02.襲撃
誰も居ない廊下を氷室蓮華は歩く。
既に昼休みは終わり、授業は始まっている。窓から外を見れば真横の校舎では学生達が様々な態度で授業を受けていた。
真面目に受ける者、ふざけている者、寝ている者。昼休みの後だからか、寝ている者が多い。
――――どれとも違う。
だが蓮華の目的の人物は、真面目に受けている訳でも、ふざけている訳でも、寝ている訳でもなかった。教科書を広げ、シャープペンシルを握り、しかし視線は黒板ではなく真白のノートへと向けられていた。
呆然と、彼はノートを見続けている。午前中も、ああして彼は何かを考え続けていた。そしてそれは恐らく――――
「貴女のこと?」
「正解、かもしれないわね」
蓮華の視線が廊下の奥へと向けられる。
そこに、女が立っていた。
若い女だ。年齢は蓮華とさほど違わないだろう。雪のように白い髪を長く伸ばし、青い瞳を爛々と輝かせている。
「貴女、何者?」
「そうね…………言うなれば、あなたの同種よ」
「……貴女が彼に『アレ』を与えたの?」
「正確に言えば、結果的に彼の持ち物になったと言うべきね。渡す気は更々無かったわ」
「……? 言っている意味が分からない。彼が奪ったと?」
「ある意味、そう言えるでしょうね」
女の言葉に蓮華は窓から外を見る。変わらず彼は何かを思案していた。
――――本当に彼があれを奪ったのだとしたら。
危険だ。蓮華は即断する。
昼休み、彼と話して色々と訊いた時は危険性はあまり感じなかった。『アレ』も、何かの偶然か与えられた物だと思っていた。
しかし――――奪った物だとしたら話が変わる。
彼は、氷室蓮華の敵となる。女の力を奪ったのだ。自分の、連華の力もまた、奪われる可能性が出てくる。簡単に奪われる気はないが、実際に目の前の女は奪われている。危険性で言えばかなりのものだ、
「…………」
蓮華は無言で踵を返す。彼の危険性が浮上した以上、行動を起こすしかないだろう。自分の身は自分で守らねばならない。
「…………」
去りゆく少女の後ろ姿を、女は無言で見詰めていた。
どこから辛そうな、申し訳なさそうな表情を浮かべて。
※※※※※※※※
放課後、秋は呼び出しを受けていた。
教師からではない。昼休み、突然来訪してきた氷室蓮華からの呼び出しだった。
場所は彼女の教室。それほど遠くはないため、秋は待ち合わせの時間ギリギリまで自分の教室で時間を潰してから蓮華の教室へと足を向けた。
直ぐに到着し、チラリと腕時計を見る。待ち合わせの時間まで残り二分ほどだった。
扉を開ける。室内には夕陽が満ちていた。
氷室蓮華は、自分の席で窓の外を見ていた。窓を開け、吹き込む風に髪を揺らして。
思わず――――見惚れる。ああ、なるほど。誰も彼もが彼女に恋する理由が秋には分かった。彼女には、魅力があるのだ。それも魔性の類の魅力が。現に秋は蓮華が気が付くまで、ずっと彼女を見ていた。
「来てたの」
秋に気が付いた蓮華が立ち上がる。そこでようやく秋は蓮華の呪縛から解き放たれた。
「あ、ああ」
「声を掛けてくれれば良かったのに」
「黄昏れてたからな。掛けにくかった」
「考えごとをしてただけ。……大したことじゃない」
言いながら蓮華は秋の正面に立つ。
そこで秋は気が付いた。蓮華の瞳が、冷たい輝きを放っていることを。
「氷室……?」
「貴方の正体、見させてもらう」
「何を言って……」
そう問い掛けようとし、秋は全身を震わせた。
急激に低下する気温。寒い、という感覚すら凍えていくようだった。
本能故か、咄嗟に秋は蓮華から距離を取る。刹那――――
「凍れ」
冷たい声音だった。
これまで秋が立っていた場所に、突如として氷の柱が発生する。氷柱は、秋の全身を覆い尽くすのに充分な大きさだった。
「なっ!」
奇想天外な眼前の光景に、秋は目を見開く。突如として氷柱が発生するなど、明らかに異常な事態だろう。ましてや、それを人間が起こしたとなれば尚更だ。
「氷室ッ! 君は…………ッ!」
「凍れ」
返ってきたのは変わらず冷たい声。
再び飛び退き、廊下へ出ようとするが何かに衝突し阻まれる。見れば氷柱が廊下への道を塞いでいた。
「ッ!」
直前の攻撃は秋を目的としたものではなかった。
目的は、その背後。廊下へと続く、二つある扉の片方を封じること。そうなれば、残された出口は唯一となる。
「クソッ!」
そして彼は、逃げる為にも唯一の出口へと向かう他はない。秋の判断は一瞬だった。床を蹴り、一気にもう一つの出口へと疾駆する。――――だが、それが蓮華の狙い。
「凍れ」
三度、冷たい声が響いた。
教室から脱する為、秋は一目散に残された出口へと駆けるだろう。つまりそれは、次の彼の手が露見したに等しい。
「しまっ――――!」
気が付いた時には、既に遅い。
「――――!」
秋の全身は、氷の中に包まれていた。
声が、聞こえた。
目を、開ける。
そこには、一人の女が立っていた。
「ようやく気が付いたのね」
紫色の髪。紫色の瞳。――――整い過ぎた美貌。
ただただ、女は美しかった。
「見惚れている場合ではないわよ」
惚けて女の顔を見詰めていることに気が付いたのだろう。女はクスクスと笑う。愉快気な笑みだった。
「貴方、氷棺に捕らわれたわ。まだ封印はされていないでしょうけど、されたら終わり。簡単には出られなくなる」
氷棺…………あの氷柱のことだろうか。首を傾げると、女は頷く。
「そう、あれよ。でも貴方は運が良いわ。封印までタイムラグがある。それだけあれば、私が出してあげられる。でも、それだけよ私の手伝いは。後は貴方の仕事。私に気が付いたのだもの。問題はないわ」
訳が、分からなかった。
彼女は何者なのか。ここはどこなのか。秋の仕事とは何なのか。幾つもの疑問が浮上し、しかしその内のどれにも答えず女は笑う。
「貴方は『奇跡』に選ばれた。なら『奇跡』を願いなさい。それでいいのよ」
それが、女の最後の言葉だった。