遠き未来の幸せを儚き追憶に知る
この作品は
「上海アリス幻樂団」様制作の
「東方Project」の二次創作です。
また、百合の要素も含みます。
苦手な方はお戻り下さい。
この作品は、サークル「つるべじ。」主宰の真菜様が敬愛する姫うどんへの熱き想いを、僭越ながら拝借して、執筆しました。
とても柔らかく、それでいてどこまでも感情に訴えかけてくるような。強い思いがあるのに、どこか儚い。真菜様の絵からそんな姫うどんを感じ取り、それでも、私自身納得できる物語になったと思います。
そして真菜様はTwitterなどもやっておられるので、興味のある方は是非、魅力的な姫うどんを見に行ってみて下さい。
――――――――
あの真ん丸に光る月から、私は穢れた地上へと落とされた。それは本当に昔のことで、しかし、地上から見る月が幾度満ちて欠けようと、記憶として薄れることは、ない。永遠を弄び、そして追われ続ける恐怖を永遠と感じた。それはきっといつまでも、私を蝕むことだろう。
仲秋の満月。月見などといって人間は、月と団子を見比べる。そんなもの、比べようにも比べられないのに。ましてやそれを食べようというのだから、怖い物知らずである。
ただ、満月を眺め座る縁側の横に団子が置いてあれば、やはり気にはなる。これはてゐが作ったのか、それとも鈴仙だろうか。上手に餅を搗けるのはこの二人だが、強いて得意であるものは、てゐの方が餅、鈴仙が団子だろうか。二人揃って手先は器用だが、得手不得手は全く違う。
小腹の空いたこともあって、立ち上がり、団子の置いてある三方の横へと座る。見ればご丁寧にも、餅は十五個。神事寄りなのか、上段の餅は月に向かうように、縦に置いてある。団子の大きさ、半紙の位置、全てが整っていて、どこかしら気品が漂う。すすきの穂でも飾ってあれば、更に風流だっただろうか。いや、むしろこの整った団子だけの方が、いかにも月見といった具合で、奥ゆかしい。
それにしても、こうして月見を楽しめるようになるとは、想像もつかなかった。月を見ることすら恐れ、外に出ることさえ拒んだ。幻想郷に入り、追っ手も来ないとわかっていても、怯える日々もあった。また現在ですら、その恐怖に時々、苛まれる。夢に見て、おののき、その度に自らに安堵を言い聞かせた。
それにも関わらず、またこうして月を直視できるのは、鈴仙という存在は大きい。もしも彼女が月から逃げ出してこなかったならば、私は未だ竹林の中に引き籠もっていただろう。少なくとも、月を見よう、月見をしようという気持ちにはならなかったはずだ。
地上という、穢れに落ちる。それを望む望まぬ関係なく、月での地位がなくなるということは、非常に怖いことであった。ただ、蓬莱の薬に手を出した以上、月での地位なんてなくなるのだから、関係がないといえばそれまでではある。しかし、穢れることというのは、やはり自尊心が一度は否定した。顔に出さずとも、言葉にせずとも、穢れいく自分に絶望を感じたのは、一度ではない。
絶望と共に感じる歳月が、堪らなく嫌いだった。
「お団子、食べては頂けないのですか」
不意にかけられた声に驚くが、その声がいつも聞く声だとわかれば怖いこともない。
ただ様子を見に来ただけなのか、鈴仙は団子を挟んだ向こう側に腰を下ろした。
「……あら、これは鈴仙が作ったの。通りで、形が整っている訳だわ」
「わかるんですか? てゐが作っても、綺麗に作っていると思うんですが」
「わかるわよ」
眺めていた月から目を離さずに、鈴仙の表情を思う。きっと、わかると言い切られたことに、驚きと、恥ずかしさと。それらが入り交じっている。嬉しいのか、はたまた、勘繰るのか。
「……そうですね。姫様は、細かな所をお気づきになられるから。何か、てゐと違う所がわかるのでしょうね」
どことなく、もの悲しげな言い方だった。
予期しない反応は、どうしても不安を煽る。月なんてどうでもよくなって、それでも動揺を悟られないように、おもむろに首を傾ける。やはり、陰りのある表情が、そこにはあった。
私が見ても、彼女はこちらを見ようとしない。こちらを向いてはいるが、視線は団子か、もしくは縁側の木目を、まるで穴が空く程に見つめている。
