19.炎と憎悪より生まれしモノ
ベラは、生まれながらの奇跡所有者ではない。彼女が『奇跡』を手に入れたのは、十七歳の時だった。
寒かったことを、覚えている。ベラの家は貧しく、ボロボロの小屋のような家に住んでいたからだろう。冬の寒さを遮る設備などなく、防寒具を買う余裕も無い。常に家族で身を寄せ合って、暖を取る。貧乏な家族ではあったが、温もりは確かにあった。
自分の生まれを嫌だと思った時は無い。満足な食事も豪奢な服も娯楽も無いが、家族が居る。共に笑い、共に生きる彼らが居たから、ベラは貧しくても幸せだった。
そんな彼女の幸せが崩壊したのは、九歳の時だった。厳しい冬の寒さの中、ベラは目を覚ました。家の中は暗く、直ぐ隣で寝ていた両親の姿はない。
「パパ? ママ?」
返事は返ってこない。寒さに震える少女は毛布代わりの薄い布で体を覆い、隣の部屋を覗いた。唯一、そこから明かりが見えていたからだ。
「――――――――」
結果を言えば、そこには凄惨な現場があった。
父は殺され、顔と腹が滅多刺し。母は絞殺され、死体を遊ばれていた。それも、恐らく手を下したであろう複数人の男達の手によって。
貧しい者は、常に世界の悪意に穢される。それが世界の真理だからだ。ただ、今回はそれがベラの家族の番だっただけのこと。
ギョロリと、血走った男の目がベラと合った。
恐怖とか、そんな感情を感じる間もなく家を飛び出した。寒空の下、白い息を吐いて走り続ける。一刻も早く世界の悪意から逃げ出したかった。
貧困層は奪われるもの。それが世界のルールだ。故に、ここで貧しき者が犯され殺されようと、世界は冷たく見放す。幼き少女の行方が不明になろうと、それは変わらない。
「目が覚めたかい?」
次に目を覚ましたとき、ベラは暖かい部屋の中に居た。ふかふかのベッドで横たわる少女を優しく見下ろすのは、整った身なりをした男。彼は昨晩、凄惨な現場から逃げ出した少女を保護した男だった。
「大変だっただろう。もう安心なさい。大丈夫だ」
男が少女の見てきた惨状を知っていたのかどうかは分からない。だが、男の優しさは真実だった。
それから少女の生活は一変する。ベラは男の養女となり、何不自由ない生活を送ることが出来るようになった。美味しい食事も、豪奢なドレスも、全てがある。しかし、両親だけは居無かった。
幸せを感じたことは、一度も無い。けれども生きるために、彼女は男の下で生活した。八年後、幼かった少女が美しい女性となり、運命の日を迎えるまでは。
運命の日は、あっけなく訪れた。くしくも時間帯は夜。彼女の運命が変わった時と同じだった。
自室で読書をしていたベラの耳に微かな物音が聞こえた。それは静穏な夜でなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さい音だった。
「…………」
いつもならば、些細なことだと聞き流す。だが今日ばかりは、何故か興味が湧いた。本を閉じ、ベラは部屋から出る。廊下は暗い。誰も居ない。音も聞こえない。
廊下を進む。暗闇の中、窓から差し込む月明かりだけが唯一の光源だった。
静まり返った舘。一歩、一歩を踏みしめる度に心臓の鼓動が早くなる。どくん、どくん、と不気味なほど大きく音を立てる。
やがてベラは、ある部屋の前に立っていた。そこは彼女を拾った養父の部屋。隙間から光が漏れている。また大きく、心臓が跳ねた。
開けるな、と彼女の頭が警鐘を鳴らす。開けてしまえば、取り返しが付かなくなる、と。しかし、ベラは扉を開けた。
「――――――――」
目の前に広がっていたのは、かつての光景と全く一緒だった。
養父は死んでいた。頭から血を流し、床に倒れている。その真横では住み込みの家政婦の上に、大柄の男が覆い被さっていた。
「――――――――」
どくん、と、一際大きく心臓が跳ねる。
ああ、成る程。確かにこれは取り返しが付かない。
だって、これは、悪趣味と言えるほど。
あの時と、同じなのだから。
「あ? 何だコイツ」
硬直するベラに真横から声が掛けられる。見れば、そこには若い男が立っていた。
「あ…………」
咄嗟に逃げようと男に背を向ける。だが、
「待てよ」
先に男の手がベラを掴み引き寄せられる。勢いそのままに、ベラは床に押し倒された。背中を強く床に打ち付け、肺から酸素が吐き出される。
「あ、どうした? うるせぇぞ」
騒ぎに気が付いたのか、大柄の男がベラ達の方へ視線を向けた。ベラを押し倒した男が、まるで獲物を見せびらかすようにベラの髪を掴み顔を上げさせる。
彼女の整った顔立ちに、大柄の男の瞳がは喜色満面の笑みを浮かべた。
