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其ノ九

 新月からの五日間、権蔵は連日連夜、工場に籠った。

 握り飯と焼き魚を差し入れに来た半造は、食うや食わずやの権蔵を見て、職人の気迫に感じ入って帰って行った。


 権蔵の気合いと集中力が一段と増したのは、もちろんお香との約束があるからだ。


 必要な部品は既に揃えた。あとは、組み立ての作業だ。厚さや切り込みの大きさを調整しながらの細かい作業になる。取り掛かれば、しばらく中断できないだろう。

 その前にもう一度、お香を心身に深く刻んでおきたい。


 夜明け前。精錬作業を終えた権蔵は、久しぶりに風呂を熱く沸かして、ゆっくりと浸かった。

 いつの間にか秋は深まり、涼しくなっていた。戸外から届く秋の虫の声も、疎らで弱い。


 明後日の上弦の月を前に、今夜、お香に会いに行こう。レンには何を買ってやろうか……いや、お香にも季節の菓子でも持って行こうか。


 そんな甘い予定に思い巡らしていた時、遠くから篭屋の掛け声が聞こえてきた。


 ――まさか……。


 程なく、掛け声は家の前で止まった。


「源さん! 会いたかった!」


「やっぱり、お鈴か」


 柿渋に紅葉柄の小袖姿で風呂場に現れたお鈴は、いきなり自ら翡翠色の帯を解き始めた。

 驚いて湯船の中から眺めていると、するすると着物を脱ぎ捨て、恥じらいもなく湯船に身を浸した。

 ざぁーっと湯が溢れたが、お構い無しにお鈴は権蔵に抱き付いた。


「おい……」


「源さん、今日は離さないよ」


 紅をひいた薄い唇がニイッと笑って、男の口を塞ぐ。


「俺ぁ、これから寝るんだぜ」


「あら、ちょうどいいじゃないの」


 クスクス笑って、彼の腕の筋肉を撫でる。

 仕事中なら、それを口実に断ることもできるのだが、こうなっては諦めるしかない。


 風呂を上がると、敷いてあった布団の中で肌を合わせた。

 お香を知る前の渇欲した行為とは違う権蔵の愛撫に、満たされながらもお鈴は寂しさを感じていた。この男も自分の物にはならないのだ――と。


「……どうした?」


 閉じたまなじりから一筋、ツ……と流れた涙に気付いた権蔵が、その雫を指で掬う。


「源さん、他に女がいるんだろ」


 薄く開いたお鈴の双眸そうぼうが、まっすぐ男を見つめる。

 全てを見通したような彼女の眼差しにドキリとするが、権蔵は苦笑いした。


「――何言ってやがる」


「いいんだよ。あたしはただの女郎さ。あんたに身請けしてもらおうなんて思っちゃいない」


 細い手を権蔵の頬に伸ばし、そっと触れる。満たされて湿度を帯びた温もりが伝わってくる。


「だけど……腕の中にいる間だけは、夫婦みたいなもんだ。他の女のことは忘れておくれよ」


「お鈴、お前はいい女だよ。俺なんかより甲斐性のある旦那が見初めてくれるさ」


 彼女の手を取って、口づける。その所作を濡れた瞳が追っていたが、ツイと振り払って彼に背を向けた。


「気休めは止めとくれ。それに――口先だけの優しさも」


 お鈴は感情を押し殺した声で、少し早口に言い捨てた。障子の向こうから差し込む柔らかい光の中で、白いうなじが寂しげだ。

 権蔵は細い肩を軽く掴んで、うなじに唇を這わせる。女は堪らずに甘い息を付く。


「辰の……親分の仕事は、今年中には終わるんだろ?」


 男の指が肩から腕をなぞって、乳房に届く。


「ああ。恐らく、雪が降る前には――完成させたい」


 朝が進むにつれ、細やかな光量が部屋に広がり、平面に凹凸の影を落とす。

 布団からはだけた胸の上で、権蔵の長い指が器用に膨らみを撫でている。お鈴は俯いて、顕になった彼の手の動きをしばらく眺めた。


「源さん。一つ教えてあげる」


 男の息と熱に包まれながら、身体の芯にまた炎が小さく点るのを感じ、瞼を閉じる。


「親分は、恐ろしい男さ。出来上がった錠前を、直接渡しちゃならないよ……」


 それは、権蔵も思案していたことだった。財産を守るための錠前をこしらえた自分を、辰次郎は果たして生かしておくだろうか?