微動だにしない彼女は、月の光に照らされて、なまじ昼に見るよりも鮮明に映る。こと微風に僅かになびく長い髪と、玉兎たる耳が、鈍く月光を反射している。
未だ微動だにしない彼女は俯いたままで、その姿は、月光という暗喩的な追っ手から、口を噤んで目を逸らすことしかできないように見える。それは悲壮という言葉を、私に想起させた。
……その儚げな表情を見れば、ともすれば死にたがっているのかと、連想してしまう。生真面目な彼女は、過ぎた責任や罪を、未だ清算できていないと感じているのだろう。
しかし、矛盾こそしているが、今の彼女は死にたいとは思っていないと思う。命からがら月から逃げたのだ。全てを賭けて、生きる為に、逃げ出したのだ。永遠亭を見つけられたことも、私が匿っているということも、全ては結果論である。逃げる最中には、何一つとして、そうなる確証はなかった。……詰まるところ、彼女はただ純粋に、生きたかったのだ。
そんな中で、果たして私は彼女に生を与えているのだろうか。この狭い世界に押し込んで、再び私という存在に仕える。それは豊姫や依姫に仕えていることと、なんら変わらないのではないか。逃げ出す程辛かった過去を、再現しているだけではないのだろうか。
……どうにも考え込むと言葉が止まる。これはもう、癖のようなものだ。
「お団子、食べましょう? 折角作ったのに、固くなってしまうわ」
「え、あぁ、それならお茶を淹れてきますね。砂糖餅ですから、緑茶が良いですね」
「お茶は後で飲めば良いわよ。今は、月がとてもよく見える。これを拝む為に、この行事があるんじゃない」
「いえ……。私は」
「私が一緒に食べたいの。嫌?」
「いえ、そんなことは」
少しばかり戸惑いながら、それでいて、鈴仙の表情は少しだけ明るくなった。笑顔とは呼べないが、彼女にとってこの表情は、満面の笑みに近い。むしろ誰から見ても満面の笑みである時よりも、こういった表情の時の方が、彼女は喜んでいるようにも見える。
ただ、私は彼女の満面の笑みを見てみたい。取って付けたようなぎこちない笑みではなくて、本心から笑っている、自然な笑顔が、見てみたい。
しかしそれを見るには、凍り付いた彼女の心を溶かさなければいけない。その為には、彼女の心に踏み込まなければならない。思考あるもの、やはり深く踏み込まずして、深く付き合えることはない。仮に自分から距離を置いていても、なお相手が近付いてくるのなら、それは相手の利に繋がるか、自分に盲目であるしかない。過去の経験は、実に明瞭に、それを証明した。
一方的な気持ちなんて、受け取る側の所作一つでいとも簡単に崩れ去ってしまう。仮に五人が、難題を解き伏せて私へ求婚したとしても、私が一つ扇子を横に振るえば、その難題は無駄になる。それはひとえに、私の心というものが欠落しているから、起こる。逆に、私の心と男の心が合致していたなら、難題こそ不必要である。
しかし、心が決まっていても、物事は簡単に進まない。私が難題を望まずとも、二人の間には難題が残る。
根本として、鈴仙の気持ちがわからない。私を好いていてくれるのか、それとも、ただの従者でしかないつもりなのか。
加えて彼女の晩生である気質は、私の性格とは少々相性が悪い。私が言えないことは彼女も言わないし、彼女の思いを汲んだ際には、私もそれを素直に表せない。お互いが何かを察し、そして気まずい空気を残したまま、何事もなかったかのように時は進む。
……好きという気持ちは、月から落とされた時に捨てたはずだった。そもそも、寿命という束縛を外してしまった私からすれば、必ず消失する対象を好きになることは、すなわち苦痛に直結する。私という存在がなくならない以上、風化する者との付き合いなんて、喪失感しか生まない。少なくとも、幻想郷に入るまでは、そう思っていた。
私自身、地球という穢れに染められつつあるのだろう。そういう思考、経験。それら全てが拒否をしていようと、鈴仙が愛しいという思いが止められない。苦痛に繋がろうが、それでもこの思いがあれば何とかできる。そんな根拠のない自信が、どうしてか満ち溢れる。