「見ろよ。お嬢様だぜお嬢様」
「おおマジか! しかも良い女じゃねぇか!」
「だろ? まさかこんな良い女が居たなんてな」
男が下卑た表情を浮かべてベラに伸し掛かる。大柄の男は醜悪な笑みでこれから起こるであろう情事を見ていた。
初めて感じる異性の温もり。それは、安心感などとは程遠く、おぞましく、吐き気がした。自分はこれから襲われる。その事実に本能が拒否反応を示す。
「っ…………! 離せ!」
「んだよ暴れんな!」
暴れ、抵抗するが所詮は女だ。鍛えているならいざしらず、普通の女が男に力で勝てる訳もなく、無理矢理に押さえ付けられ、顔を殴られた。カッと頬が熱くなり、恐らく切ったのだろう。口の中に血の味がした。
「これ以上暴れると殺すぞ」
髪を掴まれ、耳元で囁かれる。頷く間もなくもう一度殴られた。今度は鼻だった。折れたり鼻血が出たりはしなかったが、涙が滲み、痛みに声すら上げられない。
「それでいいんだよ」
男が笑う。最早、ベラには抵抗する気力は無かった。
結局、変わらない。立場が変わろうとベラは貧しき者。常に奪われ、全てを失う。新しい家族も、不自由ない生活も、そして純潔も奪われる。
(嗚呼、どうして)
ただ、一緒に居たかっただけなのだ。ベラが愛した両親と一緒に、あの粗末な小屋で共に笑っていたかっただけなのだ。
ただ、普通に生きたかっただけなのだ。幸せを感じたことはなくとも、新しい人生を彼等の分まで精一杯に生きたかっただけなのだ。
それすら、世界は許さない。
彼女は、奪われる側だから。
(なら、こんな世界なんて)
激しい憎悪が胸の内を焦がした。
肉の焼ける臭いがする。
炎の爆ぜる音がする。
(一切合切)
呪いの業火が燃え上がる。
さながら龍の如く天に昇る。
そして、炎は翼を広げ、
(――――消えてしまえばいいのに)
世界を、焼き尽くした。
「ああああああああああああ!」
唐突に男の絶叫が響き渡る。室内に居た誰もが男に視線を向け、そして言葉を失った。
下卑た表情を浮かべていた顔は、燃え盛る炎に包まれていた。赤い炎が舐めるように男の皮膚を焼け焦がしている。
「…………」
呆然と、ベラは目の前で唐突に炎上した男を見る。男は床をのたうち回り、火を消そうとしているが上手く消えずに悲鳴を上げ続けている。
「お前…………んだよそれはよ…………」
もう一人の男が、震える声でベラを指差していた。犯されていた家政婦すら恐怖の表情でベラを見詰めている。
「一体何の――――」
ことかと、問い掛けようとし、ベラは背中に熱を感じた。そう、まるで炎のような熱を。
恐る恐るベラは自身の背中を見る。そして、本来ならば有り得ない光景が目に入る。
「…………ははっ。何だよ、これ」
赤い、赤い翼。ゆらゆらと揺れ、火の粉が撒き散らされる。
ベラの背中からは、炎の翼が生えていた。轟々と燃え盛るそれは、まるでベラが抱いた憎悪の炎が吹き出してきた様にも思える。
「…………そうか。これは、そういう物なのか」
脳内に流れ込んでくる炎の翼の使い方。それは正しく、世界を焼き尽くす力だった。
「…………」
ベラの眼差しが大柄の男へ向けられる。男は視線を向けられ、大きく体を震わせる。彼は理解した筈だ。次に、仲間の様に火だるまになるのは自分だと。
男が逃げ出そうと走り出す。ベラはゆったりと手を薙いだ。ただそれだけで、翼が大きく羽ばたき男の全身を炎が包み込んだ。悲鳴を上げる間もなく、男は炭と成り果てる。直ぐ傍に居た家政婦にも飛び火し、瞬く間に炎上した。
「…………ふふっ。あはははははは!」
哄笑を上げ、翼を揺らし、炎を撒き散らす。ばら撒かれた火種は周囲のありとあらゆる全てに引火し、たちまち大火へと姿を変貌させた。
燃える。燃える。これまで、決して短くはない間を過ごしてきた館が、炎に包まれる。
しかしベラの表情は晴々としていた。燃え盛る館を空から眺めながら、彼女は歓喜に打ち震える。
これまでの彼女は奪われる側だった。貧しき者として両親を。富める者として財産を。女として純潔を。奪われ、無力に咽び泣き、最後には人として命を奪われる運命だった。
だが、運命は焼失した。如何なる巡り合わせか、ベラ『奇跡』を手に入れたのだ。彼女をこれまで不幸に縛り付けていた世界すら焼き尽くすことのできる力を。
最早、ベラは奪われる側ではない。天は彼女に力を与えた。彼女は奪う側になったのだ。
「嗚呼――――いい気分だ」
奪われ続けた女は、全てを無くした。両親も幸せも温もりも。だが、まるで灰の中から再生する不死鳥の如く、ベラは再び手に入れた。二翼一対の温もりを。
この日、ベラは奇跡所有者となった。




