11.恐怖の鎖
そこに空は無い。地上も無ければ海も無い。
故に端的に表現するならば、虚無と、言う他ないだろう。
一面の無。何も無い寂しげな光景。世界から隔絶された領域。
されども、ここには主が居た。
正確に言えば、主がこの空間と言える。この虚無そのものであり、一つの確固たる存在でもある。
それは、竜と呼ばれる生物だった。
世界最強の生物。幻想の中にしか語られることのない御伽橋の存在。
しかし、ここに座す竜には一つ問題があった。
世界で最も雄大な両翼。
如何なる刃も通さぬ鱗。
城壁を容易く引き裂く爪。
英雄を噛み砕いた牙。
そして、万象を焼き尽くす吐息。
竜を竜と定義する五つの要素。
その内の一つたりとも、ここの竜は有していなかった。
にも関わらず竜と同質の扱いをされるのは、不定形の存在が竜であるからだ。竜としての特徴も、確固たる形も持たぬ虚無ではあるが、竜より産まれ竜へと還る存在として定義されている。
今はまだ産まれ落ちた虚無に過ぎない。だが近い将来、真の竜と化すだろう。それは運命と呼ばれる不可避の未来であり、再誕の時だ。
故に竜は待つ。
前橋大介が、依代となるその時を。
『――――』
虚空を見上げる。何も無い空間ではあるが、竜には関係ない。物理的な距離も精神的な距離も、竜と大介に限っては意味が無く、大介が感じている恐怖、後悔、絶望等の感情が直接竜にも届く。しかし生まれながらに覇者であり、最強とされる竜に負の感情を理解出来る筈も無い。
だからこそ、竜は大介を励ましたりなどしない。
ただ己の力を与えるのみ。
『待ッテイル』
最早、前橋大介は人に非ず。
竜を宿し、竜と化す身であるが故に。
万物の覇者として、ありとあらゆる障害を力で捻じ伏せろ。
これは、その為の力。
いつの日か、我が身を構成する一なれば。
運命へと至る標であるが故に。
※※※※※※※※※
前橋大介は、何処にでも居る普通の人間だ。
特筆すべき所など何一つとして無い。家族も血も本人も、一般人の粋を出ない。これまでもこれからも、ありきたりな人生を歩む筈――――だった。
――――『奇跡』と、呼ばれる異能がある。
それは人間にのみ与えられた超常の力。
それが、大介の運命を変えた。
「…………戻らないか」
ベッドに寝転んだまま、大介は自身の右腕を持ち上げる。――――黒鱗に覆われ、鋭い爪を生やした腕を。
「本当に余計なことをしてくれたよ」
現状、大介は『奇跡』を発現させてはいない。にも関わらず『竜の腕』が表に出て来ているのは、偏に昨夜の出来事が原因だ。
対峙したのは強大な存在――――ベアトリーチェ。遥か格上の彼女を倒す為に、『奇跡』を限界を超えて行使した。本来であれば、その場で死亡してもおかしくない程の無茶な行動だ。今生きているのは『奇跡』を絶妙なラインで暴走させた望の技量と、大介自身の頑丈さ故だ。
とはいえ代償は決して軽くは無かった。『奇跡』行使後の凄まじい激痛とズタズタに破壊された臓腑、そして元に戻らぬ『奇跡』。
それがこの腕。現状『竜の腕』は常時発現している状態だ。その力は普通の腕とは比べ物にならず、幾つもの雑貨を犠牲にした。また、当然ながら人に見られる訳にはいかず、こうして自宅に閉じ籠ることになっている。
それもこれも望の所為だ……とは決して言えない。
彼女が居なければ、大介はあの時ベアトリーチェに殺されていた。間違いなく今、ここには居ないだろう。
「俺が……戦うことさえ出来れば」
ベアトリーチェの言葉を思い出す。
『ずっと逃ゲテばカリ。反撃の一ツも無イ。どうシた? 戦ウことが怖イのか? 恐ろしイのか? それとモ――――目を背けているだけか?』
彼女の言葉は真実だった。
言い逃れなど出来る筈が無い。
最初から最後まで、間違っている所が無いのだから。
恐ろしい。怖くて堪らない。目を背けてしまいたい。
当然だろう。だって前橋大介は、普通の人間だ。急に戦えと言われ、はい分かりましたと戦える訳がない。そんな存在は心底壊れている。そも普通ではない。
努力はした。戦場に立ち、何とか戦おうとした。――――だが、体は動かない。命を失うかもしれないという恐怖が心と体を縛った。
しかもそれだけではない。『竜の腕』を使えば使うほど、前橋大介という存在は竜へと変貌する。人であることすら、大介には叶わない。
死の恐怖、自分を失う恐怖、怪物と成り果てる恐怖。
「ッ!」
想像しただけで込み上げてくる嘔吐感。口を抑え、激しく咳を繰り返す。
「クソっ…………」
情けなく、不甲斐ない自分が憎らしい。
どうして自分はこんなにも弱いのかと、延々と自問自答を繰り返す。
そこへコンコンと、控え目なノックが響いた。
両親は共に仕事、大介に兄弟は居ない。友人もそこまで多いとは言えず、休んだからといって家に来る奴は居ない。となれば訪ねてくる者など大介には二人しか思い浮かばなかった。
「大丈夫?」
大介が声を上げるよりも早くドアが開けられ、小柄な少女が躊躇なく入ってくる。相変わらずの少女の姿に大介は無意識に苦笑を浮かべていた。
「ああ何とかな。そっちはどうなんだ望?」
