23.魔獣咆哮
ありとあらゆる魔術を行使可能とする唯一無二の『零』――――『千の魔術を統べる者』が、解放される。
秋の咆哮は力と成り、術式を展開させる。膨大な魔力が溢れ出し、ビルを大きく揺らした。桁違いの出力にベアトリーチェの表情が一変する。
(へカーティア。貴方は、与えたのね。彼に)
それは、ベアトリーチェの望むことではなかった。しかし彼が願った以上、彼女に出来ることは殆ど無い。
彼女は秋を見詰めることしか出来ない。
術式を中心に溢れ出した力の奔流はアリオスの身を歓喜に打ち震えさせた。嗚呼――――これこそ、自分が望んでいた最高の獲物だと、涎を垂らして魔獣は前傾姿勢を取る。
彼は魔獣。獲物を狩る者。狩りとは、相手が足掻くほど面白い。肌に牙を突き立て、引き裂き、肉を頭蓋と共に噛み砕く、その瞬間が際立つからだ。
秋は最高だ。アリオスを存分に楽しませてくれる。怪物に抗う人間は何よりも尊く、絶望の果てに殺すに相応しい。
「面白い。面白いぞ月宮秋ッ! 貪り食ってやろう。お前は――――楽に殺しはしないッ!」
魔獣は地を蹴った。牙を向き、歓喜の表情で腕を振るう。
「悪いが――――負けられないんだ。守らないといけないからな」
秋は冷静に術式を展開させる。紫色の光は瞬く間に業火へと姿を変え、周囲を紅に染めた。
「この程度で私を止められると思うな!」
炎を吹き飛ばし、魔獣の剛腕が振り抜かれる。だが秋の姿は既に無い。
周囲を見渡そうとし、アリオスは腹部に痛みを感じた。見れば腹から銀色の長剣が生えている。どこから放たれた物か探ろうにも秋の姿は見えない。
「どこに行った!」
返答は無く、代わりに二本目の長剣がアリオスの腕を刺し貫いた。銀色の刃が血を受け、鈍く輝く。
「っ…………」
刃の向きから位置を予想し、弾丸の如く突撃する。だが、当然のように秋の姿は無く、アリオスを嘲笑うように三本目の長剣が次は足へと突き刺さった。
「貴様…………人を馬鹿にしているのか!」
「悪いが俺は人間だ。怪物を正面から相手にするのは荷が重い。だから――――持てる全てを使ってお前を倒させてもらう」
言葉が終わると同時にアリオスの目の前に秋が出現する。魔獣は間髪入れずに腕を振るい、秋を引き裂いた。引き裂かれた秋は血を流すこともなく空中に溶けて消える。
「幻影だと…………!」
見渡せば、至る所に秋が立っていた。
どれもが術式を構え、アリオスを睨め付けている。
「舐めるなよ獲物風情が!」
アリオスは脇芽も振らずに一人の秋へと突進する。突進された秋は驚愕の表情を浮かべ、咄嗟に魔獣の突進を避けようとする。
「逃がすものか!」
腕を伸ばし、逃げようとした秋を掴む。魔獣の尋常ならざる腕力の前には如何に足掻こうと逃げることは出来ない。
アリオスは秋を掴んだまま牙を剥く。涎に塗れた鋭い牙が垣間見えた次の瞬間、秋の左腕に噛み付いた。皮膚と肉が容易く裂かれ、血が飛び散る。だがそれに留まらずアリオスは力任せに腕を引き千切ろうと顎を引いた。
「がああああああああああああ!」
肉がブチブチと音を立てて千切れていく。パキッと骨が砕かれた。『奇跡』で抵抗することすら忘れ、秋は悲鳴を上げる。しかし魔獣は止まらない。顎に力を込め、腕を千切る。ブチンと、左腕が乖離した。
アリオスは秋を掴んだまま床に叩き付け、蹴り飛ばす。千切られた腕は瞬く間に魔獣の腹へと消えた。
