07.虚無の揺り籠に子は眠る
昼休みも終わり、静寂に満ちた校舎。
誰一人として居ない廊下を歩く。ちらりと横を向けば、ドアに付いている小窓から授業の様子が見て取れた。集中して教師の話を聞いている者も居れば、寝ている者など色々だ。
秋は小窓から視線を切り、再び前方へと向ける。後少しで彼の目的地だった。
階段を降り一階へ。上履きから靴に履き替え外へ。暫く進み続け、ようやくそこに辿り着く。
そこは校舎から少し離れた場所にある中庭だった。当然ながら授業中の今、誰一人としてここには居ない。だが、誰かがここに居たことは間違いなかった。
「ここね秋」
「ああ。昼休みに『奇跡』の気配を感じた。それも複数な」
突然背後から掛けられた声に、秋は驚きもせず淡々と応えた。声の主は淡白な秋の反応に気にした様子もなく彼の隣に並ぶ。
「とはいえ何も情報は得られなそうだな。地面を見るに戦闘があったのは確かみたいだが……リーチェ、魔術で何か分かるか?」
「ちょっと待ちなさい。こういう時に便利な魔術があるわ」
秋の前にベアトリーチェが歩み出る。中庭の一角を一瞥してからベアトリーチェは右手を掲げ、『奇跡』を発動させた。魔力の放出と同時に複数の術式が展開される。
「結界は?」
「既に張ってある。『奇跡』を使っても気取られることはないわ」
周囲に目を凝らせば、薄っすらと紫の膜が見えた。着いて直ぐに張ったのだろうが、いつの間に魔術を発動させたのか秋は一切分からなかった。
秋が結界を眺めている間、ベアトリーチェは迷わず十を越える術式を構築し、更に組み合わせていく。その速度は到底考えながらやっているとは思えぬほど素早い。秋があの領域に至ろうとするには何十年、下手をすれば何百年と掛かるだろう。
「完成。久々だから手間取ったわ――――『燐寸』」
魔術が発動し、ポッと、リーチェの手元に小さな炎が発生する。
風に吹かれれば消えてしまいそうな炎を伴い、リーチェは歩き出した。秋も後を続く。
「それは?」
「過去の再現が出来る魔術よ。とはいえ効果時間も短いし、見られる範囲も小さい。時間に干渉する魔術は難易度が高いから仕方ないけど」
「それでも出来るんだから相変わらず凄まじいな君は。時間の干渉まで出来るんだ。もうリーチェに出来ないことは無いんじゃないか?」
「そうでもないわ。私にも出来ないことはある……正確にはしてはいけないことも、ね」
意味深な言葉を返し,ベアトリーチェはそこで会話を切った。秋もそれ以上は何も言わず、彼女の後を追い掛ける。
うろうろと中庭を歩いているのは、どうやら過去視をするのに丁度良い場所を探しているようだった。炎と中庭と交互に見やりながら、ベアトリーチェは歩き続ける。
「どうだ?」
「そろそろ見付かる筈…………あ、見付けた!」
足を止め、ベアトリーチェは指を鳴らす。
手にしていた炎が膨れ上がり、瞬く間に秋の身長ほどもある巨大な炎へと変化した。その炎の揺らめく向こう側に過去の情景が浮かび上がる。
「あれは……男か?」
炎を覗き込みながら秋が呟く。ベアトリーチェも同じように覗き込み、間違いないわね、と頷いた。
件の黒髪の少年は中庭に置かれたベンチに寝ていた。仰向けの態勢で空を見上げ、ぼんやりと蒼穹を見詰めている。
「彼が奇跡所有者かしら。彼もこの学校の生徒よね?」
「ああ。制服が同じだ」
となれば今は教室に居るかもしれない。まだ彼がそうだと決まった訳ではないが、話を聞く必要はあるだろう。
「……足音が聞こえるわね。誰か来たみたいよ」
コツ、コツ、と炎の中から響く足音。音は確かに聞こえてくるが、肝心の姿は当人がまだ炎の範囲の外側に居るのか、見えてこない。
ベンチに寝転がる少年は何物かの接近に気が付いていないのか、未だに空を見上げている。余りにも呑気な様子に、無意識の内にベアトリーチェは溜め息をついていた。
コツ……コツ……コツ……と、止まらない足音。段々と近付いてくる誰かの存在を、過去の映像でありながらもはっきりと感じ、秋の心臓も鼓動が早まる。今、歩いて来ている何者かは、もしかすれば今回の事件の犯人かもしれないのだから。
コツ。
足音が止まる。
同時に、秋とベアトリーチェは地を蹴った。
「――――――――!」
さっきまで秋とリーチェが居た場所が跡形もなく消し飛ぶ。過去を映していた炎も衝撃で掻き消え、映像が途切れるが、今はそれにかまっている余裕は無かった。
