其ノ八
お香と暮らすために、権蔵は前にも増して錠前造りに熱が入った。
お鈴が久しぶりにやって来た夜も、夕方から炉に炎を入れていた権蔵は、彼女を抱きもせず夜通し作業に没頭した。
「なんだい。女が据え膳食わそうと訪ねて来たってのに!」
脂の乗った焼き秋刀魚が手に入ったから……とやって来たお鈴は、当然下心あってのことだ。面白くない。
「――すまねぇな、お鈴。これが俺の性分なんでさ」
工場の権蔵は上半身の着物を腰まで脱いで、鉄を叩いている。玉のような汗が、盛り上がった筋肉の上を幾筋も流れている。
拗ねた眼差しで彼を睨むものの、お鈴の視線はたくましい背筋に奪われたままだ。
「――仕様がない……職人さんだねぇ」
「すまねぇなあ」
カキーン、カキーン、と律良く鉄を打つ。
「源さん」
甘えた声を投げるが、精錬の作業音に掻き消される。
「源さん!」
「……おう?」
「明日の晩は、身体を空けておくれよ。また来るからさぁ」
鎚を振り下ろしたところで手を止め、権蔵はすまな気に眉を下げた。
「ここしばらく正念場なんでなあ。もうちっと勘弁してくれねぇか」
「しばらくって、いつまでだい」
「そうさなぁ……次の上限の月まで待っちゃもらえねぇか」
今は下限の月を過ぎたばかりだ。これから新月を向かえるのだから、ざっと十日近く待たねばならない計算になる。
お鈴は唇を尖らせると、涙目で権蔵を睨んだ。
「――惚れた弱みに突け込んで、随分じゃないか。馬鹿にするんじゃあないよ!」
「お鈴――」
彼女は柿色の上品な着物を翻して、工場を出て行った。
権蔵は追いかけなかった。一息付くと、再び鎚を振り上げ、力を込めて精錬作業を続けた。
明け方――精根尽きて、作業を終えた。
足元をふらつかせつつ、台所の龜から水を飲む。かいた汗を補うように、杓から立て続けに四、五杯、喉や胸を濡らして飲んだ。
漸く、人心地が付いた。
居間に目を向けると、開け放した襖の向こうに、ひっくり返った夕食の膳が見える。お鈴が癇癪を起こしたのだろう。
やれやれ、と畳に上がって奥の部屋に行く。
庭の縁側に面した襖も細く開き、秋風が吹き込んでいた。襖を開けると、いつか知らぬ間にお鈴が吊るした風鈴が、庭石に投げつけて叩き割られていた。
「――お鈴」
家の中に声を掛けるも、彼女の姿はない。憤慨させてしまったことは――辰次郎親分の耳に届くだろうか。
不味かっただろうか。
散らばった夕食の片付けをしながら、逡巡する。
お鈴が惚れているのは、長い指を持った彼の手だ。権蔵の技術や、ましてや人柄などではないはずだ。
権蔵とて女郎宿で彼女を選んだのは、初恋の女に面差しが近かったからというだけだ。
そもそも花街の女郎――それも裏世界の親分の後ろ楯を持つ、危険な匂いのする女――と本気で惚れた腫れたの恋の鞘当てを立ち回るつもりは毛頭ない。
「確かに脂が乗ってらぁ」
畳から摘まみ上げた秋刀魚にぱくりと食らい付く。
すっかり冷えてしまったが、芳ばしい秋の味だ。レンが喜ぶに違いない――などと考えて、胸の奥がじんわりと切なくなった。
――お香に、会いてぇ。
正直なところ、今の権蔵にはお香以外の女は飾り細工の徒花だった。
この世で一輪、唯一無二の瑞々しい生花は、お香一人だ。
権蔵に生きる意味と活力を与える、至上の蜜を湛えた生命の華だ。
――明日の夜は新月か。
秋刀魚の最後の尾ひれまで飲み込んで、倒れた酒徳利の底の数滴を舐めた。
散らばった飯はさすがに食う気がしなかったので、ひっくり返った膳を起こして拾い上げた。沢庵の漬物は、二、三摘まんでコリコリ食った。
汁物と酒のシミを手拭いで擦りながら、権蔵は決める。
明日の夜更け、嵯峨美屋の土蔵を破りに行こう――と。
-*-*-*-
焼いたメザシを懐に忍ばせて、嵯峨美屋の塀を越える。
土蔵の錠前は一度解錠したため、コツを掴んでいる。あっさりと中に滑り込んだ。
――にゃあ。
「よぅ、レンか。邪魔するぜ」
――にぃぃ。
白猫は権蔵の足元まで来ると、やたらと愛想良くまとわりついた。
「……土産に気付いたか?」
ニヤリと笑いながら、長持の壁の間を抜ける。
「権蔵さん?」
行灯に照らされた麗人は、琥珀色の絽綴の着物を海老茶の帯でまとめた秋色の装いだ。
「ああ。お香、待たせたな」
――にゃーおぅ。
レンが焦れたように甘えた声を出す。
懐から出した藁半紙を広げてメザシを顕にすると、レンは堪らないという表情で瞳を輝かせた。
包みを皿代わりに敷いて、土の上に置くやいなや彼女は食いついた。
「……レン?」
「ちぃっと土産を持って来たのさ」
目を細めてレンを見下ろし、それから草履を脱いで畳に上がる。そのままお香の側に腰を下ろした。
「お土産……お魚の匂いね」
権蔵の気配に笑顔を深める。伸ばしてきた彼女の手を優しく掴んで、権蔵は身を乗り出して口づけた。
「会いたかった、お香」
「あたしも……」