好きなんて、ただの好意の延長線だ、とも思っていた。しかし、それも自身で否定しつつある。辛いこと、悲しいこと。それもお互いが居れば乗り越えていける。そんな普遍的な、それでいて望んでも手に入れられない幸せを。渇望している自分がいる。
共に歩けたら。手を取り合えたら。このつまらない永遠が、どれだけ彩られることだろう。それは虚無の永遠に、どれだけの意味を与えてくれるだろう。
このもどかしく思う時間すら、尊いと感じる。
「……月、隠れてしまいましたね」
彼女の言葉で、私がぼんやりと考えに浸っていたことに気付く。何も変わらない、月だけが見えなくなったこの暗がりに、それでも空を見つめる二人。煩いとも思えた虫の音は、僅か聞こえる程の心地よい響きに変わる。月の光を失った彼女は、まるで瞳の光すら失ったかのように、見えた。
「いいじゃない。来年もまた、見ることができるわ。仲秋の満月でなくても、お団子がなくても、貴女とこうして一緒にいられることが、私は幸せよ」
はにかむ鈴仙だが、やはりこちらを直視せずに、視線を下げて俯く。
「ありがとうございます。……私も、姫様と一緒にいられること。とても幸せです」
「……でも、貴女の表情は、とても幸せとは思えない。いつも悲しそうで、泣きそうな、顔」
「……お許し下さい」
鈴仙は更に背を丸めて、顔を背ける。……やはり、心を向けても、開いても、難題以上の難題が、二人を隔てる。物理的には月に見立てた団子しかなくとも、その手の届く距離には、永遠以上の距離を感じるのだ。
縁側から投げ出していた足に力を入れて、立ち上がる。その動きを彼女は感じているはずだが、ぴくりとも動く気配はない。
それでも、私は鈴仙に近付く。彼女が永遠に近付いてくれずとも、私から一歩でも近付けば、いつかは手を取れる。彼女が、その固く結んだ手を解いて、こちらに向けた時。それを必ず握り締められるように、私は手を伸ばさなければならない。
「……今日は冷えるわ。風邪を引いてはいけないから」
羽織る着物を一枚脱いで、薄着である鈴仙にかける。耳が僅かに動いたが、言葉も、動きもない。
膝をついて、背中から優しく抱きしめた。身長の割に細い胴を、力一杯。今にもどこかへと消え去ってしまいそうな彼女が、どこにも行けないように。離れてしまわないように。この瞬間だけでも、私が繋がっていると感じられるように。
「……姫様。姫様は本当に……暖かいです」
抱きしめる腕に、鈴仙の細い指が添えられる。優しく、それでいてしっかりと、彼女は私の手を包み込むように、握りしめる。
「いつもそうでした。姫様は私に、暖かさを下さいました。頂いた暖かさは、私の勇気に変わりました」
「……」
「そう。私はその勇気を、姫様に返せずにいます。返さなければいけないと思っていても、踏み出すことができないでいました」
「……」
「私は、姫様のことが好きです。やっと触れることのできたこの手を、離したくない。迷惑になるかもしれないと思って、どうしても言えませんでしたが。もう、自分を抑えられないです」
「……ありがとう」
沈黙。しかし、それは先程と違いとても心地の良いもので、何かがじんわりと、胸の奥から込み上げてくる。幸福、喜び、充足感。彼女が言葉にしただけなのに、この満ち足りる感情は、記憶の限りには思い出せない。やっと、やっと。本当に、彼女と一つになることができた。
「姫様……」
「……なに?」
「この手を、離さないでいて下さいね」
「えぇ。貴女が離してと言っても、離すものですか」
夢にまで見たこの出来事が、現実である今ですら、信じられなかった。
翌日、鈴仙はどうやら人里に薬を売りに行くらしく、背負子に括られた籠に薬を詰め込んでいた。永琳謹製の薬は評判が良く、常備薬として扱う家も多いと聞く。永琳としても、重篤化して運び込まれるよりは、初期対応を人里で行って貰う方がありがたいと言う。幾ら永琳が賢者とはいえ、体は一つしかないのだ。
「……私も、久しぶりに昔話でも話に行こうかしら」
「姫様も来られますか? 何か用意するものはございますか?」
