02.変わらぬ願い。変わりゆく日々
『氷室は氷室のままで居てくれ』
そんな言葉を掛けられたのは、産まれて始めてだった。
氷室蓮華はズレている。歪んでいるとも、狂っているとも言えるだろう。そして同時に蓮華は、類稀な美貌を持って産まれてきた。
人を魅了し、虜にする魔性に惹かれる者は多い。男女隔てなく蓮華に近付き、そして気が付く。
氷室蓮華は、自分達とは違う生き物だと。
結果、誰もが蓮華の下から去っていった。それでも残った者は居た。だが彼等も所詮は普通の人間だ。異なる存在は受け入れられず、否定し、拒絶する。未練がましく近くに居続けたからこそ、その怒りは大きく、深い。
悲しいとは思わなかった。だが、彼等が自分の下を去って行くことに孤独は感じていた。
けれども、理解出来ないのだ。
彼等と同じ感情を、共有出来ないのだ。
氷室蓮華は、変われない。
変わることを求められても、変わりたいと思っても、変われない。
それが彼女なのだ。
だから、秋の願いは叶う。
『氷室は氷室のままで居てくれ』
変わらないでほしいと、求められたのは始めてだった。
思えば彼は不思議だ。いくら『奇跡』という繋がりが有るとはいえ、未だに彼は蓮華の傍に居る。蓮華のズレを知った上で、共に居る。
蓮華は秋を裏切ったこともあるというのに、彼は傍を離れない。それどころか自ら手を伸ばし、蓮華の手を握った。
(何故、彼は私と一緒に居るのだろう)
理由がある筈だ。理由なくして共には居ない。
では、理由とは何だ?
『奇跡』か? 体か? 心か? それとも――――理由など、無いのか?
蓮華を求めるのならば、彼女のズレは受け入れられない。
『奇跡』を求めるのならば、ここまで傍に居る必要は無い。
なら、何故。
何故、隣に立つ?
本当に理由など、無いのか?
だとすれば、
(気味が悪い)
下心もなく近付く人間など不気味なだけだ。
本心から、蓮華は秋を嫌悪する。
でも――――
「…………」
覚えている。
暖かい彼の手の温もりを。
弱い自分を背負ってくれた、彼の優しさを。
だから、心の底から彼を嫌うことなんて出来ない。
蓮華もまた、秋の傍に居たいから。
(…………理解、出来ない。けれど……)
けれど、それが自分の願いだと分かってしまう。
自分が求めているのは、秋の隣に立つことだと。
(……気味が悪い)
醜悪だ。人の心を理解出来ないのに人に寄り添いたいなど悍ましい。それではまるで、孤独に喘いでいる様ではないか。
(私は、独りでいい)
氷室蓮華は、孤独に生き、孤独に死ぬのだ。
それで、いいのだ。
「…………」
空を見上げる。
既に日は落ちた。星が散りばめられた空は幻想的で、思わず見惚れてしまう。
(いい加減帰らないと)
家で誰かが待っている訳でもないが、遅くまで外出する気も無い。さっさと帰るべく、蓮華はこれまで座っていたベンチから立ち上がる。
そして唐突に、蓮華は問うた。
「それで、何の用?」
「…………何だバレてたのか」
蓮華の唐突な問い掛けに返す声が一つ。
声の主は夜闇の中からその姿を現した。
燃え盛る炎のような赤色の髪。闇の様に深い黒色の瞳。背格好や風貌から察するに男だろう。それも蓮華と近しい年頃だ。
だが何より目を引くのは腰に差した剣だ。重厚な鞘に収められたそれが示すのは、男がとある組織の一員であるということ。
「……『騎士団』」
「正解と言いたいが、これを見れば分かるからな。残念ながらご褒美は無いぞ」
「何の用? 貴方達に関わったことも、関わられるようなことをした覚えも無いけど」
「ああそれで間違いない。でも悪いな。理由はこっちにあるんだわ」
ゆらりと、男の姿がブレる。蓮華は瞳を閉じ、心底下らなそうにいつもの言葉を口にした。
「凍れ」
宣告は無慈悲に下される。
蓮華の『奇跡』は速やかに命令を実行した。
華開くように、蓮華の周囲を氷が覆い尽くす。遅れて響く剣戟の音。目を開ければ眼前には剣を振り抜き、しかし氷の壁に阻まれている男が居た。