肉を喰らい、興奮しているのか魔獣は鼻息荒く地を蹴る。顎から血が滴り、床を濡らした。
「クソがッ!」
腕を奪われ、激痛に意識を失いそうになりながらも、秋は必死に術式を展開させた。
巨大な術式が床を覆い、これまでアリオスに突き刺さっていた物と同じ銀の長剣が地面から幾つも突き出してくる。
だが剣に行く手を阻まれても尚、アリオスは追撃を諦めない。広がる剣を軽く叩き折り、暴力の嵐と化して倒れ込む秋へと迫る。
更に術式を展開させ、炎で周囲を覆い尽くす。当然、炎程度で魔獣は止まらない。目くらましが精々だ。
紫色の光を迸らせ、秋は続けて魔術を行使する。『千の魔術を統べる者』は、ありとあらゆる魔術を可能とする。願えば、現実となる。
炎と剣を突破し、アリオスが眼前へと迫る。展開された術式は既に完成し、アリオスの進行方向へと設置されていた。
術式の上にアリオスが辿り着いた瞬間、術式は紫色の光を放つ。仕掛けられていた術式の存在に気が付いていなかったのか、光を放った瞬間に逃げようとするが、既に遅い。秋は手に展開していた起動の術式を握り潰した。
床から新たに突き出した無数の剣が魔獣を刺し貫く。串刺しとされた魔獣は苦悶の声を上げ、鋭く秋を睨み付ける。
「貴様…………!」
「言った、筈だ…………持てる全てを使って戦うと。人間、だからな…………罠ぐらい、使わせてもらう」
千切られた腕から血を滝のように流し、激痛に玉のような汗を浮かべながらも秋は正面から魔獣を見据え、嘲笑うように言葉を吐き捨てた。
時間差で術式が使えるかどうかは分からなかったが、秋の『奇跡』――――『千の魔術を統べる者』はありとあらゆる魔術を行使出来る。であれば使えない筈が無い。結果も秋の予想通りだ。
「ふざけるな! 私が求めているのは――――」
罠に嵌められたアリオスは激怒の感情を露わに声を荒げる。殺意すら込められた怒声はビルを震わせた。
秋は笑う。魔獣はずっと足掻くことを求めていた。理不尽な暴力を前に足掻き、藻掻くことを。まるで小動物のように震え涙を流しながら。
しかし足掻いてみれば魔獣は激怒している。これは彼が望んだことだというのに。
恐らく彼が――――魔獣が求めていることは足掻くことではない。それは、きっと――――
「知っているさ。お前は、蹂躙が好きなんだろ……? 圧倒的な力で相手を叩き潰して、それでも足掻く奴を更に叩き潰す。――――笑わせるな。結局、お前は弱い者苛めが好きってことだ。臆病者め」
「――――!」
魔獣の顔が憤怒に染まる。牙を剥き出しにし、アリオスは吠え猛る。
「貴様に何が分かる!」
脳裏に思い浮かぶのは、彼女の姿。
最愛の家族。共に人生を歩んできた半身。誰よりも何よりも一緒に居たかった。
だが、彼女は。
「私は――――臆病者などではないッ!」
もう、居ない。
「オオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォ!」
魔獣の咆哮が、轟いた。
大気を震わせ、黒き獣は自らの体が裂けることも厭わず、力任せに剣から脱する。鮮血が舞い、深手を負うが、それでも魔獣は止まりはしない。
否、止まれない。
魔獣の歩みは、止まることを許されていない。
あの日、あの時、あの場所で、自らが生きる為に最愛の姉を貪り食った、その瞬間、魔獣は呪われた。止まることは許されず、死を受け入れることすら認められない。
進め、進め、進め!
走れ、走れ、走れ!
