21.少女は足掻く
そして彼女の旅は、始まった。
これはとある女の物語。
いつか、残酷な真実として語られる御伽話。
しかし物語としては余りにも醜悪で、
――――哀れな話だった。
いつかの話。
それは遠い遠い昔の話。
少女が無邪気に笑えた頃の話。
幸福は長く続かない。
いつの日か、必ず終わりが訪れる。
そして不幸が続くのだ。
少女も同じ。
幸福は過ぎ去った。
嬲られて、犯された。
残すは死のみ。
呆気なく、虫けらのように。
この世に生まれた意味など、所詮はこんなものだと。
嘲笑われながら少女は死ぬ。
死ねと、世界に言われている気がした。
お前はいらないと、世界に否定されている気がした。
果たして、私は何の為に生まれたのだろうか。
生きるとは、こんなにも苦しいのだろうか。
なら、疾く死ね。
生きる価値すら無い。
――――だとしても。
死にたくないと、少女は思った。
生きていたいと、少女を願った。
『その願い、叶えましょうか?』
そして――――『奇跡』は起きた。
そして彼女の旅は、始まった。
これはとある女の物語。
いつか、残酷な真実として語られる御伽話。
しかし物語としては余りにも醜悪で、
――――哀れな話だった。
※※※※※※※※※
「っ……」
目覚めは、苦痛を伴っていた。
全身が悲鳴を上げている。これが普通の人間だったならば、決して耐えきれないほどの激痛だ。普通ではない彼女だからこそ耐え切れ、そしてここまでの激痛になっていた。
頭を動かし、ベアトリーチェは周囲を見渡す。どうやらここはビルの屋上らしく、黒い布が広げられたかのような夜空と、金色の月がよく見えた。周囲に光源はなく、暗闇の中、月明かりだけが屋上を照らしている。
次いでベアトリーチェは自身の体を見渡した。どういう訳か、ベアトリーチェは屋上の柵に背を預けていた。彼女の最後の記憶は室内である以上、誰かがここに運んだということになる。
アリオスかとも思ったが、違うと、ベアトリーチェは断定する。あの魔獣が、わざわざベアトリーチェを外に運ぶ理由が無いからだ。ましてや体を気遣うように、柵に寄りかからせることなど絶対にしないだろう。
そうなれば、自ずと正解は見えてくる。しかし、それらベアトリーチェが恐れていたことでもあった。
「ぁ……くっ……」
激痛に震える両足に力を込め、立ち上がる。ベアトリーチェの肉体は傷を負うことはないが、痛みは残留し、積み重なる。アリオスから度重なる暴力を受けた今、立つことすらベアトリーチェにとっては拷問に等しい。
だとしても、立ち上がらねばならなかった。彼女が今、ここに居るのは誰かが運んたからだ。その誰かがアリオスでないとすれば――――――――。
「秋……」
巻き込んでしまった青年の名を、ベアトリーチェは呟く。
彼の日常をベアトリーチェは歪めた。彼女は知っている。彼が平穏な生活を望んでいることを。だからせめてもの罪滅ぼしとして、助けるつもりでいた。
アリオスとの戦いも、そしてこれから先も。月宮秋が寿命で死ぬその時まで、寄り添うつもりでいた。けれども現実は違う。
『奇跡』を満足に扱えないベアトリーチェは弱く、秋を助けることなど到底無理な話だった。何が、フォローすると言うのか。むしろ彼女は助けられる側。こうして無様に痛みに悶ている。
間違いなく、秋は死ぬ。相手は簡単に勝てる男ではない。ましてやこれまでを平穏な世界に生きてきた人間が、抗うことなど出来はしない。
周囲に刻まれた暴威の痕が、その事実を物語っていた。下の階まで突き抜けた大穴も恐らくアリオスの手によるものだろう。
「秋…………秋…………」
ここで死なせてしまったら、ベアトリーチェはどうすれば良い。どう責任を果たせばいい。どう償えばいい。また背負うのか。また背負わされるのか。
歯を食いしばり、ベアトリーチェは大穴から下の階に飛び降りる。痛みで上手く着地出来ずに不格好な形となったが、更に痛みを味合うことはなかった。
周囲を見渡す。直ぐに彼は見付かった。――――こちらに吹き飛ばされる形で。
「秋ッ!」
受け止めようとするが、余りの勢いと痛みでベアトリーチェも吹き飛ばされる。それでもクッションにはなっただろう。数メートルほどを飛ばされた所で二人は床に転がった。
起き上がり、ベアトリーチェは秋の顔を見る。
「っ!」
とても、見られるものではなかった。
惨たらしい。悲惨と、形容するしかない。
見れば彼の全身に暴力の痕が刻まれていた。生きているのが不思議に思えるほどの惨状だ。彼の熱いくらいの体温と、微かに鼓動する心臓の音が聞こえなければ死んでいるようにしか見えない。
「良かった……」
ほっと息を吐く。まだ、彼は生きている。しかしそれも残り僅かだろう。
「目覚めたのか」
唸るような声音を響かせ、闇の中から魔獣が姿を現す。鎧の様に体中を埋め尽くす黒色の体毛は血で濡れていた。恐らくは、全て秋の血だろう。
「……アリオス」
ぎゅっと、腕の中の秋を抱き締める。
秋はまだ、生きている。それは責め苦が続くことを意味していた。彼は魔獣の暴力の前に嬲られ続けるだろう。
「ごめんなさい…………」
アリオスには聞こえぬ声音でベアトリーチェは謝罪の言葉を口にする。
巻き込ませるつもりは無かった。少なくとも彼を前に出して戦わせる気は一切無かった。
だが現実は無惨だ。
秋はアリオスと戦い、そして暴虐の限りを尽くされた。きっと、普通の人間であれば簡単に壊れることが出来たのだろう。
しかし、秋は最早、普通の人間ではない。奇跡所有者だ。『黄瀬』の負荷に耐えられるように『奇跡』によってチューンされた所有者では、楽に死ねない。
間違いなく、彼は苦しんだ。
苦しんで、苦しんで、今、死に直面している。
もう、いいだろう。
彼は巻き込まれただけなのだから。
これ以上傷付くことに意味は無い。
それに、ベアトリーチェは約束した筈だ。
秋を、守ると。
ゆらりと、彼女は立ち上がる。
勝つことは絶望的だ。
それでも死なないベアトリーチェは盾になる。アリオスの暴力を受けるに足る玩具になる。
秋の為に、ベアトリーチェは苦痛を受け入れる。
ただ、守る為に。
「待ってて。守ってみせるから」
さらりと頭を撫で、強く抱き締め、ベアトリーチェは気を失っている秋をそっと床に横たえた。
「君では私に勝てないが、それでも立ち塞がるのか? 待っているのは苦痛だけだ。ましてやお前は不死なのだからな」
「知ってる。でも、守らないと。私が、彼を巻き込んだ原因だから。約束もしたしね」
軽く、それこそ散歩に行くような気軽さでベアトリーチェは言った。
痛みは苦しい。
痛みは辛い。
でも、失うことの方が嫌だった。
「殊勝な心掛けだ。なら存分に足掻けよ。流石に二回目もただ嬲られるだけでは面白くないぞ」
「善処するわ」
言いつつ笑うが、今のベアトリーチェに出来ることなどたかが知れている。だとしても彼を守る為に、彼女は立ち塞がった。
「さあ――――来なさい」
真白の髪が揺れる。
待つのは地獄。
されども立ち塞がる彼女の姿は美しく、
真白の髪は可憐に揺れていた。




