10.過去と交わる今
「ん…………」
炎に沈む街並みから意識が浮上する。肺を焼く熱も、降り注ぐ火の粉も、全て過去へと流され消えていった。
目を開け、先ず最初に目に映るのは白い天井。そして明かりの消えた照明だ。最近になりようやく見慣れてきた光景だが、ベアトリーチェにはどうにも変に思えてならなかった。
「……違うわ。あれは、夢よ」
上半身を起こし、頭を振る。
目の前の光景は、決して鈍色の空でも燃え盛る街でもない。極々一般的な普通の部屋だ。この平穏な光景の方が偽物ではない。
……そう理解しているつもりでも、やはりベアトリーチェと平穏は相容れない。だが、それも仕方ないことだろう。今も尚、彼女の肉体は積み重なった痛みによって蝕まれているのだから。
ベッドから立ち上がり、整った裸体を外気に晒す。白い長髪が柔肌をさらりと撫で、背に流れた。室内は少し肌寒く、暖かい飲み物を飲もうとベアトリーチェはケトルに水を注ぎ、スイッチを入れる。
水は直ぐに沸騰した。用意しておいたマグカップにティーパックを入れ、お湯を注ぐ。甘い香りが鼻腔を擽った。
マグカップを持ち、ベッドに戻り、腰掛ける。そして出来上がった紅茶を一口飲み、
「駄目ね。気も紛れそうにないわ」
はぁ、と溜め息を吐き出した。
理由は当然、さっきまで見ていた夢。
ベアトリーチェと、『騎士団』の闘争の記憶。そして、彼との出会いの記憶だ。
「ヨハネス…………ヨハネス・ブライト」
忘れなどしない。
忘れられる訳がない。
あの日、ベアトリーチェを幾度も殺し、しかし最後には見逃した男のことを。
「…………『ブライトの子供たち』と会って気でも立っているのかしらね。だとしたら私も結構繊細だったってことか」
苦笑し、また紅茶を口にする。
『ブライトの子供たち』とは『騎士団』の内部にかつて存在した孤児院の名であり、そこを巣立った者達のことを指している。
ネロ・ブライトとフランチェスカ・ブライト。彼等もその性が示す通り、『ブライトの子供たち』と呼ばれる者達だ。
では、『ブライトの子供たち』が名乗るブライトとは、誰なのか。
ヨハネス・ブライト。
そう。ベアトリーチェを殺し尽くした騎士だった。
「………」
奇妙な運命だと思う。まさか彼の名を継ぐ者達と協力することになるとは。過去のベアトリーチェが聞けば激怒することは間違いない。
否、今も変わらない。本音を言えば今すぐにでも彼等を殺したいほどにベアトリーチェは激怒している。
かつてと、今は全く同じだからだ。
名も知らぬ女が、ベアトリーチェを掌の上で踊らせたように、
ベアトリーチェを殺し尽くした男の養子達が、ベアトリーチェを掌の上で踊らせようとしている。
憎らしいことに二人の言葉は似ていた。
舐めるなよ化け物、と。
「ッ…………!」
怒りの炎が身を焦がす。
不愉快で堪らない。
化け物と呼ぶのは構わない。
掌の上で踊ることも許そう。
舐めるなと敵視するのも好きにすればいい。
だがベアトリーチェを、この私を弱く見ることだけは許さない。
人の寿命を超えた年月を生き、度重なる地獄を味わい、幾度の他者を切り捨て、苦痛を集積し、その果てに、ベアトリーチェは立っている。
進み続けた魂を、抗い続けた肉体を、ベアトリーチェは誇りに思っている。それをたかが数十年も生きていない子供が、何を上から物を言う。
ベアトリーチェは、決して弱くない。弱ければ疾うの昔に心折れて物言わぬ肉塊と成れ果てている。
ここに居ること。それこそベアトリーチェの強さの証明だった。
「はぁ」
紅茶をテーブルに置き、溜め息と共にベッドに倒れ込む。
甘い香りと柔らかなシーツが白い裸体を包み込んだ。怒りも霧散し、微睡みに沈んでしまいそうな心地良さ。このまま寝てしまえば、きっと安眠出来るに違いない。
(……いいえ)
起き上がり、ベアトリーチェは残っていた紅茶を飲み干す。
寝ている暇など無い。やるべきことは多かった。相手にしなければならないのはドストエフスキー達だけではないのだ。『騎士団』も一時的な協力関係にあるだけで、敵であることに変わりはないのだから。
『随分とやる気があるわねベアトリーチェ。明日は雨でも降るのかしら』
「ッ――――へカーティア!」
脳内に、声が響く。
それは、久し振りに聞く彼女の声だった。
へカーティア。『奇跡』と同じ名を持ち、『奇跡』の中に在るもの。
ベアトリーチェにとって最も付き合いの長い友人。――――そして、裏切者。
「何の用かしら。私は貴女に用なんてないけれど」
『冷たいわね。ま、それも仕方ないわ。私は貴女を裏切ったようなものだもの』
悲しげにへカーティアは言う。だが彼女がそんな殊勝な女ではないことをベアトリーチェは知っていた。
元々、『千の魔術を統べる者』という『奇跡』は一つしか存在しない。しかし現状、『千の魔術を統べる者』は二つ存在している。月宮秋と、ベアトリーチェの中に。
最初は疑惑だったが、この間の一件を経て確信へと変わった。『奇跡』を二つに分かち、秋とベアトリーチェそれぞれに渡したのはへカーティアだと。
「色々と大変だったわ。全部、貴女の所為でね」
嫌味ったらしく吐き捨てる。
八つ当たりだと分かっていても、口にせずにはいられなかった。彼女が『奇跡』を二つに分けなければ、秋が戦いに巻き込まれることなどなかったのだから。
しかし飄々とへカーティアは応える。
『私は私の成すべきことをしただけよ。私にも目的がある。それを果たす為に、私は居るのだから』
目的。
時折、彼女はその言葉を口にする。『奇跡』そのものとも言える彼女が何を成そうとしているのか、長い時を共に生きてきたベアトリーチェでも知らなかった。
「目的を果たそうとするのは結構よ。でも私に迷惑を掛けないで」
『掛かっているかしら? 分かたれたとはいえ、貴女は『千の魔術を統べる者』を使い熟している。貴女の複合魔術は、本来なら使用出来ない筈の攻撃型の魔術だって使えるもの』
「『奇跡』に限った話じゃないわ。私が言いたいのは――――」
『リーチェ』
有無を言わせぬ口調だった。
姿は見えない筈なのに、鋭い眼光を感じる。
『貴女が一番、分かっている筈よ』
諭すような、言葉だった。
まるで親が子に向けるような、愛に溢れた言葉。
ベアトリーチェは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、小さく呟く。
「…………分かっているわよ私だって。でも…………」
『なら維持を張るのは止めなさい。…………私は、貴女の隣を離れるつもりなんてないのだから』
「ッ! …………そう、ね。私と一緒に生きられる存在なんて貴女と彼しか居ないでしょうし」
冷静を装った、しかし喜びを隠して切れていない表情。目の前にへカーティアが居れば間違いなく苦笑していただろう。
「そういえば貴女、どうして急に私の前に現れたの? これまで一切顔を見せなかったのに」
『ああ、そうね。本題を忘れるところだったわ』
そこでへカーティアは一度言葉を区切り、
『秋がドストエフスキー達の所へ向かったわ。早くしないと彼、死ぬわよ?』
軽い口調で青年の死を告げた。