「――――ッ! 何でここに異形が!」
人の形に近しいながらも、その姿は歪だ。人という存在を冒涜し、貶めている。まるで人に対して一切の興味関心を感じさせない。
今回の異形は二つの首に加え、過去の個体と同様に翼を備えていた。歪な肉体と神々しい純白の翼の組み合わせは酷く醜悪だ。冒涜的とも言えるだろう。
「来るわよ秋! 魔術の用意を!」
異形が飛翔。天高く飛び上がり、左側の首が閉じていた口を開いた。攻撃を予見し、魔術を構築しようとした秋の予想を裏切る言葉が、異形の口唇から放たれる。
「――――『嘆きの咆哮』」
「『奇跡』――――だと!?」
「【嘆きの声・序】」
――――咆哮が、耳を劈く。
されどもそれは単なる音に非ず。万象を破壊する響きであることは、秋もベアトリーチェも先の攻撃で察していた。故に驚愕は一瞬。直ぐに冷静さを取り戻し、構築していた魔術を行使する。
「遮断せよ――――『牢獄』」
先に動いたのはベアトリーチェ。
完全防御魔術。単体という条件付きである代わりに絶大な防御力を誇る守りの魔術だ。外部との接触を断つという効果故に、形の無い声ですら防ぐことが出来る。
「跳ぶぞ」
咆哮をで防御し、役目を終えた『牢獄』が消える。同時に秋は身体能力を魔術で強化。地を踏み砕いて跳躍し、異形との距離を一気に詰めた。
「穿て」
構築された術式から紫の光を伴い射出される銀の槍。空を切り裂き高速で迫るそれを、異形は恐れも驚きもせず淡々と咆哮で打ち砕く。
「釣られたな」
異形の背後から響く声。
咄嗟に異形が振り向くよりも早く、秋の魔術が放たれた。
「落ちろ」
雷鳴。瞬きの閃光が輝き、大気が震えた。
――――光の柱が地に落ちる。ベアトリーチェですら時間を要する大魔術を、この短時間で構築して放ったのは流石と言うべきか。
これだけの規模の魔術を前にしては、『奇跡』で抵抗したところで焼け石に水。無駄な足掻きにしかならない。精々一秒か二秒、回避する時間を稼げる程度。それも全力に等しい一撃でなければ対抗は不可能な筈だ。――――異形の『奇跡』が、一つだけならば。
閉じられていた口は二つ。
左側の首は『奇跡』を持っていた。では右側は。どうして持ってないと言い切れる?
ガバッと開く口唇。常闇の如き内部が顕になる。
「『虚無の揺り籠に子は眠る』」
終わりを告げる名が紡がれた。
これより始まるは世界の崩壊。
滅びの闇が解き放たれる。
「【世界崩壊の子守歌】」
――――世界が軋んだ。
異形の開いた口を中心として周囲のありとあらゆる存在が歪む。木も大地も空も、秋の放った雷すらも歪み、形を歪に変形させる。当然、そこに命の有無は関係ない。例え人間であろうと、終わりの闇は全てを歪ませる。
「――――ッ! クソ!」
枯れ枝を折るように簡単に、闇の囚われた秋の左腕が折れ曲がった。更に腕は捻じれ、限界を迎えた皮膚が次々と破れる。血が迸り、秋の体を赤く染めた。
「今すぐその場を離れなさいッ!」
ベアトリーチェの言葉に返事をする暇は無い。秋は即座に術式を展開し、魔術を放つ。――――自身の腕に向けて。
「くれてやるよ――――!」
紫の燐光を纏い、銀の刃が奔る。正確無比な斬撃は秋の目論見通り腕を切り落とした。異形の歪みに囚われていた体が自由になる。
「リーチェ!」
「準備完了よ――――吹き飛ばせ『聖槍』!」
地上から空へと昇る輝きは、聖なる光を帯びた槍。迸る雷光は鮮烈に地上を照らし、邪な存在を一切合切消滅させんと意気揚々。荒れ狂う力の塊と化して、異形へ迫る。
対する異形に動きはなく、変わらず滅びの歌を紡ぎ続ける。周囲を歪め、崩壊へと導く力。忌まわしき旋律は高らかに。天へ地へ響き渡る。
「ッ――――時間稼ぎにもならないか」
両者の決着は、直ぐに訪れた。歌の効果範囲に入った『聖槍』が、雷光もろとも歪められる。所詮は『聖槍』も世界の一部。ならば滅びよと、歌に力が増した。
更に歪む槍。最早槍という形すら喪失した。
これこそ滅び。聖も邪も関係ない。ただそこに在るモノを崩壊させる。
かくして旋律は二番へ。
万物は歪み、崩壊した。
遍く全てよ虚無の腕に包まれろ。
無の揺り籠が森羅万象を受け入れる。
「――――【虚無の揺り籠】」
異形の口内に広がる闇が蠢く。
光を喰らう漆黒が、世界に姿を現した――――
※※※※※※※※※
全ての子が揺り籠の中で眠りに就いた。
