25.喜悦の笑み
意識を失った青年を、ベアトリーチェは自らの膝の上へと乗せた。手に術式を展開し、紫の光で青年の体を包み込む。苦痛を和らげ、自己回復を促す魔術を受け、青年の表情が僅かだが穏やかになる。
ベアトリーチェは優しげに目を細め、魔術を続ける。
だが内に彼女の存在を感じた瞬間、ベアトリーチェの表情が隠し切れぬ怒りを滲ませた。
魔術を続けながら、ベアトリーチェは彼女へ声を掛ける。
「ねえへカーティア」
『……何かしらリーチェ』
呼び声に応えたへカーティアの声音は至って普通だ。しかし隠し切れぬ愉悦をベアトリーチェは確かに感じた。
「何が、そんなに面白い?」
殺意を滲ませて、内に潜む『奇跡』へとベアトリーチェは問い掛ける。彼女が何を考えているのか分からないのは昔からだが、決して、自らの宿主の不幸を嗤うような人物ではなかった。
へカーティアは、醜悪な存在だ。
他人の苦痛を感受し、慟哭に耳を傾ける。
ベアトリーチェも、彼女のそんな性質を嫌と言うほど見てきた。
だが宿主には。『奇跡』の所有者には、思い遣りを見せてきた。直ぐ隣に立ち、傍らで支えてくれた。
――――なのに。
「もう一度、訊きましょう。……何が、そんなに面白いのかしら? へカーティア」
彼女は、嗤った。
月宮秋の足掻きを、手を叩いて嗤ったのだ。
まるで、愉快な劇を見た客のように。
その真意は、果たして。
『…………何が、面白いのか。ふふっ。なぁんにも、面白くないわ。ええ。何一つとして面白いことなんてなかった』
「なら何故、貴方は」
『そうねぇ。…………いつか、分かる日が来るかもしれないわね』
「答える気は無い、と。そう。なら、それでもいいわ。……貴方と共に長い時を過ごし、少しは貴方のことを理解していると思っていたけど間違いだったみたいね」
ベアトリーチェとへカーティアの付き合いは長い。それこそ人の一生以上の時を共に過ごしている。言葉も数多く交わしてきた。
だが、それで人を理解出来ると?
そんな程度のことで、人のことを分かってしまうと?
それは――――
『それは自惚れよリーチェ。他人を理解することなんて出来ない。ましてや時の流れが理解を進めることもない。結局、誰も彼も平行線なのよ』
「それはどうかしら? 私と貴方はそうだったかもしれない。でも私と他の誰かなら分からない」
『アハハハハハハ! 貴方が、それを言うの? 常に他人を時の流れに置いてきた不老不死のベアトリーチェが? 滑稽ね』
「ッ…………」
『覚えておきなさい。人は人を理解出来ない。それは絶対よ。……絶対、なのよ』
絶対と、強く言い残しへカーティアの気配は消滅した。恐らく『奇跡』の深層にでも潜ったのだろう。そうなってはいくら所有者であるベアトリーチェとて手は出せない。恐らく声すら届きはしないだろう。
けれどもベアトリーチェは言葉を紡ぐ。
目の前に倒れている青年の手を握り締めて。
「人は、人を理解出来る筈よへカーティア。私には確かに無理かもしれない。でも、彼なら……」
応えは無い。
ベアトリーチェも、それ以上声を発することはなかった。
しかし、彼女の呟きは確かに、へカーティアに届いていた。
『奇跡』を自称する女は、暗闇の中、目を閉じる。
そして、
「…………それが、間違いのよ」
悲しい声音で、囁いた。