「取り敢えず二点ある。良い方と悪い方、どっちから聞く?」
「そうだな……良い方からにするか。今はあんまり気分が良くないからな」
「了解」
…………ああ、まただ。
逃げ出してしまいたいのに。目を背けてしまいたいのに。
また、『奇跡』に関わろうとしている。
「じゃあ良い方から。昨日君を襲った敵の正体が分かった」
「本当か!?」
昨日の今日だというのに既にそこまで調べているとは。恐らくは『騎士団』の情報網を利用したのだろうが、それにしても早過ぎる。
それはつまり、ベアトリーチェという女が名の知れた奇跡所有者だった可能性を浮上させる。果たして、それは正解だった。
「あの少女は……奴は何者なんだ?」
「特級討伐対象。『騎士団』では、そう呼ばれる存在」
「特級討伐対象……? どういう意味なんだ?」
「簡単に言えば、見たら殺せ。そういうこと」
「は……?」
物騒な言葉に大介は思わず身を強張らせる。
望は淡々と言葉を続けた。
「『騎士団』という存在に多大なる被害を与えた、もしくは『奇跡』という世界の根幹を揺るがしかねない事件を起こした、もしくは存在そのものが禁忌とされた……そうした本物の怪物達が、特級討伐対象に設定される。つまりは、『騎士団』が独自に設定した人類の敵」
『騎士団』が独自に定めた討伐対象。
各々の危険性に合わせ、本来であれば第一級から四級までのいずれかに振り分けられる。
しかし中には、階級の枠組みに収まらぬ者も居る。それ等の怪物達だけでまとめられたのが特級だ。
「そんな奴に俺達は勝ったって言うのか……?」
「勝ってない」
「え?」
「私達は勝ってない。そも彼女を相手に勝利など虚しさしかない」
「それはどういう意味なんだ。確かにお前が……殺したんだろ?」
「間違いなく殺した」
「なら――――」
「――――斬っても死なぬ者。突いても死なぬ者。叩いても死なぬ者。潰しても死なぬ者。ありとあらゆる死、ありとあらゆる方法を以てしても殺せず、世界に嫌われ、輪廻の輪から外された死を不らぬ怪物」
多くの騎士が、彼女との戦いで命を落とした。
如何なる方法、如何なる『奇跡』を用いても、ついぞ殺すことの叶わなかった女。
「その名を――――ベアトリーチェ」
「ッ! まさか……」
望は頷く。大介の想像通りであると。
昨夜、望が殺した少女こそ、件の怪物。
真なる不老不死、ベアトリーチェ。
「彼女は生きている。そも殺すことが出来ない。何度殺してもその度に生き返る」
「不老不死……そんな冗談みたいな存在が本当に居るのか……? 何かの間違いなんじゃ」
「居る」
強く望は断言する。
そこには何かしらの確信が含まれていた。
「どうしてそこまで言い切れる」
「……その問いに答える為にはもう一つの話を聞いてからの方がいい。この話は繋がっている」
「もう一つ……悪い方か」
望は首肯し、ふと窓から外を見た。
どこまでも続く青空を暫し眺め、ようやく望は口を開く。
「昨夜の件について話す為に、私は瑞希に連絡を取ろうとした。でも取れなかった」
「どういうことだ?」
「彼女は毎晩異形の被害を減らす為に戦いに出ている。私や貴方と会った時もその時。昨夜も同じ。彼女は異形との戦いに向かい――――そのまま消息を断った」
「――――」
その言葉を告げられた時、大介の思考は真白に染まった。
何も言えず、ただ呆然と望の言葉を聞き続ける。
「最初は彼女は死んだと思った。異形に殺され、死体を隠されたのだと。でも少しでも生きている可能性を信じて、私は昨夜の戦場に行った。そこで――――私は異形に会ったの」
「――――」
「異形は私に告げた。計画の為に瑞希を攫ったこと。そして今回の首謀者がベアトリーチェであることを。……これがベアトリーチェを不死だと断言する理由。勿論偽物の可能性もあるけど、私はそうは思わない。死んだ人間の名前をわざわざ使う理由が無いもの」
「――――つまり、あの少女が、巫を誘拐したと?」
「異形の言葉に偽りが無ければその通り。瑞希の誘拐だけでなく異形の出現も含めて、ベアトリーチェが全ての元凶になる」
「そう、か」
絞り出せた言葉は、それだけだった。
怒り、後悔、悲しみ……様々な感情が大介の胸中で混ざり合う。混沌とした感情の中、確かに感じられたのはたった一つ。
それは恐怖。また戦いに行かねばならないという再びの恐ろしさ。
ここで望は間違いなく瑞希の救出に向かうだろう。如何に相手が怪物だとしても、『騎士団』として友として囚われの瑞希を見捨てる訳にはいかない。
当然、大介も同行を迫られる。相手には無数の異形も居るのだから、少しでも戦力は必要だ。『竜の腕』を使えば戦力差を覆すことすら可能かもしれない。
いずれにせよ戦場は直ぐ目の前にまで迫っている。ここで逃げる選択肢は、果たして有るのか。
「私は直ぐにでもベアトリーチェの所に行く。貴方は…………どうするの?」
「俺は…………」
そして少年は、一つの決断を下す。
彼の言葉を聞いた少女は目を伏せ、目の前の少年に聞こえぬほど小さい声で、
「……ごめんなさい」
そう、呟いた。