本能と呪いの赴くがまま、魔獣は跳躍した。漆黒の肉体が膨張し、勢い良く弾け飛ぶ。血と肉を辺り一面に撒き散らし、開花の様に雄々しい翼が背中から出現した。
アリオスは翼を大きく羽ばたかせ、輝く眼光で鋭く秋を睨め付ける。魔獣の殺意は尋常ではない。秋の挑発は的確に彼の心を捉えていた。
※※※※※※※※※
臆病者と秋は言った。事実、アリオスは臆病者だ。弱い弱い怪物に過ぎない。
人ならざる力は、時として迫害を齎す。アリオスもまた、世界から排斥されて生きてきた。普通の人間だった姉だけが、彼の唯一無二だった。
涙を流さなった日は無い。世界に誕生したその時から、アリオスに向けられていたのは憎悪と嫌悪と恐怖と殺意。幼い彼が受け入れるには重すぎる感情だ。
姉だけが、彼に別の感情を向けた。愛と幸福を与えた。彼女が居なければ、アリオスは今、この場に居ないだろう。
しかし怪物はいつの世もは移籍される。これは世界の常であり、アリオスも例外ではない。不幸だったのは、人間である姉すら怪物と罵られたことだろう。怪物の姉弟は人間に追われ、ありとあらゆる苦痛を与えられた。
頑丈な肉体を、その時ほど恨めしいと思った時はない。永遠に止まぬ苦痛の中で、彼は自身を呪った。『奇跡』を呪った。
血と肉と臓物の中、昼も夜も関係なく幼い二人は責め苦を味合わされる。何度も何度も何度も何度も、地獄は彼らに与えられた。
そして最後にアリオスに与えられたのは、自らの姉だった。
姉の生首は、安らかな顔などしていなかった。苦悶の表情を浮かべ、血の涙を流し、舌を出した状態で皿の上に載せられていた。少年に愛を囁いた少女は、もう居ない。
捧げられた姉を、アリオスは食べた。食べることを強要され、弱く、臆病者だった彼は抵抗することを知らなかった。――――この時までは。
肉を噛み千切り、骨を砕き、血を啜る。一口、二口と、咀嚼する顎が止まらない。
姉の死体は、見た目のおぞましさとは裏腹に極上の味だった。一心不乱に姉を貪り続ける姿は正しく怪物だろう。人にあらざる者だ。
肉が肥大化し、黒い体毛が生え広がる。骨を噛み砕いていた歯は鋭い牙に。剥がされた爪は瞬く間に鋭利な爪に。
黒き魔獣。『奇跡』を貪り食らう怪物の真の姿。
背中の肉が破裂し、中から血を滴らせて翼が大きく広がる。それは、自由になりたいと懇願する姉の思い。最後まで怪物として縛られ続けた姉の悲鳴だった。
「オオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォ!」
そして魔獣は生まれた。
涙を流し、魔獣は慟哭する。
そこからは、一方的な殺戮だった。
幼いとはいえ人ならざる魔獣だ。何ら力を持たぬ人間如きが、勝つことなど出来はしない。予想外の抵抗を前に人間達は容易く殺され、血の海へと沈んでいく。
果てに立っていたのは、鮮血に毛を濡らした魔獣だった。魔獣――――アリオスはこの時から、人であることを捨てた。怪物であることを自分に定めたのだ。人に怯える弱い怪物に。
※※※※※※※※
幾多の『奇跡』を喰らい、魔獣は力を付けた。それでも本質は変わらない。アリオスは心の奥底で人を恐怖している。だから人を躊躇いなく殺し、自らを恐怖の体現としている。
姉を喰らったアリオスに、止まることは許されない。彼女の代わりにアリオスは生きているのだから。人間に討伐されるなど論外だ。
ましてや自らが喰らう獲物に敗北するなど、許されない。
「許されないんだよ!」
翼を用いて魔獣が突撃する。脚力による突撃とは違い、翼による突撃は風を巻き起こし、周囲の物を吹き飛ばした。
「――――知らねぇよ。お前の都合なんてな」
冷たく秋は吐き捨て、術式を展開させる。
同情など無い。哀れみも無い。
残酷に、秋もまた殺意を漲らせた。
無数の槍が虚空から放たれ、アリオスへと迫る。魔獣は群がる槍を軽く避け、躊躇なく突撃を続ける。