「何のつもり?」
「そう睨むな。こっちも仕事でな。任務は遂行しなきゃなんないんだよ……ッ!」
男が剣を振り下ろす。だが蓮華は動じず、身じろぎ一つしない。
彼女を取り囲む氷の壁を、男は突破出来なかった。なら手を出さずとも男の攻撃は通らない――――そう、思っていた。
「悪ぃな」
男の剣が、氷の壁を簡単に切り裂く。
勢いそのまま、男は蓮華へと斬りかかった。
(ッ……避けられない)
氷の壁を切られたのは完全に予想外だ。しかし蓮華は驚きもせずに第二の壁を出現させようとした。だが、間に合わない。しかも壁を切られた時点で避けに徹しなかった為、避けることも無理だ。
それでも出来るだけダメージを抑える為に身を撚る。結果、男の刃は蓮華の左腕を斬り飛ばし、左目を縦に斬り裂いた。
(凍れ)
痛みで気を失う前に『奇跡』で痛覚を凍結させる。同時に傷口の止血を行うが、流石に顔を凍らせることは出来ず、流れる血が頬を濡らした。
「ハッ!」
刃は止まらない。流れるような動きは熟練が成せる技か。一分の隙もなく、連撃が蓮華を襲う。
防御は無意味だ。男の『奇跡』は容易く蓮華の氷壁を断ち切る。では避けるか。それも無理だ。元々蓮華は近接戦闘が得意ではない。卓越した剣術を前に逃げようとすれば今度こそ両断だろう。
さて、どうする。
防御も逃走も駄目。なら取れる手段は一つだけ。
「凍れ」
攻撃。これしかないだろう。
男の目の前に氷の塊が出現する。だが単なる塊ではない。それは棺だ。氷で作られた死者の箱。当然それは中身を求める。
棺の蓋が開き、氷の腕が無数に飛び出る。蓮華の『奇跡』の特性の一つ、封印の力を強く帯びたそれは中に死者を入れるべく男へと手を伸ばした。
無数の白い氷手がさながら弾丸のように突撃する。男は間近に迫った三本を切り捨て、蓮華から距離を取った。しかし手は止まらない。
伸びに伸び、男を追う。男は舞うようにして追撃を躱し続ける。当然、ここで手を休めるほど蓮華は優しくない。更に三つ、同様の棺を作り出し、無数の腕をけしかける。
うねる腕はまるで蛇だ。白腕の群れは男の逃げ道を塞ぐように四方八方から攻撃を仕掛けるが、男は剣を大きく何度も振るい、向かう腕全てを切り落とした。腕は砕け散り、虚空へと消え去る。
「どうした? 随分と温いぞ」
挑発しているのだろう。男が手招きする。しかし男が対峙しているのは他でもない氷室蓮華。狂気に生きる少女だ。そんな彼女に挑発など意味は無く、男もそれは理解していた。故に、次の蓮華の行動は予想外のものだった。
「ほぉ…………」
地を蹴り、疾駆する。
『奇跡』の恩恵である身体強化によって彼女の疾走は常人を遥かに上回る。だが肉体を鍛え、近接戦闘を主としている男からすれば大したことなどない速度だ。剣を構え、蓮華を待ち構える。
蓮華は足を止めない。何か策があるのか、それとも単なる特攻なのか。どちらにせよ男は構わない。それ諸共、切り裂いてみせる。剣を以て道を拓く者こそ剣士なのだから。
少女が近付く。攻撃を仕掛ける様子は無い。
男の間合いまで残り三メートル。
二メートル。
一メートル。
――――零。
刃が煌めいた。振り抜かれた一撃は吸い込まれるようにして蓮華の首へ。タイミングは完璧。回避は不可能。
「――――」
しかし、蓮華の心は動かない。迫る死すら遠くに眺め、少女は凍り付いていた腕を解放する。
止血の為の氷が消滅すれば、当然血が溢れ出る。それも腕を切断されたのだ。流れ出る血は多く、それこそ滝のようでもある。
そして、それこそ蓮華の狙いだった。
「凍れ」
主の声音に、『奇跡』は速やかに反応した。
流れていた血液が氷結する。凍り付いた血液は、まるで刃のように少女の片腕を象った。
「ッ……!」
驚愕に目を見開くが、既に刃は振り抜いている。ここから無理矢理に剣を戻せば、態勢が崩れ、敵の追撃を受けてしまう。だからこそ、刃は振り抜くしかない。だがそうすれば――――
(衝突する――――!)
