27.救世主の再誕
それは、ありふれた悲劇。
今日もどこかで起きている。
また、人が死んだ。
今日は三人死んだ。昨日は五人死んだ。明日は何人死ぬだろうか。
死体の前で、男は慟哭する。
救えなかったと、泣き叫ぶ。
これで男が取り零した命は数百を越えた。
ことの発端は、とある疫病の蔓延だった。
この疫病自体は大した問題ではなかった。治療は可能な類の病であり、男でも患者を救うことが出来る。男は人々を救う為に奔走した。
結果、数百を越える人数が死んだ。
確かに疫病自体は、大したものではない。適切な薬さえ処方すれば治療は可能だ。――――疫病自体は、それで治すことが出来る。しかし人の悪意までは、どうしようもなかった。
ありふれた話だ。
病は伝染する。人から人へと伝染る。
隣人の病が、次は自分かもしれない。
だから、殺す。
病が伝染る前に。
隣人を。友人を。家族を。
殺す。
そうして数百を越える命が失われた。
男の治療は間に合わず、人は病を恐れて誰かを殺す。
今日は四人死んだ。昨日は七人死んだ。明日は何人死ぬだろうか。
日に日に失われる命。共に笑い合い、言葉を交わした者達が物言わぬ骸となっていく。死体はどんどんと積み重なり、比例するように命が失われる。
かくして男の努力は無駄となった。
人の悪意を治療する力が、男には無かった故に。
「私は……何の為に……」
全てが無駄だった。
最早、生きる意味も失くした。
「…………」
虚ろな表情で男は自衛用の銃をこめかみに当てる。
引き金を引くことに躊躇は無かった。
銃弾が、頭を撃ち抜く。
そして男は人生を終えた。
男の体から力が抜け、銃が床に落ちる。
静寂が、家の中に満ちる。
しかし直ぐに静寂は破られる。
ガチャリと、ドアノブが回った。
軋むドアを押し開け、室内に年若い少女が足を踏み入れる。
見目麗しい少女だった。
深淵より尚深い闇色の髪。流れ落ちる鮮血の如き赤色のメッシュ。同色の瞳は妖しく輝き、血に染まった室内を見渡す。
「危険はありません。どうぞお入りください」
恭しく頭を下げ、少女は青年を出迎える。
青年は少女の過剰ともいえる警戒した様子に苦笑しつつ、室内へと足を踏み入れた。そのまま床に倒れている男の死体へと近付き、灰色の瞳で見詰める。
「まだ近くに居るね。どれその辺りかな」
そう言い、青年は虚空に手を伸ばす。そしてナニカを掴むと、少女に視線を向けた。
「アレの用意は出来ているかい?」
「はい此方に」
少女は小瓶を取り出し、蓋を開けて手渡す。青年は満足そうに頷き、小瓶の中身――――黒くゴツゴツとした種を男の死体へと落とした。
「…………こんなことで本当に蘇生が可能なのですか」
「ああ。彼の場合は死後間もないし、この種との相性も抜群だ。直ぐに『奇跡』は彼の肉体に根を張るだろう。そうすれば器が完成する。器さえ完成すれば、後は僕の能力で蘇生は簡単なことだよ」
楽しそうに笑い、青年は手に掴んでいたナニカ――――『荊の庭園』を男の死体へと押し付ける。
――――果たして、再誕は此処に成る。
「っ…………ここは……」
虚ろな表情で男は目を覚ました。
少女が驚愕の表情を浮かべ、再誕を成した青年へ視線を向ける。青年は柔らかく微笑み、男へ声を掛けた。
「気分はどうだい?」
「……君は……誰だ?」
「僕のことはどうでもいいよ。それより気分はどうだい? 何せ君はちょっと前まで死体だったんだ。体調が悪かったりしないかい?」
「死体……?」
呆然と男は呟く。しかし直ぐに青年の言葉が意味することを男は思い出した。
「ぁ…………あぁ…………あああるああああああ!」
頭を抑え、男は絶望の嘆きを上げる。狂った叫びが室内を満たし、窓を震わせた。
「お前は……お前は何てことをッ!」
男が青年へと掴み掛かる。
しかし伸ばした手は、あろうことかくるくると宙を舞った。
「は……?」