「月宮―――――秋イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィィ!」
まるで、地獄の底から這い上がってきたかのような悍ましい怨嗟の声。
ボコリと、元の大きさから更に二倍近い大木の如き巨腕へと魔獣の腕が膨れ上がる。漆黒の体毛は全て抜け落ち、まるで血管の様に人間の腕が魔獣の腕を張り巡らされた。所々垣間見える穴の様な部分は笑みを浮かべる口だ。
醜悪な腕だった。さながら形を持った憎悪。もしくは形を持った呪いの如く。
異形の腕が振るわれる。大気を切り裂く破壊の拳は秋の身を守る様にして出現し無数の槍に阻まれた。
だが幾重にも重ねられた槍の防壁は異形の腕を防ぐだけの強度は無かった。容易くガラスの様に砕かれ、笑みを浮かべていた無数の口達が絶叫を上げる。
「――――――――――――――――――――――――――――――!」
それは怨嗟の声だった。
魔獣に喰われ、彼の糧となった奇跡所有者達。彼等は苦痛の果てに喰い殺され、死の間際に抱いた憎悪は今も尚、魔獣の中で燻り続けている。
絶叫は彼等の魂の叫びだ。憎悪の集積体――――それこそ魔獣。怪物を怪物足らしめるファクター。人ならざる存在は、憎悪によって形作られている。
それは――――余りにも醜悪だ。
嫌悪感を抱くのも当然だろう。怪物は人間に忌避される。人と怪物は交わらない。アリオス達が受けた苦痛も摂理からすれば当然のことであり、人に罪は無い。
死なねばならなかった。怪物としての力を与えられた時点で彼等は人間に殺されなければならなかった。それが幼い姉弟であろうと、例外は無い。
しかし抗い、人に害を齎すのも、また怪物。魔獣の責務だ。
アリオスは本能がまま、拳を振るう。口に彩られた腕は単純な破壊力だけでなく、強烈な呪いをも有していた。触れれば死者の念に呪い殺される。
紫の光が迸る。展開された術式が秋の理想を現実化させる。ありとあらゆる魔術を扱えるということは、全てが可能ということ。
「『千の魔術を統べる者』!」
呼び声に彼女は応えた。
光が弾け、術式から千を優に超える鎖が放たれる。一部の鎖はアリオスの腕に広がる口へと突き刺さり、他の鎖は縛り上げる様に全身へ巻き付いた。
自由を封じられた魔獣が藻掻くが、鎖は千切れない。銀色に輝くそれは、装飾の施された優美な見た目とは裏腹に強固だった。
捕縛された魔獣は鎖が千切れないと分かるや抵抗を止めた。力を抜き、吊された受刑者のように静かな面持ちで問い掛ける。
「身動きの取れない私を殺すつもりか?」
「まだ、殺さない。…………一つだけ。一つだけ死ぬ前に教えろアリオス。お前は、人として生きる気はないのか?」
「…………何を言い出すかと思えば、人として生きる、か」
魔獣の瞳に憂いが垣間見える。しかし直ぐに魔獣は頭を振った。
「私は魔獣だ。どこまでも、どこまでも。『奇跡』によって歪められた肉体と精神では、人として生きることは出来ない。そも――――」
ジャラジャラと、鎖が鳴る。
クスクスと、笑う声が聞こえる。
「私は、自分を許すつもりはない。私は怪物として生き、怪物として死ぬのだ。何も知らぬ餓鬼が、私を憐れむなよッ!」
キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
呪いの哄笑が、響き渡った。
鎖に亀裂が走る。亀裂は瞬く間に鎖を覆い尽くし、パキンと音を立て、鎖は砕け散った。
翼が裂ける。さながら羽化する蝶のように裂けた翼の内から新たな翼が姿を現した。翼全体に広がった全ての口が狂った笑い声を響かせる。
「人を喰らいし時から、私は怪物だ。周囲に絶望を振りまき、人を思うがままに傷付け、そして――――人を狩り続ける。そう在るべきと、定めたのだから」
両腕が縦に裂けた。血を撒き散らし、内部から鼓動する肉塊がドロリと吐き出される。
