其ノ七
背中で扉がピタリと閉じた感触を確認して、息を付く。
漂う空気はしっとり冷えているものの、土蔵特有の停滞した淀みのようなものが感じられない。カビや埃の匂いすらないのは、窓が開けっ放しだからだろうか。
灰色に霞む薄暗がりの中、蔵の奥でボゥと柔らかい光が揺れている。女がいるのは、あの辺りか。
足を踏み出す前に、周囲の様子に目を凝らす。
半端なコソ泥風情なら、慌てて動き出してヘマをやらかすだろうが、権蔵くらい年季が入ると落ち着いたものだ。
通常土蔵の中では、棚や台が設置されていても、収蔵物は床に直接積み上げている。
長持を使用頻度や季節ごとに分け、整然と納めている蔵もあれば、雑多に積み上げただけの蔵もある。家人や使用人の性格が見事に反映されるのである。
しかし――権蔵はじっと眼前の空間を睨む。この蔵の中は奇妙だ。扉付近に広い空間を設けており、数歩先に長持が一間程度の高さで横一列に積まれている。ちょうど長持が、奥の空間との間仕切りの如く壁を作っているようだ。
――ふーっ!
間仕切りの切れ目――通路の部分に白い塊が見える。毛を逆立てて侵入者を威嚇しているのは――。
「……レンか」
権蔵は低く声を掛けた。塊はピクンと反応して、唸り声が止まる。
「――邪魔するぜ」
白猫の様子を見て、歩を進める。
レンは権蔵が近づいても警戒の声を上げず、脇をすり抜ける時も彼をジッと見上げたままだった。
長持の壁を抜けると、更にもう一枚長持の壁があり――その奥では、行灯が日だまりのような弱い光で周囲を照らしていた。
八畳程の空間に畳が敷かれ、文机と鏡台、長持、布団が見える。長持の横に隠れるようにして、桔梗色の着物に身を包んだ女が震えていた。乱れた裾から足袋を履いた白い足が覗いているところを見ると、どうやら幽霊ではないらしい。
「レン……どうしたの? どこ……?」
長い沈黙に耐えられなかったのか、女はか細い声を上げた。
権蔵の足元を疾風のように白猫が駆け抜け、彼女の元に戻る。
「レン、一体何があったの……?」
白い塊をいとおしげに抱えると、猫も甘えて喉を鳴らす。
暗がりに立っているとはいえ、女が目の前の権蔵に気付いていないのは、どこかおかしい。
「――お嬢さん」
権蔵は声を落とした。怯える女をこれ以上驚かせないように気を遣ったが、彼女はヒッと声を上げ、身を縮めた。
「勝手に入り込んじまってすまねぇが……アンタに害を加える気はねぇ」
「あ……貴方は、誰です? どうして、ここに……?」
声を掛けたにも関わらず、彼女は権蔵を見ようとしない。レンを抱きしめ、俯き加減に震えている。
「ちょいと、端に邪魔するぜ」
草履を脱いで、着物の裾をパパッと叩くと、畳の端に胡座をかいた。
その気配に上げた横顔を見て――権蔵は女から受けていた違和感が腑に落ちた。
「お嬢さん――もしかして目が」
「貴方には関わりのないことです」
女は厳しく答えた。指先は震えているのに、毅然とした物言いだ。
――にゃあ。
「レン。え……この方が?」
耳打ちするように、白猫が女に囁いた。
ハッとして上げた容貌が行灯に照らされる。色白でほっそりした面長の美人。切れ長の涼しげな目元に、長い睫毛が影を落としている。白百合のような可憐な面持ちに、今度は権蔵が息を飲んだ。
年の頃は三十路に差し掛かったくらいだろうか。娘然とした若さの代わりに、女盛りの艶かしさが全身に馴染んでいる。
彼女がかつて太夫だったというのも頷ける話だ。