 カラクリの仕組みを話したが最期、刀の露にされるのではないか――。


「ありがとよ、お鈴」


 感謝を込めて、彼女の背中に口づける。

 胸を愛撫する権蔵の手に、お鈴は自分の手を重ねた。


「――源さん。あたしはこの手……この指に惚れただけさ」


 気丈な言葉の裏にある、女の切ない気概を感じる。お鈴は分かっているのだ。仮に堅気の男に惚れたとて、自分は女郎屋と辰次郎親分に縛られているのだと。

 親分の名前で多少自由に行動できても、彼らの元を離れることはできない身なのだと。


「お鈴、今まで世話になったな」


「――あたしが好きでしたことさ。野暮はよしとくれ」


 それでも、権蔵には分かっていた。これが最後の訪問で――きっと彼女の肌に触れるのは最後になることを。


 権蔵は優しく彼女の身を自分に向けると、大切な恋人を慈しむように熱く濃厚に唇を重ねた。

 その一瞬でお鈴の肌が歓喜に染まり、あとは夢中で絡まり合った。


 差し込む光が朝の色から、褪せた昼の気配に変わる頃、互いの腕の中で果てて眠りに落ちた。


 数時間、抱き合った形のまま、動かなかった。


 午後になって、先にお鈴が目覚め、肌襦袢を掴んで羽織り、厠に行った。

 その気配に権蔵も目を開けた。着物に袖だけ通すと、部屋の隅から煙草盆を引き寄せ煙管を拾う。刻み煙草を丸めて詰め、炭火で火を付ける。ゆっくり深く味わいながら煙を吐いた。