肉塊は大きく腕を広げ、呪いの絶叫を上げた。頭部の無い人間の上半身の形をしたそれは、胸の部分に口が付いていた。
両腕に新しく生えた人の形をしたナニカが残りの鎖を引き千切る。その間にも魔獣の肉体は変貌を続けていた。蛇の形をした尾が幾つも生えては吐息を漏らし、背中から更に腕が一本生える。
最早、獣という形すらアリオスは持っていない。混沌に彩られた姿は、正しく怪物。人智を超えた――――否、人智には理解不能な存在だった。
「故に――――抗ってみせろ。怪物を倒せるのは、足掻き藻掻き、それでも立つことの出来る人間のみなのだから――――――――ッ!」
最後の鎖を破壊し、怪物は解き放たれた。
腕の代わりに生えたヒトガタを横に薙ぐ。たったそれだけで、強烈な風圧がビルを粉々に破壊した。
「なっ――――!」
瓦礫が降り注ぐ。大小様々な瓦礫が星空のように視界を埋め尽くし、秋は考えるより先に体が動いていた。
「リーチェ!」
急いでベアトリーチェを抱え、直ぐさま術式を展開させる。紫の術式は秋とベアトリーチェを飲み込み、地上へと転移させた。
ビルから少し離れた地上に転移し、秋は力無く膝を付く。激しく咳き込み、決して少なくない量の血を吐き出した。
「ぐっ…………」
「秋!」
流石に転移は消耗が激しかったのか、強烈な痛みが秋の胸を締め付ける。肩口から千切られた腕も血を流し続け、普通の人間であれば出血死してもおかしくなかった。
「大丈夫……?」
ベアトリーチェが心配そうな声を上げ、秋の胸に手を当てた。服や手が血で汚れることも厭わずに彼女は秋の鼓動を感じ取る。
「少しでも……」
ベアトリーチェの手に紫の光が灯る。彼女が使える『奇跡』は制限が掛けられているが、どうやら回復の魔術は使えるようだった。そのことにベアトリーチェは安堵のため息をつく。
暖かな光が体の痛みを消滅させ、肩口の傷を止血する。苦痛に歪んでいた秋の表情が、段々と穏やかなものへと変化した。
「リーチェ……ありがとな」
「気にしないで。これくらいのこと……」
不意に、ベアトリーチェの言葉が止まる。
これまで彼等を照らしていた月明かりが唐突に遮られたからだ。秋とベアトリーチェは同時に夜空を見上げた。
天上には星が瞬き、女王のように座す黄金の月を飾り上げていた。暗闇を穿つ月は玲瓏な輝きを放ち、その存在を誇示している。平和な時ならば美しいと思える光景も、月を背に浮かぶ異形の存在によって今は禍々しく感じられた。
「――――――――!」
「――――――――!」
人の腕が、金切り声を上げる。耳障りな高音に秋とベアトリーチェは共に顔をしかめた。アリオス――――否、怪物は一瞬で空から掻き消え、呪詛を伴い秋へと迫り来る。
怪物は呪いに満たされている。触れれば呪いによって殺され、彼等の仲間入りだ。
「クソっ!」
秋はベアトリーチェを庇うように前に立ち、迫り来る怪物を睨め付ける。立ち塞がる秋の姿に、怪物は地響きのような声音で咆哮した。
「さあ、抗ってみよ人間! 私は怪物! 残酷に凄惨に抗って――――殺してみろ!」
「言われずとも殺してやるよ。お前が、それを選んだんだからな!」
秋は問うた。人として生きる気はないのかと。
答えの分かりきった問い。無意味にすら思える行為だが、確かに意味は存在した。
臆病者のアリオス。残酷非情な魔獣かと思っていた男は、その実、単なる臆病者だった。姉を殺したことを悔やみ、恐怖し、背負うべき咎から逃げる為に彼は世界に牙を向けた。
弱さを隠す為に誰かを害する姿は、正しく臆病者。しかし、それは『奇跡』が与えた苦痛でもあった。未来を選択し、今を歩むのはアリオスの判断だ。だとしても『奇跡』が存在しなければ、その選択肢は存在しなかった。
秋は『奇跡』によって新たな選択肢を与えられ、今、ここに居る。後悔はしていないが、それでも思わずにはいられない。
アリオスには、平穏な日常があったのでは、と。『奇跡』さえ存在しなければ、普通の人間として生きられるのでは、と。
