11.『幽霊』と呼ばれる少女
ホームルームを終え、蓮華は直ぐに教室から廊下に出た。幾人かが視線を此方に向けるのを背に感じるが、蓮華からすれば興味の欠片も無い路傍の石のような存在だ。無視して歩みを進める。
暫く進み続ける内にチャイムが鳴った。授業開始を知らせる音だが、蓮華は気にせずに歩き続ける。彼女が授業をサボるのは珍しいことではない。恐らく教室でも居ないものとして扱われているだろう。
元より、学校に通う必要など蓮華には無いのだ。それでも通っているのは、今の彼女の保護者がそれを望んでいるからに過ぎなかった。
(この辺でいいか)
人気の無い校舎の隅。蓮華は周囲に誰も居ないことを確認し、ポケットからスマートフォンを取り出した。
飾りもカバーも付いていない素のままのそれを蓮華は淡々と操作する。数人しか登録されていない電話帳から目的の人物を探し出し、コール。
『もしもし?』
そして直ぐに目的の人物は電話に出た。
相変わらず電話に出るのが早い男だと、蓮華は思った。
『珍しいな。お前が私に連絡を寄越すなんて』
「悪いけど無駄話をするつもりは無いの。私も暇じゃないから」
『授業をサボっている奴の台詞じゃないなそれは。俺はちゃんと行けと言っていた筈だが?』
『…………』
『……はあ。まあ許そう。お前には言うだけ無駄だ。それで何の用だ? お前が私に連絡を寄越すときは決まって調べ物が殆どだが、今回もそうなのか?』
「察しが良くて助かる」
チッと、舌打ちをする音が聞こえた。
電話越しながら、相手の苛立ちがはっきりと分かる。彼は決して暇な人間ではない。むしろ忙しい方だろう。本来であればたかが調べ物に手を貸す余裕は無いのだが、
『……それで何だ。”俺“は、何を調べればいい』
これまでとは違った乱暴な声音で、男は了承した。
とはいえ断られることはないと、蓮華は知っている。これまでも何度かお願いをした時も、彼は文句こそ言いながら叶えてくれた。
何故、叶えてくれるのかを訊いたことはない。訊く必要がないからだ。彼は、叶えてくれる。それこそ重要なのだから。
「ベアトリーチェという女性について調べてほしい。出来れば直ぐに」
『…………おい蓮華。何故、お前がベアトリーチェを知っている』
「もしかして知っているの?」
男は何も答えない。
「知っているなら教えて」
男は何も言わない。
「聞いてるの? 聞いてるなら、答えて。私は知らないといけないの」
『蓮華。お前今、面倒なことに巻き込まれている訳じゃねえよな?』
「巻き込まれている。でも、それがどうしたの?」
『そこで素直に答えるのはお前の良い所だ。詳しく話せ。教えてやるのはそれからだ』
「分かった」
蓮華は壁に背中を預け、ゆっくりと語り始めた。
男は途中で幾つか質問を挟んできたが、それ以外は終始静かに聞いていた。
「……これで全部。私の知っていることは全て話した」
二十分ほど経ち、話は終わった。
男が口を開く。
『お前も面白いことに巻き込まれたな。まるでお前の母さんみたいだよ。あの人もよく色んなことに巻き込まれていた』
ピクリと、蓮華の肩が跳ねる。もしも目の前に男が居たならば、間違いなく突き刺すような視線を向けられていただろう。
しかしこれは電話だ。相手は目の前に居ない。
仕方なく、蓮華は冷たい声音をぶつけることにした。
「…………それで、ベアトリーチェの情報はまだ?」
『怒るな。ついでに焦るな。安心しろ。ベアトリーチェはお前が思っているほど”腐って”いない』
「どういうこと?」
『よく聞けよ蓮華。ベアトリーチェ。彼女は彷徨う者だ。つまり幽霊なんだよ。あっちこっちと彷徨い歩いているだけの存在だ』
「幽、霊……?」
確かにベアトリーチェはこの世のものとは思えない美貌の持ち主だ。しかし幽霊ではない。彼女は生きている。
『嘘かと思うだろ? だがな、これは真実だ。あの女は人間じゃない。幽霊なんだよ。…………だがしかし、これはちと良くない状況だ』
「それは一体どういう意味?」