触れると、もう止められなかった。それは彼女も同じだったらしく、権蔵の求めを積極的に受け入れる。最初の夜よりも熱く、何度も重なり合った。
レンがメザシを綺麗に平らげ、長持の壁の上で丸くなった頃、二人は布団に横たわった。
「お香、聞いていいか」
権蔵の腕枕の上で頭が小さく頷いた。
「昔、人の噂で『朝香太夫は豪商に身請けされた』と聞いた。その豪商は、ここ嵯峨美屋のことだろう?」
コクリ、彼女は頷く。
「別の噂で『身請けされた太夫は亡くなった』とも聞いた。お前は生きているのに、そんな噂が流されたのは――その目のせいか?」
お香は頷かなかった。代わりに短く間を置いて、小さな声で話し始めた。
「ここに嫁いで一年も経たない冬だったわ。流行り病にかかって、数日高熱が出て……一命を取り止めたのだけれど、目が……」
「それで、この土蔵に閉じ込められたのか?」
「――尼寺に預けるという話もあったのだけれど、世間体が悪いからと……吉右衛門さんが」
「吉右衛門?」
「あたしを身請けしたご隠居の長男よ。今は嵯峨美屋を切り盛りしているわ」
半造の話にあった、博打狂いの馬鹿息子か。
「そいつが、お前をここに?」
「……ええ」
「ひでぇ話だぜ」
抱いた腕枕の上で、権蔵は彼女の閉じた両の瞼に口づけた。
「――権蔵さん」
「うん?」
「あたしもこの目と、この暮らしを恨んだこともあるわ。でも、今は感謝してる」
「感謝?」
驚いて間近の顔を見ると、お香は穏やかに微笑んでいる。
「お陰で、こうしてあんたに会えた。尼寺にいたら、お天道様には包まれても、あんたのこの腕に包まれることはなかったわ」
そんないじらしいことを言うものだから、権蔵は胸が熱くなって、また彼女を抱いた。
甘い吐息を繰り返す度、お香の白い肌が桜色に染まっていく。美しい華が広がるようだった。
「……ここから出たら、一日中離さねぇからな」
ぐったりと満たされた柔らかな背を撫でながら、権蔵もまた至福に浸る。
明け烏の声が、怖い。
また離れ離れになる朝が来なければいいのに――愛しい女の横顔をじっと眺める。
目尻に滲んだ涙の跡を指でなぞると、お香がくすぐったそうに微笑んだ。
「……権蔵さん、見て欲しいものがあるの」
「うん?」
「ちょっと……待ってて」
白い裸体が彼の腕を離れ、ゆっくりと鏡台に近づく。艶かしい動きは、少しばかりレンに似ている。
「これ、開けてみて」
彼女はすぐに小さな木箱を手に、布団へ戻る。
渡された飴色の木箱には、見覚えがあった。
「――お香、これ……まだ持っていてくれたのか」
蓋を開けた中に、無骨な海老錠と鍵が入っている。駆け出しの頃に、権蔵が初めて独りでこしらえた錠前だった。
「下手くそな造りだぜ」
照れた権蔵の手を探し、お香は自分の手を重ねた。
「あんたが初めてくれた贈り物、あたしの宝物」
鉄を叩いただけで飾りもない単純な造りの錠前は、錆がほとんど見られない。きっとお香が手入れしていたのだろう。
「時々、眺めたり、触れていたのだけれど、レンにもこれを見せたことがあるの。もしかしたら――それであんたになついたのかもしれない」
「はは……ちげぇねぇ」
犬と違い、猫の鼻が鋭いのか否かは分からない。だが、二人を結び付けたきっかけが、ガキの頃の贈り物だったかと思うと、権蔵は不思議な縁を感じずにはいられなかった。
その時、一番烏が遠くで鳴いた。
「……朝だわ」
悲し気な、お香の呟き。
権蔵も胸がギュッと締め付けられる。
「これから月が明るくなる。上弦の月の前に、もう一度来るが……その後は、しばらく会えねえ」
月明かりが強くなる程、人目に付く可能性が高い。会瀬が遠退くのは苦しいが、権蔵が万一お縄になっては元も子もない。
素直にお香は諦める。
「……ええ」
「次の新月までに、今の仕事を片付ける。約束だ」
男の言葉が熱を帯びる。強い決意が滲んできた。
「嬉しい。でも、余り根詰めないで。あたしは、大丈夫。ちゃんと待てるわ」
一言一言、幼子に言い聞かせるようにして、お香は微笑む。権蔵の頬に手を伸ばすと、彼女から唇を寄せた。
「来月の新月だ。闇夜が味方してくれる。お前を盗みに来るから、風呂敷包一つだけ準備しておいてくれ」
抱き締めた腕の中で、お香は震えた。感激が貫き、溢れる涙を拭わずに何度も何度も頷いた。
彼女の額に口づけて、権蔵は身を離した。自分の鉄鼠の着物を手に取り、帰り支度をする。
レンが染みた脂まで舐め取った藁半紙を畳んで懐にしまう。
草履を履いたところでレンが長持から滑り降り、彼の脛に軽く頬を寄せた。その頭をそっと撫でる。
――にゃあ。
白猫は機嫌を損ねることもなく、一声上げてお香の元に寄り添った。
「また来るぜ」
「気を付けて、権蔵さん」
別れの言葉を交わして、身を翻す。注意深く土蔵の外に滑り出し、錠前を掛ける。
その錠前を軽く撫でると、素早く塀を越えた。
月の無い夜明けはまだ暗く、太陽が昇る前には徳爺さんの家に帰り着くことが出来た。
瞼の裏にお香の姿態を描きながら、権蔵は幸福な眠りについた。