その予想は間違っていない。彼を魔獣としたのは『奇跡』が根本的な原因だ。『奇跡』が存在しなければ、彼は普通の人間として生きられただろう。
けれどもアリオスは選んだ。魔獣として生きることを。怪物として、在ることを。
彼は『奇跡』を否定しなかった。
最早、彼は人に未練は無い。
なら、それこそ答えだ。
躊躇いはない。怪物を殺すのは、いつだって人間だ。人の道を外れてしまったとしても、果てが怪物であれば、それは変わらない。
「刃よ!」
故に容赦なく、高らかに、秋は叫んだ。呼応するように上空に術式が出現し、刃の雨を降り注がせる。刀、長剣、大剣、鋏から包丁まで、ありとあらゆる刃が怪物に降り注いだ。
怪物は避ける動作すら見せず、降り注ぐ刃の雨へ視線を向ける。そのまま大きく翼を広げた。
「この程度か! 月宮秋ッ!」
キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
広げられた翼から、狂気の哄笑が響いた。
瞬間、全ての刃が砕け散る。天が落ちてきたように、銀の破片が空を舞う。
怪物は人と化した腕を秋に向けた。頭部が無い人の形をした腕は、胸の口を開き、涎を撒き散らしながら肉々しい手を吐き出した。皮膚が存在せず、肉だけの手は高速で空を駆ける。
「っ!」
醜悪かつ予想外の攻撃に僅かに対処が遅れた。直ぐさま剣を出現させ、秋は迫る手を切り落とす。切断面から血が吹き出し、秋の体を濡らした。口内に入った血から鉄の味がする。
「――――あ?」
ガクンと、糸が切れた人形のように片膝を付く。何故か足に力が入らず、それどころか悪寒が全身を駆け抜ける。――――危険だと、秋の本能が訴えた。
「がっ――――ああああああああああああああああ!」
血が皮膚に染み込み痣のようになる。秋は全身に感じる激痛に叫び声を上げた。全ての感覚が痛みを訴える。まるで全身の至る所に針を突き刺され、血管に針が流れ、内部から突き破ろうとしているかのように感じられた。
「これ…………は……ッ!」
「それが呪いだ。憎悪の集積である我が身は全てが呪い。それは血とて同じだ。浴びれば私が喰い殺した全ての人間の苦痛を貴様に与えるだろうな」
「呪いか……これが……ッ…………」
喋ることすら苦痛を伴った。尋常ならざる痛みは、アリオスによって与えられた苦痛の比ではない。ただ相手を殺すことしか考えていない呪いだからこその容赦なさがあった。
痛い。感覚という感覚が、全て痛覚に変化していた。
目に入る光景が痛い。血の臭いが痛い。怪物の息遣いが痛い。痛い。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――――――――
与えられた呪いは苦痛の集積だ。激痛だけが存在する。それ以外、彼等には無かった。絶望すら塗り潰す痛みが獲物には与えられ、魔獣に痛みの中で生きたまま貪り食われる。
それは、地獄だ。
そして、決して覚めぬ悪夢だ。
今も尚、喰われた者達は生きている。
怪物の血肉と成り、激痛に苛まれながら。
蹲る秋の前に怪物は降り立つ。無表情に獲物を見下ろし、彼は呟いた。
「貴様が私を殺すというのなら、その程度、乗り越えてみせろ。だが、悪く思うなよ。私は怪物だからな。手は止めん」
人の腕を秋へと振り下ろした。剛腕と違い破壊力は無いが、代わりに呪いを振り撒く。また呪いを受ければ、間違いなく秋には耐えられない。
「っ…………あっ…………!」
痛みに血と吐瀉物を撒き散らし、血涙を流しながらも、全身を必死に動かし、後ろに居たベアトリーチェを突き飛ばす。そのまま、意識を数秒失い、目覚めと同時にその場から飛び退いた。
人の形をしたモノが、勢い良くさっきまで秋が居た場所を破壊する。逃れた秋は呻き声を上げて道に倒れ込む。肉体が限界を訴えていた。
(どうしてだ。どうして解呪出来ない!)