『ベアトリーチェ自体に害は無い。あの女は彷徨い歩く幽霊に過ぎないからな。でもな、あの女は――――幽霊は連れてくるんだ。不幸ってやつをな』
「不幸? 私達の現状がそれだと?」
『いや違う。あの女が運んでくるのはもっと悍ましいものだ。何せ幽霊だからな』
それはまるで、彼女が運んできたものを知っているかのように男は言った。
過去に、会ったことがあるのか。咄嗟に出かかった言葉を蓮華は飲み込む。
聞く気にはなれなかった。そこから先に踏み込めば男により深く関わることになる。蓮華に、そんなつもりは更々無い。
男は所詮、自分の保護者。
それ以上でも、それ以下でもない。
しかし、それとは別に男の言った不幸が気になった。男が言うには現状は不幸には値しないらしいが、だとすれば不幸とは、どれほどのものなのか。
そも、ベアトリーチェが運んでくるとは、どういう意味なのか。
幽霊という言葉にも引っ掛かる。
幽霊とは、死んだ人間の魂が具現化したものだ。『奇跡』の中にはそうした存在に関する物も幾つかあり、蓮華も何度か目にしたことがある。
だが、その時目にした彼等とベアトリーチェは大きく違う。彼等は皆虚ろで、そして一目で幽霊と分かるほどに生気が無かった。
では、ベアトリーチェはどうだ?
生きている。紛れもなく。
彼女は生者側だ。
「…………」
『蓮華。幽霊という言葉を深く考えるな。――――彷徨い歩く者。それがベアトリーチェの本質だ。本来なら彼女は一箇所に留まり続けるような奴じゃない。今回のような、それこそ奇跡的なことでもなければな』
幽霊。
彷徨い歩く者。
ベアトリーチェ。
男は、全て知っているかのような口振りだった。けれども全てを蓮華には明かさない。
(ああ、いつも通りだ)
訊けば、男は答える。男は蓮華に協力を惜しまない。
しかし、全てを語ることはしなかった。何故なのか、蓮華は過去に訊いたことがある。その時ですら、男は笑いながら全てを明かすことはなかった。結局、蓮華には分からないままだ。
(間違いなく、ベアトリーチェの情報を彼は持っている。でも彼はこれ以上、明かすことはしない。幽霊と、運ばれる不幸。これだけ、か)
期待したほど情報は得られなかったが、探る手掛かりとしては充分だ。
「分かった。ありがとう」
簡潔に告げ、電話を切ろうとする。
だがボタンを押す前に男の焦った声が聞こえた。
「何?」
『馬鹿かテメェは! 何を勝手に切ろうしてやがる!』
「ベアトリーチェのことな分かった。お礼も言った。切っても問題無い」
『簡潔過ぎるんだよテメェは。もう少し余裕を持ちやがれ。それとベアトリーチェのことだけでいいのか? アリオスとベラ。二人の奇跡所有者についても情報はあるが』
「必要無い」
きっぱりと、蓮華は言い切った。
『ほう。言うじゃねぇか。一応訊くぜ? どうしてだ?』
「彼等にそこまでの興味は無いから」
アリオスとベラ。秋達の前に立ち塞がる敵。
結局、それだけだ。彼等なら、蓮華一人でも勝てるだろう。それだけの相手に、価値は無い。尤も強敵であろうと蓮華は興味を抱かないが。
『へぇ。じゃあベアトリーチェには興味があったってことか?』
「…………さあね」
意外にも、蓮華は答えをはぐらかした。
彼女らしくない歯切れの悪さに、電話越しに男が笑っているような気がした。
「何?」
『いや何でもねぇよ。…………そうか。お前も、答えない時があるんだな』
最後の言葉は、蓮華には聞こえなかった。
何、と再び問い掛ける前に、男が声を上げた。
『悪いな。そろそろ時間だ。俺も暇じゃねぇからな』
「そう」
『冷たいねぇ。ま、いいけどな。…………最後に一つ、良いことを教えてやる』
「良いこと?」
『月宮秋には気を付けろよ』
「え?」
電話が切られる。急いで掛け直すが、結果繋がることはなかった。
「…………」
スマホを仕舞い、息を吐く。
月宮秋に気を付けろとは、どういうことなのか。
男は、何を知っている。
「……分からない」
男の言葉の意味。
果たしてそれが何なのか。
蓮華は、まだ知らなかった。