「俺は、その猫――レンを呼ぶ声を聞いて、無性にアンタの姿を拝みたくなっちまったんだ……」
情けない話――と、権蔵はことの経緯をかい摘まんで打ち明けた。
すくめていた身から緊張を徐々に解いて、女は居住まいを正した。
「……まぁ、私がもののけ……?」
昨夜のことに話が及ぶと、彼女はクスクスと表情を崩した。
形の良い唇が描く弧に、権蔵の目は釘付けになる。
「アンタは――レンの言葉が分かるんだろう?」
「この子は、あたしがこの屋敷に来て間もなく庭に迷い込んだの。まだ子猫なのに酷い怪我をして」
彼女の腕の中のレンは、くすぐったそうに目を細め、低く喉を鳴らした。
「……見えなくなってからは、外の世界の出来事を、毎晩教えてくれるようになったわ」
――にゃあ。
「ふふ……そうね」
二人にしか分からない言葉を何やら交わして、微笑み合う。その姿は、やはり妖艶で、どこか浮世離れしている。
「貴方は何者ですか? この蔵には鍵が掛かっているはずなのに」
問われることを覚悟していたが、それでも身を明かすのは躊躇われた。
「俺は――『娘師』でしてね」
「……娘?」
「土蔵破り専門の盗人でさぁ」
思わず自嘲する。卑屈に歪んだ表情を見られないことは幸いだと思った。しかし生業を明かしても、彼女の顔色は変わらない。
「……怖くねぇんで?」
「ええ。貴方のことは、レンが大丈夫と言うの」
当初の怯えはすっかり消え、安心し切った微笑みを浮かべる。
「俺は、気に入られるようなことはしてねぇぜ」
「ご馳走をくれたでしょう?」
女はレンを撫でながら、悪戯っぽく頬を弛めた。佇まいには、もはや余裕すら漂っている。
「あ、――いいや。最初の晩も、気付いたらソイツがすり寄って来ていたんだ」
一方の権蔵は、落ち着かない。女の一挙一動に目を奪われたまま、鼓動が徐々に騒がしくなる。
「まぁ……この子からなつくなんて」
彼女は酷く驚いた様子だが、権蔵はあまり気に留めなかった。蒲鉾の匂いを嗅ぎ付けただけだろう、と内心高を括っていた。
「お嬢さん。アンタの名前を教えてくれねぇかい。俺は源ってぇんだ」
当たり前のように、偽名を口にする。
「源さん……」
珠を転がすように、彼の名を一言呟くと、凛とした面持ちで姿勢を正した。
「あたしは嵯峨美屋朝香。お朝と呼んでくださいな」
「――――朝香、だって?」
耳を疑う。聞き返した声が、抑えられずに上ずった。
「……源さん?」
「まさか……アンタ――朝香太夫かい?」
「あら……ええ、懐かしい名をご存知ね」
彼女は、太夫が道中で観客に見せるような堂々たる笑みをにっこりと浮かべた。
それを見た権蔵は、畳に両手を付いて頭を垂れた。
「――すまねぇ……! 嘘を言った。俺の本当の名前は、権蔵だ」
「えっ?」
「錠前職人の権蔵だ、お香ちゃん」
見えない瞳を大きく見開いて、口元を両手で覆う。その手がわなわなと震え出した。眉間に一筋、驚愕が刻まれたが、そんな表情すら美しい。
「まさか……本当に――権蔵さん……?」
どちらともなく伸ばした指先が触れる。お香はビクンと引きかけたが、その細い手首を権蔵がしっかりと掴んだ。
いつも夢の中では、女衒に連れ去られる彼女の手は、いくら伸ばしても届かなかった。
「やっと――掴まえた」
青臭い初恋の気持ちなど忘れたつもりだった。時折、夢で甦った苦い思い出は、現実の女の肌で掻き消してきた。
手首を掴んだ腕に力を込めて、権蔵は彼女を抱き寄せた。フワリと涼しげな香の香が桔梗色の着物から広がった。
「……長い指。職人に向いているって言われていたわね」