「いえ、今日は何も持って行かないわ。お話の種なんて、人間の寿命では聞き切れないほど積もっているから」
その言葉に、鈴仙ははにかむ。準備をする手は休めていないにも関わらず、こちらを向きながら見つめ合えることは、彼女の器用さが為し得ることだろう。また幾度となく行商に出ている慣れもあるのかもしれない。
「お待たせしました。準備ができました」
「なら、行きましょうか」
鈴仙が着いてきているのを確認しつつ、玄関の戸を開く。屋敷には誰もいないのか、行ってきますと声を出しても、何ら聞こえてくることはなかった。
外に出てみれば、僅かに吹く風が竹の葉を揺らし、さらさらと渇いた音が周囲を埋め尽くしている。それにあわせて、枯れた葉が幾枚も、まるで糸によりをかけるように、回転しながら舞い踊る。季節柄冷え込んできた風に僅か身震いしながらも、柔らかな木漏れ日は、どこまでも暖かい。
見上げる私の顔を、鈴仙は横から眺めている。そしてうっすらと笑みを浮かべると、歩を進め、竹林を下っていく。しかし、私を置き去りにしている訳ではない。
彼女は、竹林と里を行き来する、つまり私と外出する時には、私より前を歩く。死なないのだから護衛すらいらないと何度も言ったが、鈴仙は、お怪我をされてはいけませんと、譲ることはない。その癖、里に入れば私の後ろに立って、いかにも従者であるように振る舞うのだが、それが少しだけ悲しく思うことを、未だ彼女は知らないのだろう。
ただ、常日頃からおどおどとしている鈴仙が、この時だけは誇らしげな表情を見せる。少し歩いて振り返り、段差があれば手を差し伸べて。その節々に見える優しさが、また彼女を輝かせて見えた。
特に会話はない。同じ屋敷にいるのだから、それぞれにこれからすることを考えているのだろう。私がお話をしている間、鈴仙は行商をしている。回る家や、家族構成などを考慮して薬を薦めるのだと、いつか話してくれた。
それらから見ても、鈴仙は真性の苦労人である。真面目も真面目、それこそ人間の要望に合わせて薬を提案すれば良いのに、逐一人を覚え、薬を理解し、売る。見方によればお節介と思えるが、しかし里の人間も、鈴仙の真摯な姿には、共感するらしい。私も、その姿を見れば、ただただ感心しきりである。
私が里で話をする場所は、決まって寺子屋である。子供相手に話すということもあるが、寺子屋の付近には広場があって、何をするにも都合が良い。多少の大人が集まっても、狭いということは決してない。
私が鈴仙と一緒に里に下りた時には、彼女は一番最後に寺子屋を回る。私の話の末尾を聞き、常備薬に過不足ないかを訪ね、帰途につく。里を出るまでは私の後ろを。里を出てからは私の前を、彼女は歩く。
この里に向かう時間は、ただ二人の足音が響くだけで、余程変わったことがない限りには、お互いに口を開かない。
それでも、私はこの時間が大好きだ。二人でいる。共に歩んでいる。それが実感できるこの時間は、私に生きる意味を与えてくれるようだった。不老不死で、永遠の時間があっても、今この場所を歩くことに意味を見出す。毎回同じであっても、行く度に特別になる。
この時間が、永遠に続けば良いのに。
その思いは、密やかに胸に閉じ込めた。
「今日も寺子屋の前にいるから。貴女も、終わったら迎えに来て頂戴ね」
「はい。今日は多くは回らないので、きっと姫様のお話を、中程からは聞けると思います」
「あら、貴女に聞かれるのは、少し恥ずかしいわね……」
「いつも、素敵なお話をされておられるので。現実か嘘か、それすらわからない、それでも、まるで目の前でそれが繰り広げられているように感じます。こう見えても、姫様のお話を聞くの、楽しみにしているんですよ」
はにかみながら、彼女はこちらを振り向く。折しも里の門前で、彼女は私に先頭を譲った。少し頭を下げる鈴仙にお礼を言い、里に入る。
「それでは、私は薬を売ってきますね」
最近は無精で、里に話をしに来てはいなかった。久方ぶりに見る里は、何も変わらないようで、しかし、所々変わっている。