見れば肘から先が綺麗に切断されていた。
男は床に落ちた自分の腕と断面を交互に見て、と遅れてやってくる激痛と出血に悲鳴を上げた。
「っあああああああああ!」
苦痛に男はのたうち回る。その間にも血はどんどん溢れ出し、床を更に赤く染めていく。
「手を出す必要は無かったのに」
「御身を害する全てを切り裂くこと。それこそ私の存在意義にございます。どうかご容赦を」
「ま、いいよ。君のそういう所が僕は好きな訳だしね」
男の腕を切り落とした少女の頭を撫で、青年は未だに騒ぎ続ける男を見下ろす。その表情には男の苦痛に対する同情も憐憫も後悔も無い。あるのは楽しそうな喜悦の笑みのみ。
「安心するといいよ。直ぐに治る」
「ッ! 何をふざけたことを――――!」
「本当だよ。ほら見てみな」
「…………あ?」
視線を切り落とされた腕へと向ける。
確かにそこには失くした筈の腕が確かについていた。
「は……はは……そんな馬鹿な……こんなことが有り得る訳がないだろう! 現に切られた腕はそこに落ちたままだ!」
「当然だよ。その腕は接着した訳じゃない。新しく生えてきたのだから」
「は……えた……? 何を言って…………」
「それは自分が良く分かっていると思うよ。何せ君の体のことだ」
言われ、男は自身の体へと意識を向ける。
すると確かに、理解出来た。自分の体は、最早自分だけの物ではないこと。肉体の内側、或いは心の内側、或いは魂の内側に感じられる。――――蠢く荊の存在を。
「これ……は……」
「おめでとう! 君は『奇跡』を手に入れた。それは神からの祝福だ。最早君は人ではなくなった」
祝福だと、青年は言った。
これは神から授けられた『奇跡』だと。
男は顔を伏せ、震える声音で問い掛ける。
「……何故だ」
「ん?」
「何故だッ! 何故、こんな力を私に与えたッ! 死人の私に何故、こんな力をッ!」
『奇跡』の力。これが如何に人並外れた力なのか、その身に宿す男には分かる。これは、死人に与えていい物ではないと。もっと相応しい者が、他に居る筈だ。
しかし青年は首を振る。
「それは君だからこそ与えたんだ。――――人を救わんと奔走した君にこそ、その力は相応しい」
「は……? 何を言って……」
「君は、罪を何だと思う?」
「つ、罪……?」
そうだ、と青年は頷く。
「罪とは、人が生まれながらにして抱えるモノ。人という種に定められた業のことだ。人を、人足らしめるモノであり、人を闇へと誘うモノでもある」
「何だそれは……冗談のつもりか?」
「いいや本当の話だよ。君は、疫病に罹患した患者を救おうとした。しかし人々が選んだのは隣人を敵視し、家族を疑い、誰かを殺す道だった」
男が顔を伏せる。そうだ。青年の言葉に間違いはない。確かに男は人々を救おうとした。だが人々は殺し合う道を選んだ。その果てに男は絶望し、自ら死したのだ。
「でもそれが、罪という存在が原因だったとしたら?」
そして青年は、毒を言葉にする。
「罪は人を闇へと誘う……つまり悪性の根源だ。人々が殺し合いを始めたのも全てはこれが原因だと思わないかい?」
「――――」
青年の言葉は、常ならば一笑に付す類のものだった。
医学という学問を修めた男にとって、オカルトは余りにも受け入れ難い。罪が原因で人を殺し合いを始めたなど、その最たるものだ。
だが、笑い飛ばすことは出来なかった。
現に正しくオカルトとしか言いようのない現象が、目の前で起きている。医者である男には分かる。腕が生えるなど、有り得ない、と。更に言えば、死者が蘇ることほど馬鹿げた話はないだろう。
自分という実例が、青年の言葉を裏付けている。
普通では有り得ない事柄が、世界には有ると。
何より自分の中に居る荊が、それを肯定していた。
「……仮にだ。仮にお前の話が本当だとして、それが私に何の関係がある。私は誰も救えぬことに絶望し、死を選んだ男だ。死人である私にお前は何を求める……!」
