09.悪意の獣
深夜、街は静まり返っていた。
夜の帳は人を包み、街を包み、眠りへ誘う。輝く月は光を齎し、人を目覚めさせる太陽とは違い、それを否定しない。むしろ喜び、御身を晒すことだろう。全てが眠る世界で、美しいのは彼女だけなのだから。
しかし、今夜は違う。未だ眠らぬ者が居た。
住宅街のとある一軒家。住んでいるのは家族三人だ。父と母と娘。この世界、腐るほど存在する有り触れた家族。
この家族を一言で表せば、幸せな家族だった。父は仕事に励みながらも家族を愛し、母は夫を愛し娘を愛し家庭を守り、娘はひたすらに愛された。――――愛されていた。
バキッ。ボキッ。
骨が折れる音が響く。否、骨が貪られる音が響いた。
貪られているのは、かつて娘だったモノ。愛らしく笑顔を浮かべていた表情は皮を剥がされ目玉をくり抜かれ、最早直視など出来ぬほどに損壊され、食い漁られていた。
だが、これでもマシな方だった。肉体は更に酷い。
生きたまま抜かれた左腕。踏み潰した両足。食い散らかされた臓腑。まともな箇所を探す方が大変だった。人を人とも思わぬ所業が、その死体からは見て取れた。
「…………」
「…………」
その死体の傍らで、娘の両親は呆然と何かを二人で抱き締めていた。
それは、少女の中身だった。捕食者が不味いと吐き捨て、せめてもの情けと――――否、単なる愉悦の為に親に与えた唯一の娘だった。
内臓を抱き締め、撫でる両親の表情は暖かいが感情は感じない。彼等の心は目の前でいたぶられ、貪り喰われる娘の姿を見たとき、壊れていた。しかしそれでも臓腑だけになった娘を抱き締め撫でるのは、彼等が立派な親だったからだろう。
「ふぅ…………」
食事を終えた捕食者が立ち上がる。明らかに普通の人間の背丈を越えた長身。身を少し屈めなければ頭が天井を突き破ってしまいそうだった。
カーテンの隙間から差し込む月の光が捕食者の牙を照らす。血に濡れた牙には肉がこびり付き、先程の食事が如何に乱雑に行われたかを物語っている。
アリオス。捕食者は、そう呼ばれていた。
『混血の魔獣』と呼ばれる『奇跡』を有する男は、死体の傍らで娘を愛する親を見ると歪んだ笑みを浮かべた。口の端から血の混じった涎が垂れる。
「――――可哀想に。ああ本当に可哀想だ」
アリオスは言った。可哀想と。しかし、それは両親に向けた言葉ではなかった。もう人の形を成していない娘に向けての言葉だった。
「君達が悪い。君達が彼女を奇跡持ちに産まなければ、君達の娘は死ぬことがなかった」
嘲笑い、両親をアリオスは責め立てる。無感情に娘を撫でていた両親の手がピタリと止み、虚ろな瞳がアリオスを見上げた。
「この人殺しめ。手の中の物を見てみろ。君達の娘だ。君達が産んだから、こうなった。理解しているのか?」
刷り込む様にアリオスは言葉を続ける。
歪んだ言葉だと、誰もが思うだろう。娘を殺し貪ったのは他の誰でもなくアリオスだ。アリオスが悪以外に選択肢など有る訳がない。
しかし、両親にとっては違った。殺した者など関係なかった。何故なら殺される要因を作ったのは、彼等なのだから。
『奇跡』を与えてしまった。
愛しい我が子に枷を与えてしまった。
殺される要因を与えてしまった。
『奇跡』を天から与えられる物だと知らない彼等には、アリオスの言葉こそが真実だった。殺した者ではなく、殺された者ではなく、殺される要因を与えた者が悪なのだと。
「ああ…………ああああ…………」
嗚咽が漏れる。許してくれと、母は娘の亡骸に懇願した。
けれども娘は許してはくれない。もう口は無く、言葉を紡ぐこともないのだから。
