其ノ六
一眠りして目覚めた権蔵は、汚れた風呂敷を洗い、熱い風呂を沸かした。
湯船にゆっくり浸かると、昨夜の失態が思い出される。
権蔵は、肝の小さな質ではない。なのに――どうしたことか、唐突に臆病風に吹かれてしまった。
土蔵に巣食うあやかしなのか、幽閉された姫君か――女の正体を確かめねば、気が散って仕事に身が入らないだろう。
日が暮れるまで時間はある。明るい内に、昨夜の土蔵を見てみようと決めた。
「お邪魔してやす、源さん」
風呂から上がると、居間に半造がいた。
親分に言い使って、握り飯と漬物を持って来ていた。壁にもたれた徳爺さんが、漬物を肴に酒を舐めている。
「いつもすまねぇな」
「いえ。……どうです、仕事の方は」
食い物の差し入れは口実で、目的は様子伺いだ。然り気無く探るような狡猾さのない、馬鹿正直な若者に権蔵は苦笑いする。
「難儀していたカラクリがひとつ、動くようになりやしてね……」
握り飯を鷲掴みで頬張る。その横で、半造は甲斐甲斐しく茶を入れた。
「ヒトヤマ越えたってとこですかね?」
「そうさなぁ……」
熱い茶を啜り、一息付く。権蔵はサッと頭を働かせる。
「一歩進んだくれぇかな。まだヤマは先でさぁ」
ポリポリと漬物をかじる。納期まで、この先何があるとも限らない。下手に好調を口にして期待を持たせてもいけない。経験上、そこは慎重だ。
「難しいモンなんですねぇ」
素直な若者は、神妙な面持ちで自分も茶を啜る。
「――半造さん」
「へぃ?」
「この後、ちぃっと暇はありやすかい?」
きょとんとした若者に、軽く頭を下げる。
「足りない工具がありやしてね、買いに出ようと思ってたんです。この界隈の案内を頼めやせんか?」
半造は得意気に歯を見せると「お安い御用で」と頷いた。
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工具の買い出しは、もちろん口実だ。
女が暮らす土蔵について、情報が欲しかった。
「この辺りは、呉服屋とか小間物屋なんかばかりでしてね」
連れ立つ半造は、ここは何屋で女将さんが若いとか、あそこは最近繁盛している、等と聞いてもいない噂話まで語ってくれた。
へぇ、ふぅん、と聞いていた権蔵は、辻に面した大店の前で足を止めた。瓦屋根の奥に白壁の土蔵がチラリ覗いている。――ここだ。
「――源さん?」
半造が訝しんで振り返る。
「ここは……嵯峨美屋さんというのかい」
「ええ……女物の小間物なんかを扱ってやすが……」
興味を持った権蔵と店構えをチラチラ見比べて、不思議そうな顔をした。
「この界隈でも一際大店だねぇ」
「いや、ここだけの話、商売の勢いは先代まででしてね」
「へぇ?」
「隠居した先代の時分は繁盛してやしたねぇ。だけど先代が花街に入れ込んじまっている内に、息子に商売の舵をすっかり取られちまったって話で」
「しっかりした息子じゃないか」
「いや、それがねぇ源さん」
半造はグイと一歩近づき、声を潜める。
「親父が色ボケなら、息子は博打馬鹿でさぁ」
彼はニヤリと口元のシワを歪める。
「親分の賭場のいいカモでしてねぇ」
なるほど。権蔵はゆっくり頷いて歩き出した。
「屋台骨が傾くのも遠かねぇって話かい」
半造は、へへへと小さく笑った。
「先代の花街通いは、まだ続いているのかねぇ」
噂話の余韻のように呟いてみる。
「いや――何年か前に太夫を身請けして、花街通いは終わったそうですぜ」
平静を装い「ほぅ」と答えてみるが、権蔵は確信する。あの女だ。身請けされた太夫は、土蔵暮らしの女のことに違いない。
「ですがね、身請けされて間もなく、女が亡くなったとかで。先代も気落ちして、床に伏せた切りだとか。嵯峨美屋が傾き出したのも、ちょうどその頃からですねぇ……」
太夫を買うには大金が必要だ。だから太夫の別名を『傾城』という。それを身請けするとなれば、膨大な金子が動いたろうに。
しばらく歩いて道具屋に寄り、太さの異なる鏨を二本買った。
権蔵は、遠慮する半造を強引に蕎麦屋に誘い、案内の礼に冷や酒を馳走した。彼自身は蕎麦を食い、半時程世間話をしてから店の前で別れた。
茜色に染まる空を眺めながら、権蔵はひとまず帰路につく。
土蔵の女が生者か死者か――謎は益々深まってしまった。
やはり、更けてから土蔵を訪ねなければ収まらないようだ。
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白猫の導きなしに嵯峨美屋の土蔵の前に立つ。
雲の多い夜だ。雨雲ではないようだし、忍び込むには好都合の闇夜だ。
日が変わる前に、権蔵は塀を乗り越えた。土蔵の周りの様子に、彼は奇妙な感覚を抱いた。まるで嵯峨美屋の母屋から隔絶するかのように、生い茂った庭木に囲まれている。しかも裏庭を挟んで、母屋の近くには別の土蔵が建っている。豪商であれば敷地内に複数の蔵を持つことは珍しくないが――こんな不便な配置はしまい。目の前の土蔵だけ、わざわざ生活の場から切り離しているみたいだ。
ひとしきり確認を済ませると、レンが現れることを見越して草影に身を隠す。
時折、涼しい夜風が吹き抜ける。秋の虫の音も随分疎らになっていた。
「――――レン」
女が白猫を呼ぶ。権蔵は一層気配を潜める。
「――レン」
――にゃあ。
鋭く答えたかと思うと、白い影が毬のように跳ねて塀の外から飛び込んできた。
そして器用に側の庭木をよじ登り、明かり取りの窓から土蔵の中に消えた。
「レン、今夜は風が強いわね」
――にゃあ。
「大丈夫、寒くはないわ」
草影から、そっと土蔵の側に立つ。
レンのひと鳴きが何を語っているのか、相変わらず権蔵には分からないが、女とは会話が成立している。
――にぃ。
「まぁ、近江屋さんにお子さんが産まれたの? それは嬉しいでしょうね」
――にゃあ。
「えっ、近江屋さんの番頭さんがお縄に? 塞翁が馬とは言うけれど……皮肉なことねぇ」
――にぃぃ。
同意するようにレンが鳴く。穏やかに彼女らの会話は続いている。
――そろそろ、始めるか。
権蔵は、心を決めて土蔵の扉の前に立つ。本業の仕事道具――先が弛く曲がった細長い火箸くらいの長さの鉄棒と、数本の細い釘を指先に掴んで、扉の解錠を始めた。
金属が触れるカチ……カチという音が、掌の中で小さく漏れる。風に紛らせながら極力音を殺して作業するが、中の女達の耳に届いていないという確信はない。
――カチャン
小さな溜め息を付いて、海老錠が開く。
ごくりと唾を飲んで、権蔵は扉を静かに引いた。内側に素早く身を滑らせ、扉を閉じた。