13.冷たき棺に少女は誓う
それは、奇跡と呼べるタイミングだった。
否、運命とでも呼ぶべきか。
秋の肉体が、ついぞ壊れる――――その刹那、絶対の冷気が秋を包み込んだ。全てを拒絶する冷たさでありながら、秋を包む氷はどこか暖かさを感じさせた。
蹂躙によって威力を減衰させていた奔流では、氷の棺を破壊することは出来ない。かの『奇跡』は無数に存在する『奇跡』の中でも特に封印に特化したもの。暴君といえど、安寧は壊せない。
「新手か」
暴君を今一度縛り付け、傷だらけの顔をキースは喜びに歪ませる。キースの視線の先には、一人の少女が立っていた。
鴉色の髪。深淵の瞳。白磁の肌。
美という概念が形を成したような、見目麗しき氷の女。
氷室蓮華。
零を有する、奇跡所有者。
キースが蓮華と会うのは、これが初めてだった。しかし彼女についての情報は既に得ている。世界に数えるほどしか存在しない第零階梯の『奇跡』の一つ――――『咎人眠る永遠の氷棺』。その所有者である、ということ。
先の氷結も彼女の力だろう。『咎人眠る永遠の氷棺』なら容易い芸当の筈だ。秋が死ぬ前に肉体を封印し、延命させる程度のことなど。
(いいねぇ。面白くなってきた)
『咎人眠る永遠の氷棺』は確かに凄まじいが、それも使い手の技量次第だ。その点で言えば氷室蓮華の技量は歳の割に恐ろしく高い。果たして全力の『破壊の暴君』をぶつけ、勝てるだろうか。
(死ぬかもしれねぇ……か? いや、それがどうした。戦うことが俺の喜びだ。果てが死だろうが、足を止める理由にはならねぇ)
秋の時とは違い、剣を構える。
月宮秋は戦闘経験も少なく、『千の魔術を統べる者』も使い熟せてはいなかった。故に雑な戦い方でも勝利出来たが、今度は違う。
油断すれば死ぬ。それだけの力が、氷室蓮華にはある。
しかし剣を構えようと、蓮華は一向にキースの方を向きはしなかった。無防備に背を向け、氷の中で眠る秋をただ見詰めている。
秋の肉体は、生きているのが不思議に思えるほど壊れていた。もしも蓮華の氷結が少しでも遅れていたら、間違いなく命は無かっただろう。
幸運と、呼べばそれまでだ。
助かった事実を無邪気に喜べばいい。
だが蓮華の心は。
(……………………)
怒りでもなく、
悲しみでもなく、
喜びでもなく、
ただ、純粋に、
「――――――――『咎人眠る永遠の氷棺』」
ただ、冷徹に、
「凍れ」
殺意を、抱いていた。
「ッ!」
思考を置き去りに、体が動く。間を置かずして『咎人眠る永遠の氷棺』が、誰も居なくなった空間を凍り付けにした。
「凍れ」
容赦のない追撃。冷気がキースの体を包み込む。
だがキースとて歴戦の猛者。更に回避すると同時に、蓮華への距離を詰める。
『咎人眠る永遠の氷棺』に間合いの概念は無い。相手が視認さえ出切れば、一声で凍り付けにすることが出来る。
一方『破壊の暴君』は能力上、遠距離からの攻撃も可能だが、剣という形をしている以上、近距離でこそ本領を発揮出来る。
(近付きさえすれば相手も簡単には凍らせられない。彼我の距離が大きい今、少しでも距離を詰めることが先決だ!)
追撃を、経験と本能で回避する。少しでも誤れば死は逃れられない緊張感を活かし、キースは極限まで神経を研ぎ澄ませた。
段々と、少しづつではあるが距離が縮まる。
十メートルが八メートルに。八メートルが五メートルに。――――五メートルが、一メートルに。
(届いたッ!)