異形は『奇跡』を解除し、四つの瞳で周囲を見渡す。
尽くが消滅した世界に命は存在しない。ただ只管に荒野が広がるのみ。
崩壊した世界を見届け、異形は天空へと飛翔した。これにて異形の役目は終了。主を狙う者は世界諸共消え去った。この場に残る必要は最早無い。
そうして立ち去る異形を見送り――――秋とベアトリーチェは大きく息を吐き出した。
二人して周囲を見渡し、異形がどこにも居ないことを確認する。荒地と化した中庭に居るのは秋とベアトリーチェのみ。指を打ち鳴らし、ベアトリーチェは魔術を解除する。
「ご苦労さま『蝶々』」
呼び声に応じ、どこからともなく現れる紫の蝶。とても生き物とは思えぬ幻想的な翅を備えたこの生物は、ベアトリーチェの使い魔であり魔術だ。
幻惑魔術『蝶々』。
幻覚という一点に特化した魔術であり、その精度は本物と見間違うほど。何も知らなければ確実に術中にはまるだろう。先の異形のように。
あの時、ベアトリーチェが発動した魔術は『聖槍』だけではなかった。その裏で彼女は『蝶々』を呼び出し、空に放っていたのだ。秋の離脱で異形の『奇跡』の効果範囲は既に分かっており、『蝶々』を隠すことは容易。後は『聖槍』を囮とし、『蝶々』を発動させるだけ。滅びの歌も、形無き幻覚には無力だった。
「ぶっつけ本番だったけど『蝶々』が通じて良かったわ。駄目だったら秋は死んでたかもしれないわね」
「そこは確実な魔術にしてくれよリーチェ……流石にアレを躱すのは絶望的だぞ」
「……アレ、ね」
異形のもたらした終末の光景を見やる。
最後に見せた大技――――あれこそ異形の切り札なのだろう。
確かにこの破壊力は凄まじい。そして恐らく先の挙動を思う
に回避は絶望的。一度でも技を放たれれば、そこで戦いが決する可能性も有る。
「でもこの騒動の犯人を追えば確実に戦うことになるわ。今の内から対策を練っておきましょう」
「了解、と言いたいが実際のところアレの対策なんてあるのか? 悪いが俺には全く想像出来ないぞ」
「無くはないわ。あまり良い手とは言えないけどね」
「? それはどういう――――」
「それよりもこの後のことを考えましょう。……見る?」
ベアトリーチェが掌の上で炎を揺らす。話をはぐらかそうとしているのは明らかだった。彼女の考えている対策は、どうやら秋が聞けば反対される類のものらしい。
その時点で何となく秋にも対策の中身が想像出来た。もしも秋の予想通りだとすれば、成る程確かに反対するだろう。
だがベアトリーチェは構わず突き進む。彼女はそういう少女だ。自分のことなど二の次。いとも簡単に誰かの為にその身を捧ぐ。それは正しいことなのかもしれない。彼女は不死。彼女にとって死とは一度きりではない。
けれども、それは違うと、秋は断言出来る。
何度も死ねるから。何度も生き返るから。
何度も何度も何度も傷付いても、その心は平気だと。
どうして言える。有り得ないと、秋は断じる。それは人の在り方ではない。怪物のそれ。人を辞め、人であることを放棄したモノの在り方。
だから。だから、秋は。
(俺は、彼女の死を否定する)
ありとあらゆる全ての人間が、ベアトリーチェの死を是としても。
月宮秋だけは、彼女の死を否定しよう。
死は悲しいものだから。
死は辛いものだから。
死は苦しいものだから。
そんな当たり前のことを思うのだ。
「……いや、止めておこう。また奴が来るかもしれない」
果たして少女は、青年の言葉に隠された切なる思いに気が付いただろうか。あの怪物と戦い、その命を散らすことは、どうか止めてほしい、と。
「そうね。確かに秋の言う通りだわ。ここは止めておきましょうか」
少女にとって死とは手段だ。
生も死も、飽きれるほど繰り返した。今更死ぬなと言われ、はい分かりましたと頷ける筈もない。生も死も、最早身近になりすぎている。
もう手遅れなのだ。
ベアトリーチェが死を捨てるには、百年以上遅過ぎた。
だから青年の願いは届かない。
どうかお願い死ぬなと、切実な叫びは虚空に響く。
――――故に青年は、進むしかない。
誰も傷付かぬように。
誰も苦しまぬように。
誰も悲しまぬように。
愛しき誰かを守る為に。
我が身を捧げよう。
それが。それだけが、青年に出来る唯一だから。
傷だらけになろうとも。
四肢を失くそうとも。
寿命を減らそうとも。
誰かの為なら、受け入れられた。