例えば、寺子屋の前の広場だって、何もなかったはずの場所に小屋の様な建物ができているし、隅の方に何やら石碑のような物もできている。ただ、建物は変わりないし、立地も変わっていない。懐かしさの中の間違い探しをしているようで、どこか、楽しい。
「……輝夜?」
寺子屋の中から、不意に呼び止められた。秋とはいえ日差しの強い外から屋内を覗くことは難しく、暗がりの中に、誰がいるのかはわからない。ただその声は、ずっと昔から知っている声だった。
「妹紅……なの?」
「あぁ。久しぶりじゃないか」
声が近付き、私の場所からも妹紅の姿が見える。
蓬莱人らしく、姿形は何一つ変わっていない。私の知る妹紅そのものだ。だが、大きく違う部分もある。
「あら、貴女、髪を括るのは止めたの?」
「あぁ、これか。そうだな。少し前に、な」
「いいじゃない。印象は違うけれど、似合っているわよ」
妹紅は照れ臭そうに顔を背ける。彼女とは永い付き合いだが、こんな表情を浮かべることもあるのだと、知った。落ち着いたのか、こちらに向き直る妹紅は、自然な微笑みを浮かべている。……これも、私は知らない。
「それにしても、輝夜が屋敷から出るのも珍しいな」
「そういう貴女も、寺子屋にいるなんて珍しいじゃない」
「あー、そうだな……。まぁ、今は先生というか。子供達に学術やらを教えているからな」
「自警団ではなくて? 貴女が教えるの?」
私の問いに、妹紅はただ静かに微笑むだけだった。優しさのある、しかし悲しみを内包したような、今にも消え入りそうな微笑みだった。
そんな彼女の周りには、いつの間にやら子供達が集まる。それぞれが妹紅の体なり服なりのどこかを触り、寄り集まるように、こちらを見ている。
好奇と不安の入り交じる目。子供らからすれば、見たこともない人間が、教師と親しげに話せば、そういった表情になるのだろう。無垢な瞳が、私を射貫く。
「それで、どうしたんだ。里に何か用事か?」
「いえ、今日はお話をしに行こうと思って。イナバも薬を売りに来るみたいだったし」
「……ん、あぁ。薬、か。そうだな。薬は必要だもんな」
「えぇ」
「…………ほら、お前たち。少しの間、その辺りで遊んでおいで」
その言葉に、子供達は各々が走り出し、広場で楽しそうに遊び始める。枝を拾ってみたり、何かを投げ合っていたり、隅の方で話していたり。以前と何ら変わらない、子供達の姿があった。
無言のまま、二人でそれを見る。良くも悪くも、妹紅とは永い付き合いであり、そして積極的に言葉を交わすことはない。今も、言葉を出すのが野暮な気がして、口を噤んでいる。子供達の無邪気な声が、心地よい。
それなのに、心に溜まるどろどろとした何かが気持ち悪い。何とも言い表せない、矛盾と葛藤を合わせたような、そんな感情だった。
その内に、黙っていることが苦痛になって、言葉が口から零れた。
「……どうしてかしら」
「どうした? 何か、あったか?」
「私はここに、お話をしようと思って来たの。それなのに、何を話して良いのか、さっぱりわからない」
「輝夜……」
「昔話も、大昔の話も、覚えているし話せるはずなのに。なんだか、ぐるぐるに巻いた糸の切り口を見失ったみたいに。糸はあるけれど、それをどう解いたら良いのか、わからなくて」
「……」
「そう。頭ではわかっていたけれど、認めることで辛くなることもある。でも、認めないと、前に進むことはできない。……私は、彼女に自分のわがままを押しつけてばかりだった。でも、私の為にも、彼女の為にも。きちんと伝えないといけないって、そう思えた」
ちらりと妹紅を見る。彼女は微動だにせず、走り回る子供を見続けている。
「……きっと、あいつも輝夜のことを恨んじゃいないさ。ただ、もしかしたら」
「もしかしたら?」
「一人の存在として、接して欲しかったのかもしれないな。理由の有無なんかじゃなく、ただただ特別な存在だと。そう言って欲しかったのかもしれない」
私にとって、鈴仙は特別な存在だ。それは疑いようもない。
しかしそれを彼女に伝えていたかは、わからない。含みを持たせたり、暗に伝えようとはしたが、明確な言霊として伝えたことはないだろう。察することは得意な彼女だが、その答えに自信を持つことはできなかったに違いない。