「単純なことだよ。成すべきこと成せ。それだけだ」
「成すべきこと?」
「そうだ。君は人々を救おうとしたのだろう? なら救えばいい! 今度こそ! 救済すればいい!」
それは、男の描いた願い。
人々の救済。苦しむ誰かを救いたいと願った男が、胸に抱いていた光そのもの。一度は叶わなかったそれを、叶えろと、青年は言う。
「その為の力は君の内側にある。荊が君を導いてくれるだろう」
男は胸に手を当てる。荊が、青年の言葉を肯定するかのように蠢いた。同時に荊の――――『荊の庭園』の知識が、男の脳髄へと刻まれる。
「…………は、はは。何だ、これは。こんな……こんなことが……」
『荊の庭園』のもたらした知識は男の想像を遥かに越えるものだった。
『奇跡』の存在。神の存在。罪の存在。
『荊の庭園』という『奇跡』が持つ能力。罪を喰らい、人を救う力。宿主となった男には、救済が可能であるということ。
ありとあらゆる知識が男の脳内を駆けずり回る。そして最後に、男は幻視する。
それは、闇夜に輝く月の如く。
それは、常闇に灯る炎の如く。
それは、漆黒を穿つ光の如く。
穢れを知らぬ魂。至高の魂。世界で唯一、罪を知らぬ魂。
――――――――純白の魂。
「見えたかい?」
青年が問う。
男は頷く。
その瞳は未だに純白の魂を捉えている。
魅入られていると、誰が見ても分かった。それほどまでに、純白の魂は美しい。否、美しいという概念を通り越している。それは魂を――――罪を持つ者であれば、誰もが焦がれる。
「それは人という種を救う鍵だ」
「鍵……?」
「そうだ。君も見て、感じ取っただろう。それは、穢れを知らない。純真無垢であり、純白である。つまり世界で――――」
「――――唯一、罪を知らない。悪性に誘われることがない……! 人が、人という種を害することがなくなる! 誰もが笑い合い、慈しみ合うことが出来る!」
興奮した様子で男は叫ぶ。青年は男の言葉を肯定する。
「そう。それこそ、僕達が手に入れなければいけないもの。人を救う鍵だ」
「ああ……! これさえあれば永劫の平和を手にすることが出来る! 人を救うことが出来る! 誰も悲しまない! 誰も苦しまない!」
湧き上がる感情を抑えることが出来ず、男は叫び続ける。男が何としてでも成そうとし、そして失敗した救済。それを、純白の魂があれば人類規模で成すことが出来るのだ。興奮するなと言う方が無理だった。
「教えてくれ! これは今どこにある! いや、誰がこれを持っている!」
「――――ベアトリーチェ。不老不死の怪物。死を知らぬ化物。幽霊と呼ばれる女。彼女が、この魂を抱えている」
「ベアトリーチェ……」
「でも気を付けるといい。彼女は君と同じ力を――――『奇跡』を持っている。他にも君の行動を邪魔しようとする者は多く居るだろう」
「関係ない。義は私の方にある。私は救ってみせる! 今度こそ! 皆を救ってみせるッ!」
そうして男は――――ドストエフスキーは救済者となった。
全ては純白の魂を手に入れ、人類を救済する為。
大望を果たす為に、ドストエフスキーは邁進する。
罪を喰らい、『荊の庭園』を育て、純白の魂を手に入れんとする。
だが果たして、彼の進んだ道は、本当に正しいものだったのか。ドストエフスキーは、未だに苦悩する。出口の無い迷路を彷徨うかのように。答えを求めて手を伸ばしている。
罪とは、何だ。
人と共にある悪性の根源。
人を闇へと誘う深淵。
――――違う、と。ドストエフスキーは確信している。
幾多の罪を喰らい、苦しんできたドストエフスキーには分かる。
罪とは、悪性の根源でも何でもない。
それは確かに存在しているが、人の精神に影響を及ぼすだけの力は皆無に等しい。
故にドストエフスキーは、苦悩し続けている。
答えを求めて、彷徨い続ける。