血液の刃と、剣が衝突するのは自明の理だ。
鈍い音を立ててぶつかり合う――――直前、血液の刃は元の姿へと戻った。
「しまっ――――!」
衝突時を警戒し、剣に力を入れていたのが仇になる。
相手を失い、男は態勢を崩す。
「凍れ」
そこへ、蓮華は容赦なく攻撃を加えた。
男を氷が包み込む。『奇跡』の氷結は一瞬で男を棺へと放り込んだ。
だが、まだ中までは凍結していない。封印には時間がかかる。足掻き藻掻くには充分過ぎる時間がある。
剣を握る手に力を込める。まだ凍り付いていない。まだ剣は振るえる。まだ足掻き藻掻こうとする意志がある。
棺は死者の入れ物だ。
生者が入る所ではない。
「ッ…………ハァッッ!」
男は氷結の猛威を、強靭な意志を以て打ち砕く。
凍り付いている最中でありながら、剣は振るわれ、棺を破壊した。
まさか破壊されるとは思っていなかったのだろう。砕け散った氷の隙間から、少女が僅かに目を見開いているのが男には見えた。少女の凍り付いた表情を僅かに歪めることができ、男は愉快そうに笑む。
だがそれも一瞬だ。男は追撃を避ける為に、大きく後ろへと下がった。流石に消耗が激しく、荒い呼吸を繰り返す。
「予想外だ。まさかここまでやるとはな」
「…………」
「だが、もう終わりにしよう。長引くと負けそうだしな」
そう言い、男は剣を構える。
何百、何千回と繰り返した行為だ。
最早呼吸をするように、男はそれの名を口にする。
「――――『騎士の聖鎧』
それは、第三階梯に属する『奇跡』。
何ら特異な能力などないが、故に扱いは容易だ。
男の全身を、純白の鎧が覆う。
装飾など一切無い無骨な全身鎧。それは男の、ネロ・ブライトの性格を色濃く反映していた。
「……行くぞ」
『奇跡』の能力は単純明快。所有者の身体能力の強化。それ以外は何ら普通の鎧と変わらない。
しかし、それ故に、恐ろしい。
何故なら――――
「ッ!」
ネロが、眼前に迫っていた。
回避は間に合わない。
「お前は強い。だが近接戦は駄目だな。天地がひっくり返っても俺には勝てねぇよ」
何故なら、蓮華にとって身体能力を活かした近接戦は相性が悪い。言ってしまえば、苦手としている。
更に言えば、この時、蓮華は呆けていた。
しかしそれも無理もない。何せ男が自らの予想と全く違う『奇跡』を出現させたのだから。
男は最初の一撃の時、氷によって阻まれた。しかし二回目はいとも容易く切り裂いた。
蓮華の氷は簡単に切れるような物ではない。故に氷を切り裂いた何かこそ『奇跡』だと蓮華は予想した。それも常時発動していない点から、簡単に使えるものでもないと。
結果として血液の刃を衝突させる策が成功した。これにより蓮華の予想は確信に変わった。――――だと言うのに、男の使用した『奇跡』は全く別の物だ
『騎士の聖鎧』。そんな物では蓮華の氷を綺麗に切断することなど出来ない。
そして蓮華の思考は一瞬だけ呆け――――その一瞬でネロは眼前へと迫った。
回避は最早、間に合わない。防ぐことも不可能だ。
だが蓮華は無表情に、まるで自分の死すら他人事だとでも言うように、微動だにしない。
恐怖は無い。だが、後悔はあった。
(ごめんね。月宮くん)
何故、こんな気持ちを抱くのだろう。
分からない。そして、もう分かることも、ない。
剣が迫る。蓮華はそっと瞳を閉じた。
「『牢獄』」
しかし、死は訪れない。
響き渡った声音が、蓮華の死を否定した。
目を開ける。迫っていた剣は紫色の壁によって阻まれていた。周囲を見渡すと、同じような壁が蓮華を包んでいる。まるで牢獄だ。
「来たか……」
小さくネロが呟く。
視界の先。闇の奥から、彼女は姿を現した。
純白の髪が揺れる。青い瞳が輝く。
整った美貌は老いず変わらず。
『幽霊』と渾名される少女。
「……ベアトリーチェ」
彼女は穏やかな表情で。しかし隠し切れぬ憎悪を滲ませて微笑み、問い掛けた。
「何の用かしら?」