……私が、臆病だったから。
「貴女と会えて、とても良かった。私一人だとこれから先も、どうしても鈴仙に言葉にして伝えることはできなかったと思う。……ありがとう。勇気を出して、伝えてみるわ」
「……あぁ」
「ほら、鈴仙。帰りましょう。そこにいるんでしょう?」
ひょっこりと、寺子屋の陰から鈴仙が顔を出す。少しばかり困惑した表情のまま、もじもじしながらこちらへ近付いてくる。
「お話は、もう良いのですか? 姫様のお話、聞けなくて残念です……」
「ええ。子供達に読み聞かせるのは、またの機会にするわ。今日は妹紅とも話せたし、それに。……貴女に伝えたいことがあるから」
鈴仙の頭上に疑問符が出ているようで、そのおどけた表情が、愛おしい。それこそ、狂ってしまいそうな程に。
「それじゃ、また来るから」
「あぁ。その時には、子供達に読み聞かせをしてやってくれ」
寺子屋を背にして歩き始める。鈴仙は何も言わず、私の後ろに着いてきているようだ。子供の走り回る喧噪に、二人分の足音が混ざる。
「おい、輝夜」
妹紅の言葉に振り返れば、こちらを向いたままの鈴仙越しに、妹紅が見える。距離があり、表情まではわからない。
「また来いよ。……約束だからな」
あまりにも妹紅らしくない言葉に、思わず目を見開く。それに驚いたのか、鈴仙は不思議そうに小首を傾げた。
「……えぇ、必ず」
呟くように言った言葉は、果たして妹紅には届いただろうか。いや、届かなくても構わない。私がまた、ここに来れば良いだけの話なのだから。
「姫様、帰りましょう? きっとお師匠様も待っておられますよ」
無垢な笑顔が私を貫く。しかし、ここが人里の中だからか、鈴仙は自分から前に進もうとはしない。私が前に進むのを待っている。
そう、彼女はいつも、こうして私に着いてきてくれた。だから、私は前を向いて歩くことができた。いつでもそこにある、慕ってくれるという安心感は、私をどこまでも強くしてくれた。
今ですら、こうして前を向く勇気をくれる。また里に来ようという、最終的な切っ掛けと、それを後押ししたのは、紛れもない鈴仙だ。彼女は私の従者で、そして極度の晩生で、どこまでも自我を押し殺していたけれど。それでも私と進むことを恐れず、しっかりと着いてきてくれた。
私が意地悪をしても。悪戯をしても。怒った様な素振りはしながらも、慕ってくれた。昨日のように、満月を二人で眺めた時も幾度とあった。彼女の笑顔は、私を笑顔にしてくれた。何より、私の笑顔を、彼女自身が望んでいた。彼女はいつも、私の傍にいてくれた。
私は、彼女と共にあった。
人里の門を過ぎ、平野を抜け、永遠亭へと続く小径へとさしかかる。ちらほらと竹が姿を現し、数歩の距離で、鬱蒼とした竹林に飲み込まれる。
この道も、鈴仙やてゐが整備した。細い道だが、これのおかげで永遠亭に来る為には、迷うことはなくなった。薬の行商も嫌な顔一つせず引き受けてくれた。家事一般から、私の暇潰しにすら、喜んで付き合ってくれた。
彼女との思い出を、それ以外の思い出と天秤にかけたなら、間違いなく鈴仙との思い出の方が重い。そもそも、天秤にかけることすらできない。比較することすら、したくない。
本当に大切な存在。私に、永遠と付き合う勇気をくれた存在。永遠を歩む理由をくれた存在。いつまでも一緒にいたい。そう考えたのは、大して不自然な思いではなかったはずだ。思考有るもの、いかに客観に重きを置いても、私利私欲を全て切り離すことはできない。最期まで、私は彼女を失いたくなかった。
「……姫様、何か考え事ですか? 私にお手伝いできることはございませんか?」
少し心配そうな鈴仙の声。振り返れば、こちらを覗き込む表情も不安にまみれていて、いたたまれない気分になる。
彼女にそんな表情はさせてはいけない。そう思っていても、私はいつも、彼女にそんな表情をさせてきた。嫌われたくない。ただその気持ちが、彼女を笑顔にすることまでも邪魔をする。
だから。例え嫌われたとしても。今、この時間くらい。……笑顔にしてあげたい。
