残酷世界とお姉さん
学校は私にとって世界の大半を占める残酷な場所だった。陰湿ないじめは毎日私を苦しめた。先生なんて頼りにならない。だってそいつらは先生の前だといい子のふりをするから。だから私が先生に初めていじめを打ち明けた時、返ってきた言葉は「話し合おう」だった。そんなものに意味はない。むしろいじめはひどくなるだけ。「チクり」と言われて、今度は倍になって私を苦しめる。
話し合ってどうにかなるならもうどうにかなっている。それをあの人達は何も知らない。
家は私の監獄だった。いつも睨んでくる親。「お前がいなければ」と言った親。いざというときなにもしないくせに都合よく親面をする。「養ってやっている」「感謝しろ」と言う。それは違う。ただ私は飼い殺しに遭っているとしか思えない。
親の機嫌を伺う日々。そんなことしなくてもいいじゃないかと人は言うんだろう。何にも知らないから、そう言えるのだ。言うとおりにしなければ退学させる。言うとおりにしないと何十分も何時間も怒鳴られる。いつの間にかそんなことが当たり前になって、より穏便に済ませるにはどうしたらいいのか分かってしまう。自分の心を殺して、ただ言うとおりにする。そうしないと私にとって良くないことが起こることを私は知っているから。それがどれほど自尊心を傷つけるものであっても、苦しくて辛いことであっても、そうしないとこの世界で生きてはいけないから。私を内側から蝕んでいく無言の圧力。増していく怒り。膨らんでいく憎しみ。
でも、私はもう限界だ。苦しい、辛い、悲しい。その言葉を口にすることさえできないこの世界。頑張れと人は言う。もっと辛い人はいるんだ、自分はこんな苦労をしてきたんだ。もっと頑張れと。違う、違う。もう、頑張る気力すらないのに、どう頑張れと言うんだろう。
あと何日こんな日々が続くんだろう。あと何年私は苦しむことになるんだろう。全部捨てたい。投げ出したい。今すぐ楽になりたい。
笑って笑って笑って、心の中ではずっと泣いていた。涙なんてもう出ない。いつから出なくなったのか分からない。
未来なんて希望なんて何もない真っ暗な世界の中で、私はカッターを眺める。これで全てが終わるなら、もういっそ終わらせてしまおうかと。それだけが私に残された唯一の幸せのようの思えた。
でも、そのカッターを構えてみても刃は動かない。腕が、手が、まるで石にでもなったみたいに動かない。
どうしようもない。
ただただ続く生き地獄。誰か、私を殺して
部屋で一人膝を抱えていた私の肩を誰かが叩いた。
驚いて振り向くと、そこには見たこともない美しい女性が悲しそうに私を見ていた。誰かと聞く前に、女性は私をそっと抱きしめた。
「あなたは頑張ってる。本当に頑張ってるからね。大丈夫」
途端に、枯れたと思っていた涙が溢れだした。女性を抱き締めて、私は泣いた。
本当は、
憎しみなんて抱きたくなかった。
無理やり笑いたくなんて無かった。
優しい家が良かった。
泣きたかった。
苦しかった。
助けて欲しかった。
愛して欲しかった。
ふと気がつくと、私は一人で泣いていた。不思議な女性はいた形跡もなく、部屋には私一人だった。
私の幻でしかないその女性は、それからも私の頭のなかで優しく言ってくれた。
「あなたは頑張ってる。本当に頑張ってるからね。大丈夫」
その言葉は私の唯一の心の拠り所だった。ただその言葉だけが私の全てを肯定してくれた。
大学へ行っている間に私の考え方は少しずつ変わり始めた。就職し、一人暮らしを始める頃には、私が見ていた世界はあの頃とは一変していた。苦しかった日々は楽しい日々に変わり、作り笑いは心からの笑顔に変わった。
考え方が変われば見方が変わる。見方が変われば私の世界は一変するんだと、私は思った。
朝陽を浴びた。
鳥のさえずりを聞いた。
見たことない花を見つけた。
友達と話した。
笑った。
楽しかった。
今までどうして気づかなかったのかと思うほどに、小さなことが嬉しくて素晴らしい。
あぁ、なんて狭い世界で生きていたんだろう。そして、なんて世界は素晴らしいんだろう。
その時、
「お姉さんお姉さん、ちょいとお金をおくれよ」
道端でブルーシートを広げたおばあさんが私にそう呼び掛けた。おばあさんの髪はボサボサで、白髪だらけで、服もぼろぼろだった。こんなにぼろぼろの人を見るのは正直初めてである。
いつもはそんなことしないけれど、私はなんとなく財布を取り出しておばあさんの前に置かれた缶に小銭を入れた。
「ありがとうよ、お姉さん。お礼と言ってはなんだが、1つ願いを叶えてあげよう」
「願い?」
「そうさ。なんだって叶えてあげるよ」
「そうね、じゃあ、私は辛かった頃に声をかけてくれたお姉さんに会いたい。名前も知らないし、きっと幻だったんだろうけど、改めてお礼が言いたいの」
おばあさんは驚いた顔をして私を見たが、やがて一度うなずいた。
「いいでしょう。優しいあなたへのお礼だ。会わせてあげよう」
突然突風が吹いて目を閉じた私が次に目を開けると、そこはかつての私の部屋だった。
1メートルもないところに膝を抱えた私がいる。あの頃、毎日が苦痛だったあの頃が鮮明によみがえってくるようだった。
苦しかったんだよね。いじめもあったし、家族も嫌いだったし、目の敵にされてたもんな。
私は目の前で苦しみの中にいる自分の方へと近づいた。
心が痛い。苦しい。あの日々は、本当に地獄だった。
そうして私は絶望した私の肩を叩いた。驚いた顔をして振り向いた私の顔は、痛々しいほどに苦しそうだった。
なんて、なんて辛そうなんだろう。
そう思ったときには、私は過去の私を抱き締めていた。
「あなたは頑張ってる。本当に頑張ってるからね。大丈夫」
そう言った瞬間、抱き締めていた感覚が消え、いつの間にか私の目の前にはあのおばあさんの姿があった。
「会いたかった人には会えたかい?」
私は急におかしくなって笑った。
「ええ。会えました。ありがとう」
おばあさんはほっほっほと笑って言った。
「いいんだよ。いつも優しいお姉さん」
その言葉に、私は笑みをこぼさずにはいられなかった。