お香は権蔵の手を取ると、自分の頬にそっと当てた。ひんやりとした滑らかな感触。それが程なく生暖かい液体に濡れる。
「すまねぇ……お前と夫婦を誓ったのに。お前を守ってやれなかった」
十代の青二才だった彼には、親方である父親に逆らうことが出来なかった。
今なら――駆け落ちする道もあったのに、と悔やまれる。
「あんたの両親に許嫁を解いてと頼んだのは、あたし」
権蔵の胸に身体を預けたまま、お香は首を振った。
「お父っつあんが良くない筋から金を借りていたことは知ってたわ。あんたに――あんたの職人としての将来に傷をつけたくなかったの」
「お香っ」
権蔵は堪えられなかった。年甲斐もなく顔中くしゃくしゃにして、腕の中の彼女に口づけた。
「権蔵さん……泣いて――」
乱れた呼吸の合間の囁きを、再び唇で塞ぐ。
拒まない彼女のうなじに指を這わせ、着物の帯を解く。名も知らぬ香に包まれながら、薄皮を剥ぐように丁寧に剥いた着物の中から、白磁のような裸体が現れる。記憶の中の清楚な許嫁とは違う、生々しく蠱惑的な女の姿態。
淡い恋など霞む程、溢れ出す愛しさに身が崩れそうだ。権蔵は、初めて女を知った夜のように、夢中で抱いた。彼女の吐息のひとつひとつが、肌に溶け、甘い媚薬となって、また夢中にさせた。
長持の壁の上から彼らを見下ろしていたレンは、ひとつ伸びをした後、その場で丸くなり目を閉じた。
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遠くで明け烏が鳴いた。
「――権蔵さん、夜が終わる」
彼の腕枕で身を寄せていたお香が、悲し気に囁いた。
数多の女と同衾したが、漸く満ち足りた温もりに浸ることが出来た。
権蔵は、唇をもう一度重ねて、身を起こす。
「俺は、今ちょっとばかし大きな仕事を受けている。なぁに、危ないヤマじゃねぇ。錠前造りの仕事だ」
自分の着物を羽織り、身支度を整えながらお香を眺めた。白磁は内から燃える熱情で紅が差し、桜色の頬が色香に染まっている。
「また、すぐに会いに来る。だが――錠前の仕事が片付いたら、俺と来てくれねぇか」
「……権蔵さん」
「真っ当な稼業じゃねぇが、危ない目には遭わせねぇ。約束する」
ゆるゆるとお香も身を起こす。布団代わりに敷いていた桔梗色の着物を掻き寄せ、器用に襦袢に袖を通した。
「あたしは、見えないのよ。あんたに迷惑を掛けてしまう」
「てやんでぇ。お前の世話が焼けるなんざ、至福の役得じゃねぇか」
「――――」
お香は大粒の涙を溢した。それが、承諾の返事だと理解した権蔵は、優しく抱きしめて額に口づけた。
「月の暗い内にまた来るからな」
二番烏が鳴いた。もう出なければ、人目に付いてしまう。
お香は大きく頷いて、権蔵の胸をグイと押し離した。
「待ってます。……気を付けて、権蔵さん」
――にゃあ。
長持からスルリと降りたレンも、彼女の膝元に寄り添って、彼を見送った。
「おう」
身を翻して、権蔵は土蔵の扉を細く押し開けた。
冷涼な早朝の風が一陣、吹き抜ける。
蔵の外はまだ暗い。深夜の闇色は薄れたが、辺りは藍染液の樽底に沈んだように、不透明な紺青色だ。
権蔵はサッと滑り出て、扉に手早く錠前を掛けた。
口元を小さく綻ばせ、武骨な海老錠をひと撫でする。錠前を破ってばかりの権蔵だったが、初めて宝物を蔵に収める側の気持ちが分かった気がした。
嵯峨美屋の塀を軽やかに越える。朝もやに包まれて微睡む町の中を、駆け抜けて家に帰り着いた。