頭を撫でる。唐突だったのか、鈴仙は僅か狼狽えるが、一度、二度と撫でる内に大人しくなる。頬が少し朱くなり、お腹の辺りで手をぎゅっと握っている姿は、とても可愛らしい。
ふわりと薫る彼女の残り香を感じながら、撫でる手を止めて、力一杯抱きしめた。離したくないという感情を、止められない。いや、止めてはならない。
「姫様……?」
「鈴仙、ありがとうね。そして、私のわがままに付き合わせて、ごめんなさい」
「え、いや、姫様が謝るなんてことは」
「私が謝りたいの。貴女は笑っていて」
「……姫様が、そう仰るなら」
力を込めた腕が、時間が経つにつれて弱くなり、徐々に二人の距離が開く。そして、二人を繋ぐものは触れ合う指だけになる。僅かに絡められたそれは、力強く握っているようで、ふと気付けばそっと離れて、空を切る。
しかし、私は切れた指を気にすることはなかった。否、気にする余裕がなかった。
こちらを見る鈴仙は、今まで見たこともないとびきりの笑顔だった。何の憂いもない、明るく、純粋な笑顔。私の記憶に、それはない。初めて見る笑顔。
「……ありがとう。貴女のその笑顔は、とても励みになるわ」
満面の笑みに、はにかみが混じる。これも、見たことがない。彼女なりの、置き土産だろうか。
……いや、記憶でさえ、私の理想と空想が混濁するのだ。置き土産というよりは、最後のわがままを叶えてくれた、が正しいのかもしれない。
不思議そうな表情は、それでいて、無垢な笑顔を残していた。
永遠亭の屋敷を横に見て、僅かに竹林を上る。小高い丘は、永遠亭を全て見通すことができて、また竹林の切れ目から、夜には綺麗に月が見通せる場所だ。
その場所に、ただ一つだけぽつりと、石碑がある。……石碑があることだけを知っていた、というべきだろうか。実際、大きさや形さえ、見たこともなければ、聞いたこともない。ただ、有ることをだけを、知っている。
後ろにはもう、鈴仙はいない。彼女とこの場所には来たことはない。何一つ、思い出はない。かすかに遠くで聞こえる虫の音は、一人分の足音を邪魔することもない。
まるで結界が張ってあるかのように、前に進む度に、現実ではないような錯覚に陥る。
逃げ出したい気持ちを諫めながら、ようやく登り切る。そして想像でしかなかった石碑と、僅かしか広さのない丘を知る。初めて見た石碑は苔一つ生えておらず、さも設置したばかりのように綺麗なままである。文字も刻まれていない。ただぽつりと一つ、置かれている。
石碑の前には花立てが二つ。今は秋であるはずだが、それにはくちなしの花が生けてある。まるで今切り出して、生けたかのように、花弁は瑞々しく、葉も一つとして枯れていない。ただ、そこに感じるはずの香りはなく、ただ、時の止まったかのように、そこにある。
石碑の前に跪き、両手を合わせた。もう、祈っても届かないかもしれない。それでも、祈らずにはいられない。
……どこまでも私のわがままを聞いてくれていた貴女が、一つだけ、どうしても聞いてくれないお願いがあった。何度頼もうとも、最後には泣きわめこうが、何をしようが、受け入れてはくれなかった。
蓬莱の薬は禁薬である。しかし、貴女がそれを飲まなかった理由は、きっとそれではない。確かに貴女は罪を犯すことを極端に嫌った。それでも、一度決意すれば貫き通す強さを持っていた。
その強さこそが、蓬莱の薬を拒んだ理由だろう。そして自身が蓬莱人になれば、絶対に私を救うことができないことを、貴女は悟ったのだろう。
全ては、私が永遠を生きることに絶望を抱かないためだ。大切な人を蓬莱人にすることを覚えれば、ますます別れが辛くなる。別れを惜しみ、特別な人とだけ過ごせば、幻想郷からすら、忘れられる存在になる。
時間が制限されるからこそ、時の重さと儚さがわかる。そしてその重さと儚さは、絶望と共に希望も導く。私も貴女と向き合ったから、それを思い出すことができた。昔々に感じた、月にはない、穢れを知るからこその、希望を。
「鈴仙……。今までは貴女を永遠に縛り付けたけど、術は解くから。貴女の望まなかった永遠を、押しつけるなんて、最低だから。永い間押し込めてしまったけど、これで。自由に」