全力を振り絞り、一瞬で距離を詰める。
最早二人の距離は、少女の黒き眼にキースが映り込むほど近い。
「壊せッ――――!」
暴君が、牙を剥く。
少女の脆い肉体を、壊すべく。
蓮華は避けない。
ただ荒れ狂う嵐の如き殺意をキースに向けるのみ。
何故なら彼女には、分かっていたから。
「――――【土塊】」
凛とした、美しい声音。
キースと蓮華の間に、人影が躍り出る、
それは、人形。
土を肉体とし、水銀を血液とし、石を臓器とし、鉄を脳とし、仮染めの命を与えたモノ。
名を【土塊】。
「殴り飛ばしなさい!」
主の命に従い、【土塊】が拳を振るう。
「邪魔だァッ!」
それより先に、『破壊の暴君』が振り抜かれる。元より蓮華に向けた攻撃の最中。速度ではキースが勝る。
破壊が、【土塊】を襲う。
たかが泥人形。暴君の前には容易く壊れるだろう。
しかし――――
「な――――」
真正面から破壊を受けたのにも関わらず、【土塊】にダメージは無かった。指の一本ですら、欠けてはいない。
「ッ!」
驚くキースを、拳が殴り飛ばす。
【土塊】の拳は土とは思えぬほど重く、強い。
吹き飛ばされ、地面に叩き付けられる。骨が砕け、内臓が潰された。明らかに戦闘続行は不可能。にも関わらずよろよろと立ち上がり、キースは迫り上がってきた血を吐き出した。
「【土塊】の拳の味はどうかしら? キース・アークライト」
「ああ……堪能させて貰ったよ。ベアトリーチェ」
獣の如き眼光が、鋭く少女を睨め付ける。
真白の少女、ベアトリーチェ。
彼女は悠然と微笑み、蓮華の前に立っていた。
「結界はどうした? 簡単に壊れる物でもなければ、そも発見すら難しい筈だが」
「あら貴方、私を誰だと思っているのかしら?」
ベアトリーチェが得意げに術式を手元に展開してみせる。
それだけで、結界が破られた原因をキースは悟った。
「『千の魔術を統べる者』か」
「正解。結界があると分かれば、それの対抗魔術を使えばいいだけだわ」
軽く、まるで大したことではないとベアトリーチェは言う。
しかし、その言葉が如何に常軌を逸していることか。
ありとあらゆる魔術を行使可能とする。それはつまり、何でも出来るということ。ある意味、複数の『奇跡』を持っているとも言える。
それを使い熟し、即座に応用すら可能。まさしく神業と呼べるだろう。
(伊達に長生きはしていないってことか)
『奇跡』は一朝一夕で使い熟せるような力ではない。それこそ短い人の生を費やし、ようやく極めたと言えるほど。
『千の魔術を統べる者』ともなれば、人の一生では足りないだろう。ベアトリーチェという不死だからこそ、ここまで使い熟せていた。
「大丈夫、蓮華? 勝手に突っ走って行くから心配したわ」
「…………どうして」
「え?」
「どうして、邪魔をした?」
蓮華の瞳が、ベアトリーチェを見る。
闇。深い深い深淵。
ちらりと、ベアトリーチェは氷に包まれた青年を見やる。彼の肉体は、かろうじて人の形をしていた。とても痛々しく、彼が如何に足掻き、戦ったのか分かる。
(確かにこれは、蓮華の気持ちも分かるわね)
ここまで壊された青年を見て、ベアトリーチェも何も思わない訳ではない。しかし、今は怒りすら耐える時だ。
「蓮華。今は、その時ではないわ。……抑えてくれないかしら」
「………………………………」
長い沈黙を経て、こくりと頷く。それが戦いより秋の身を優先しての同意だとは、変わらずキースに向けられる強烈な殺意で分かった。
「ありがとう」
礼を言い、ベアトリーチェは改めてキースと対峙する。
「それで、このまま続ける?」
「まさか。流石に零を二人も相手するのは俺にも無理だ。今回は退かせてもらう」
