が抱えているのはさっきまで戦っていた彼ね。満身創痍みたいだけど貴女がやったのかしら?」
「違う! これはセラが……」
「セラ? それはあの奇跡所有者の名前ね。彼女の名前を知っているということは貴女……敵かしら?」
少女の背後に出現する無数の術式。その数は数百を越え、更に増え続けている。
「答えなさい。貴女は敵? それとも……」
「…………敵じゃない。私は単に巻き込まれただけ」
嘘は言っていない。そも元々は異形の出現から端を発する。そこだけに注目すれば瑞希も巻き込まれたようなものだろう。
「なら貴女が抱えている彼は何者なのかしら? 見た所、貴女達は知り合いのようだけど」
「……私と彼は同じ学校のクラスメイト。彼が最近『奇跡』に目覚めたから先達として面倒を見ていただけ」
「ならどうして彼は私達を襲ったのかしら? それに貴女がセラと呼んだ少女と行動を共にしていた。この辺りも説明してほしい所わね」
「前橋くんが貴女を襲った……?」
有り得ない。彼は『奇跡』を手にしたばかり。まだ満足に扱えているとはいえない彼が自ら戦いを仕掛けるとは思えない。
恐らく望が――セラが唆したのだろうが、それにしても何かしら理由が無ければ彼は動かないだろう。そう例えば、街を徘徊している異形。その出処が彼等だと言われれば、彼も動くかもしれない。
(可能性はかなり高い。特に白髪の少女が見せた黒色の女……あんなモノを連れている彼女なら或いは)
だとすれば彼等は敵だ。瑞希がこの手で何としてでも葬らなければならない。
だがここで引っ掛かるのは、大介を唆したのだろうがセラだということ。残忍で狡猾な彼女が嘘をついて大介を騙した可能性も有るのだ。
どちらを取るか――瑞希は暫し逡巡し、おもむろに口を開いた。
「少し話が長くなるけど構わないかしら?」
「なら場所を移しましょうか。ここは長話をするには向いてないわ」
「……分かった。場所は任せてくれる?」
「お好きにどうぞ。でもその前に」
少女が手を差し出す。その意味が分からず、瑞希は小首を傾げた。
「何?」
「その彼を渡して。安心なさい。別に危害を加えるつもりはない。むしろ逆よ。治してあげるから早く渡しなさい」
「え……? 治……す?」
「もしかして死んでいると思ったのかしら。確かに衰弱が酷いけど生きているわよ。心臓も動いている筈」
「あ……」
そういえば大介の脈を確認していないことに気が付き、慌てて彼を地面に下ろす。『奇跡』の喪失は死と同義。奇跡所有者であれば常識と言える考えがあったからか、既に死んでいるとばかり思っていた。
だが少女はまだ生きていると言う。有り得ないことではある。それでも可能性が少しでも有るのなら、瑞希はそれに縋るしかなかった。
恐る恐る大介の胸に耳を当てる。
彼の体は、まだ暖かった。
穏やかな温もりの中に確かに聞こえる心臓の鼓動。弱々しくはあるが、それでも動いている。大介は、まだ生きている。
「…………ぁ」
迫り上がってくる思いの奔流を止めることなど出来なかった。瑞希は顔を伏せ、涙を零す。ぽつぽつと大介に涙が落ちるが、気にしている余裕は無かった。
失くしたと思っていたものが、未だ腕の中に居る。
それがどれだけ奇跡的で類稀な幸運であることを瑞希は知っていた。だからこそ瑞希は大介を強く抱き締める。それは、全てを失い孤独に生きてきた少女が得た、確かな命だからこそ。
もう二度と、失うことだけは許されなかった。