呪いを解くべく、秋は何度も術式を展開させる。だが、ありとあらゆる魔術を行使可能な『奇跡』は応えない。只管に沈黙を貫いている。
(どういうことだへカーティア! 裏切る気か!)
『人聞きの悪いことを言わないで。解呪は出来るわ。ただ、貴方じゃ出来ない。思い出しなさい。貴方の力は本来、誰の物だったのかを。考えてもみなさい。私の力は一つしかない。なのに、何故、貴方も彼女も使えるのかしらね?』
へカーティアの言葉を聞き、秋は先程の光景を思い出す。彼女は、秋の傷を癒やした。では、それは、どうやった?
『奇跡』は複数存在する。故に複数の人間が同一の『奇跡』を持っていても不思議は無い。だが、秋に宿った『奇跡』は世界に唯一無二。二つと存在しない『零』の力だ。
ならば、どうして彼女は秋の傷を癒やすことが出来たのか。紫の光を秋は思い出す。あの光は術式だ。そしてそれは『千の魔術を統べる者』を持つ者にしか扱えない。
だとすれば――――答えは一つだ。
彼女は『奇跡』を失っていない。
彼女の中に『奇跡』はまだ、存在している。
『正解。でも完全じゃないわ。一を二に分けたのだもの。その力は折半に近い。貴方に出来ることは彼女に出来なく、彼女の出来ることは貴方には出来ない。つまり貴方達は二人で一人の奇跡所有者に成ったのよ』
一蓮托生ってやつね、とへカーティアは笑う。彼女の言葉は軽く、今話したことなど大したことはないとでも言いたげだ。
『奇跡』の中に宿る者、へカーティア。彼女が何を考えているのか秋には分からない。秋に力を与え、ベアトリーチェ力を残した目的も分からない。それこそ彼女の存在すら謎が多い。
しかし、そんなことは些細なことだ。月宮秋には関係無い。興味も無い。秋はただ、願いを叶えるために彼女を利用する。それだけで、いい。
『ええ。それで構わないわ。好きになさい』
愉快そうに囁くへカーティア。だが秋には彼女の言葉に耳を傾ける余裕は無かった。
怪物が再び腕を振り上げる。殺意が迸り、放たれる呪いの声音に体内の呪いが呼応した。狂った笑い声を上げ、思考を瞬く間に激痛へと染め上げる。
「クソ……がッ…………!」
残る力を振り絞り、二度目の転移を行う。術式が弾け、秋が消えた虚空を怪物が薙ぐ。
転移先はベアトリーチェの下。ベアトリーチェは怪物からの追撃を警戒してか物陰へと姿を隠していた。出現した秋を抱き締め、直ぐに術式を展開させた。
呪いは強固だ。幾人もの怨念と憎悪、そして殺意の集合体であるそれは簡単に解呪出来る代物ではないが、『千の魔術を統べる者』の前には有象無象の呪いと大差ない。
術式が強く光を放つ。全身に刻み付けられていた呪いの痣は、紫色の光に照らされた箇所から瞬く間に消滅した。同時に激痛が嘘のように霧散する。だが消耗は激しかった。
「っ…………」
体は動くが、満足な戦闘は難しいだろう。『奇跡』も連発すれば更に消耗する。
しかし、それで止まる訳にはいかないのだ。
月宮秋は、ベアトリーチェを守ると願った。
なら、叶えねばならない。
『奇跡』も応えたのだ。逃げることは許されない。
立ち上がり、物陰から出るべく歩き出す。
怪物は縦横無尽に周囲を破壊していた。ここが見付かるのも時間の問題だ。ベアトリーチェを巻き込む訳にはいかない。
そして歩き去ろうした秋の手を、彼女は掴んだ。
「リーチェ……?」
何故、手を掴むのか。
秋は困惑した表情をベアトリーチェに向ける。
「秋。私も戦うわ」
そして唐突に、ベアトリーチェは言った。