「ああああああああああ!」
慟哭が響いた。自責の念と、娘を失った悲しみと、目の前で貪り食われた苦痛。それは普通の日々を生きていた人間に耐えられる訳もなく、両親の心は、崩壊した。
「愉快だ。愚かしさに笑ってしまうよ」
アリオスは壊れた両親を見て笑い声を上げる。異形の相貌は、愉悦で染められていた。
「全く酷いことをするな」
そこへ、声が掛けられる。
アリオスが視線を向ければ、部屋の入り口に焦げ茶色の髪をした女が立っていた。
「ああ――ベラか。奇跡所有者への忠告は済んだのか?」
「取り敢えずな。だが一人だけ既に『千の魔術を統べる者』と接触して存在を認知していた。こいつは向こうの味方をするだろう」
「何故、そう言い切れる?」
「ちょっと小競り合いしてきたからね。これで私はそいつの敵だ。言うだろう? 敵の敵は味方って」
軽く言うベラにアリオスは嘆息した。
ベラの実力は本物だが、手を出すのが早過ぎるのが欠点だ。手を組み始めたのは最近だが、性急な彼女の性格には手を焼く。
とはいえアリオスはそうしたベラの行動を咎めるつもりは無かった。彼女とは利害関係の一致で行動を共にしているが、それが終わればアリオスは容赦なくベラを喰い殺す気だ。
今はただ手駒が欲しいから生かしているに過ぎない。ベラがいかに強かろうと、魔獣には勝てないとアリオスは確信していた。
「それで、小競り合いをしたというなら、その何者かの『奇跡』を見たのだろう? どんな『奇跡』だった?」
「氷の『奇跡』だった。これが恐ろしく強くてな。少しばかり本気を出しちまった」
「――氷の『奇跡』だと?」
ベラの言葉を聞き、アリオスの瞳が豹変する。獣の目へと。
「ああ。私の炎すら凍らせる強力な『奇跡』だったよ」
「…………ベラ。その『奇跡』は、お前の手に余る。私が何とかしよう。お前は…………そうだな他の奇跡所有者とでも…………」
遊んでいろと、続く言葉は言えなかった。
ベラが明らかな殺意をアリオスへと向けたからだ。
「…………何のつもりだ?」
「勘違いしないでほしい。私はあくまでも利害が一致したからお前と手を組んでいる。私はお前の部下ではない」
「つまり、その奇跡所有者の相手は自分だと?」
「そうだ。お前はグルメだからな。美味い奴しか喰わない。そんなお前が喰うと決めた『奇跡』だ。私の予想が正しければ…………」
唇が釣り上がる。
強敵と戦える喜びに、ベラは打ち震えていた。
「彼女はきっと、私を至らせてくれる。『千の魔術を統べる者』を譲ったんだ。それくらいは良いだろう。それに……」
ベラはつい先程までの戦いを思い出す。
結果としてベラと蓮華の決着はつかなかった。重圧すら感じるほどの殺意を放ちながら、蓮華は先にあの戦場を去ったのだ。
(ふざけるなよ)
怒りの炎が身を焦がす。
蓮華の殺意にベラは恐怖を感じた。底知れぬ闇は明らかに人が踏み込んでいい領域ではなかった。
それでも、ベラは戦った。
彼女は――――戦った、のに。
蓮華は去ったのだ。
これを虚仮にしていると言わず、何というのか。
まるでこれでは、見逃されたみたいではないか。
許せない。許せる訳がない。
己を弱者と嘲笑われて、何食わぬ顔で受け入れられるほどベラは腑抜けではなかった。
「…………そうだな。それくらいは譲るとするか」
軽く、まるでお菓子でも譲るような気軽さでアリオスは身を引いた。
それはベラの怒りを汲んだ訳でも、優しさでもない。
――――どうせ、負けるのだから。
アリオスは確信していた。
ベラは件の奇跡所有者に勝てないと。
しかし、アリオスの確信とは裏腹に二人の向かう先は同じだった。