『破壊の暴君』を地面に叩き付け、砂塵を起こす。砂塵が晴れた時には既にキースの姿は跡形も無く消え去っていた。
「相変わらず逃げ足は早いわね…………さて、と。蓮華、取り敢えずここを離れるわよ。結界も消えて色々と騒がしくなるだろうし」
ベアトリーチェの言葉に、蓮華は何も言わない。
ただ、凍り付いた秋を見詰めている。
その横顔からは、彼女が何を考えているのか分からない。
「…………」
そっと、手を氷に置く。
棺は、冷たく、硬い。
かつて伸ばされた青年の手は、暖かく柔らかかったことを思い出す。弱い少女を、助けようとした手を。
また、彼は助けようとした。
その為に、足掻いた。
傷付くことを厭わずに、死ぬことを恐れずに、彼は、戦った。
「…………約束、する」
だから、応えないといけない。
彼の思いに。彼の願いに。彼の、戦いに。
「私が、必ず勝つ。キースを倒す。だから――――」
――――だから、待っていて。
そう、彼女は告げた。
※※※※※※※※※
夜道を駆けずり回り、男はようやくそこへ辿り着いた。
住宅街の中心から少し外れた位置に建てられた、どこにでもありそうな普通の家。際立った物など一切なく、外灯が点いていれば単なる一軒家としか思えないだろう。
男は玄関を開け、家の中へと入る。もしも普通の人間がここに入れば直ぐに違和感に気付いただろう。
家に染み付いた血の匂い。明かりが点いているにも関わらず陰鬱とした雰囲気。明らかにマトモではない、と。
しかし男は何ら気にせず、重たい体を引き摺るように廊下を歩く。リビングの扉を開け、中へと入ると同時に、男へ声が掛けられた。
「随分と暴れたようだな」
声の主はリビングのソファに体を預け、本を読んでいた。青い瞳だけを部屋へと入ってきた男――――キースへ向ける。
「まあな。ちと暴れ過ぎて手酷いしっぺ返しも食らった。あのまま続けるのは少しキツい」
腹部をさすりながらキースは苦笑する。
【土塊】の一撃は、予想以上に重かった。その辺り、流石はベアトリーチェの使い魔と言えるだろう。
「気を付けろよ。戦うのはお前なんだから」
「安心してくれ。今夜で、準備は終わる」
そう言い、ドストエフスキーは本を閉じる。
「じゃあ――――」
「今日で六百六十六だ。『荊』も、遂に全力を出すことが出来る」
「そうか。そうかそうか。なら遂にか!」
腹部の痛みも忘れ去り、キースは歓喜に打ち震える。
長く、長く待った。実際は数日にも満たないが、キースにとっては一日千秋の思いで待っていたのだ。これが喜ばずにいられるか。
「待たせたねキース。そろそろ出ようか。とはいえ先に君の体を癒やす方が先だけど」
「大した傷じゃねぇよ。それより俺は――――」
「キース。無理はしない。それで負けては意味が無い。君がここに居る意味を、忘れた訳じゃないだろ?」
「…………はぁ。自由じゃない体ってのは嫌なもんだ。分かったよ。暫くはのんびり養生でもしてるさ」
「それでいい」
笑みを浮かべ、ドストエフスキーは立ち上がる。
「『騎士団』には気を付けろ。あいつ等、何考えてんのかさっぱりだからよ」
「所詮は『騎士団』も私達と同じ穴の貉だ。なら思考は一緒さ」
そう言い残し、ドストエフスキーはリビングを出る。
廊下をゆっくりと歩き、玄関へ。外へ出れば、暗い夜空が広がっている。
「嗚呼――――ようやくだ」
空を見上げ、言葉を零す。
ずっと、求めていた。
ずっとずっと、求めていた。
疑問の答え。それを、遂に手に入れられる。
「ベアトリーチェ」
手を、伸ばす。
まるで星を掴むように。
宇宙へと、伸ばす。
「罪とは、何だ?」