「……源さん、起きたのかい」


 肌襦袢姿のお鈴が戻ってきた。布団の上の権蔵にしなだれ掛かり、受け取った煙管を一口吸う。


「ああ。もう夕刻だな」


「日が落ちたら――迎えがくるわ」


「――そうか」


 しばらく無言で煙管を吸い合った。差し込む橙色の日差しの中、煙が絹のように薄く漂う。


「……あんたの想い人が羨ましい」


 雁首から唇を離して、ふぅと煙を吐く。ぽつり、呟く横顔が寂しげだ。


「――お鈴」


「ふふ……気にしないで。女郎の戯れ言さ」


 煙管を男の長い指の間に預けて、軽く唇を重ねた。権蔵が腰を抱く前に、するりと立ち上がり、彼を見下ろした。


「達者でね、源さん」


「ああ。お前も、お鈴」


 女は来た時と同じようにニイッと笑って、肌襦袢を翻して出て行った。


 雁首を鳴らして、溜まった灰を捨てる。もう一度、刻み煙草を詰め、火を付ける。

 女の温もりが消えた布団の上で、彼女の余韻を刻み込むように、ゆっくり煙を味わった。


 新しい煙草が灰になる前に、遠くから篭屋の掛け声が聞こえ、家の前で止まる。

 やや間があって、男達の掛け声が遠ざかっていった。


 秋の夕日は既に落ち、部屋の中に薄闇が青く流れ込む。

 酷く腹が減っていたが、権蔵はもう一度風呂を沸かして乾いた汗を洗い流した。

 深夜の外出予定を変えるつもりはなかった。



-*-*-*-


 ところが夜半過ぎから吹き出した風がどんどん強くなり、外出するには困難な風雨になった。


「……ひでぇ嵐になったなぁ」


 徳爺さんは、顔を叩きつける雨粒に眉をしかめた。

 一人では渋く動かない雨戸を、権蔵と協力して閉めていく。


「立て付けが悪いな。大工に直してもらった方がいいですぜ」


 敷居が歪んでいるのだろう。慎重に動かすが、ちょっと力を入れると溝から外れ、また加減すると途中で噛んだように止まってしまう。


「へへ……老いぼれの独り暮しだ、金を掛けるほどの価値もねぇよ」


 前歯の抜けた赤ら顔でニカッと笑う。弟子も家族も無い独り身なれば、それも尤もな話だ。


「徳三郎さん、中に入んなせぇ」


「すまねぇな」


 最後の一枚を支え、先に主を家に入れると、権蔵が慎重に閉じた。


 隣の居間に行くと、行灯が二つ、部屋の対角線に置いてあり、いつもより随分明るい。


「着替えた方がいいなぁ」


 言いながらも、徳爺さんは手拭いを権蔵に渡した。


「ありがてぇ」


 濡れた顔を吹いていると、徳爺さんは酒瓶と湯飲みを二つ置き、権蔵を手招いた。肴の漬物まで皿に乗せた辺り、飲むことにかけては準備がいい。

 胸の内で苦笑いしつつ、男の手酌酒の相伴に預かる。


「あんたは、江戸の生まれだろ。錠前は誰に教わったんだね」


 湯飲み二つに酒を満たし、一つを権蔵の前に置く。

 ちょっと頭を下げて、口を付ける。


「祖父が刀鍛冶だったんですがね、手慰みの錠前が親父の代から本職になったんでさ」


「カラクリまでやるってぇと、相当な腕前だなぁ」


 感心の声を上げ、漬物を勧める。皿からナス漬を一切れ摘まみ、伺うように徳爺さんを盗み見る。


「――辰の親分から聞きなさったんで?」


 徳爺さんは、ヘヘへと曖昧に笑った。


「ワシも昔は名を馳せたもんだが……今はざまあねぇ」


 濡れた着物がまだ乾かないが、酒のお陰だろう、身体は冷えていない。

 権蔵は胡座を組み直す。ふぅと息を吐いて、もう一口グイと飲む。


「立派な工場だ。弟子も大勢抱えてなさったんでしょう」


 徳爺さんは笑顔のまま、トクトクとそれぞれの湯飲みに注ぎ足した。漬物を一切、口に放り込み、噛みながらチビりと酒を舐めた。


「――昔の話さ」


 雨戸をガタガタと風が叩く。もはや、今夜の逢瀬は諦めざるを得まい。


「ワシにもなぁ、あんたみたいな息子がいたら違ったかもしれん」


「不肖息子ですぜ」


「へへ……ちげぇねぇ」


 男達は低く笑う。自嘲を含んだ乾いた笑いではあるが、卑屈ではなかった。


 その後も、辰次郎親分の賭博で一儲けした話や、娘師の仕事で手に入れた逸品の話なんかを、互いに一つ二つ明かして酒盛りはお開きとなった。


「……徳三郎さん、こんなところで寝たら、風邪引きますぜ」


 湯飲みやら酒瓶やら台所に運ぶ少しの間に、はや舟を深く漕いでいる。

 声を掛けても覚めそうにないので、徳爺さんの部屋で布団を敷いてから抱えて横たえた。


「……善之朗ぜんしろう


「――へ?」


「すまねぇ……許して、くれ――」


 掛け布団を掛けた時、しゃがれた声で低く呟いた。夢でも見ているのか、徳爺さんのシワだらけの目元が滲んでいた。


 酒にしろ博打にしろ、女にしろ――身を滅ぼす程溺れるには、きっかけがある。

 徳爺さんにも、胸の奥に封印した過去があるのだろう。


 権蔵は襖を静かに閉め、自分の部屋に行った。

 夜明けには間があるが、お香を抱く気は萎えている。日を改めて出直しだ。今夜は大人しく一人寝で我慢しよう。


 幾らか弱くなった風の遠吠えを聞きながら、権蔵は目を閉じた。




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