辺りの時が戻る。風が、音が、全ての物が。何百年もの不変から、自由を手にする。
刹那、石碑は音もなく現れた人の形に遮られた。見つめ合えば、嬉しさと不思議さが込み上げて、ただ呆けることしかできない。
「……やっと、来てくれたんですね」
「鈴仙……!」
「待っていましたよ。姫様」
目の前に、鈴仙が立っている。わがままで永遠に閉じ込めた、私の記憶ではない鈴仙が、こちらに笑みを向ける。死ぬ前と何ら変わらない、どこまでも焦がれたその人は、ただただ微笑むだけだった。
「不思議でしょう。私も不思議でした。何故これだけの時を経て私がここにいるか、この場所でいつまでも、考えました。そして気付いたんです。私が波長を長く長く伸ばして、思考だけになっても、姫様と会おうとしたこと。そしてその私を、姫様が永遠に閉じ込めたこと。どうやら残された波長は、その場限りの不老不死になっていたみたいです」
「……私は。望まない永遠に、貴女を閉じ込めて」
「良い経験でした。そして、蓬莱の薬を飲まなくて正解でした。永遠を過ごすということは、どうにも私にはできないようです。この短い時間すら、私には気が狂いそうな永遠でした。そして、私の気が触れてしまったら、きっと姫様を泣かせてしまったことでしょう」
「……ごめんなさい。私は貴女がいないという世界に、耐えられなかった」
「良いのですよ。私だって未練たらたら、こんな波長を残していたんですから。でも、永遠も解かれた今、私も長くはないでしょう。……ですから姫様。一つ、約束をしませんか?」
「……約束?」
「えぇ。私が輪廻転生をして戻ってくるまで、待っていて貰えませんか? 永い永い時間でしょうが、お願いできませんか?」
「……」
「もしも遠い未来に、また姫様と出会えたなら。姫様が見ることのできない川の向こう側を、そして私が見られなかったこれからを、一緒に月を見ながら話しませんか? お酒でも飲みながら、また、笑いませんか?」
鈴仙の瞳からは大粒の涙が流れ、また私も、嗚咽を漏らしている。悲しみなのか、そもそも負の感情なのか、それすらわからない。ただただ溢れ出る涙が、私という存在が未だ永遠ではないと、示していると思う。
肉体が永遠でも、思考は止められない。蓬莱人であっても、永遠に時が止まっているわけではない。
ただ何千何万と年月が過ぎても、貴女を待つという思いが、今の私を残すだろう。貴女への想いが、どこまでも導いてくれるだろう。
「……えぇ。いつまでも待っているわ。三途の川の長さとか、裁く閻魔の表情とか。私の見られない全てをしっかり見てきて頂戴。私は待つことしかできないし、でも絶対に待っているから。だから、必ず」
「必ず。戻ってきます」
涙にまみれた表情で、それなのに胸の空くような笑顔で。貴女は私に近付き、手を握る。記憶では感じられなかった温もりが、そこにある。
「それでは、少しお暇を頂きますね。姫様……。愛しています」
握る手が、指が。段々と希薄になって、目に見えて透明になって。貴女で見えなかったはずの石碑が、とても鮮明に映る。
石碑は何一つ汚れていなかったはずなのに、いつの間にやら黒く変色し、ひびが入り、角はあからさまに風化し始めている。私が永遠に押し込めた数百年が、須臾にして過ぎ去った。彼女はもう、ここにはいない。
「……永遠に、貴女を待つわ。貴女が迷わないように、永遠には閉じこもらない。また会えるのだから。千の昼も万の夜も、それは須臾に溶けていくことでしょう」
「だって、卑怯じゃない。貴女だけ愛してると伝えて、私は伝えられなかったから。……だから次に会う時は、私から愛していると、言うんだから」
いつの間にか日は落ちて、しかし十六夜は未だ空に見えず。遠くから聞こえる虫の音は、今という時を懸命に刻んでいる。
一度石碑に手を合わせて、屋敷に続く道を下った。
ふと何か気になっておもむろに振り返れば、褪せた景色の中に僅か、微笑みながら手を振る彼女が見えた。そんな、気がした。
読了ありがとうございました。
何か一つでも、感じるものがありましたら、作者として幸いにございます。
平成二十九年六月 ピースブリッジ