其ノ五
真夜中の気分転換が効いたのか、権蔵の集中力は増したようだった。
半月程悩まされていた跳ね板の微調整に成功し、部品が上手く噛み合うと――面白いようにカラクリがすんなり動くようになった。錠前造りは、一歩前進したのだった。
借りた器を蕎麦屋に返す口実で、権蔵は深夜に家を出た。
あれから一週間経っている。今夜も月のある晩だが、ほとんど半分に割れた月は、夜更けになって漸く空に顔を覗かせた。
通りは暗いものの、彼は夜目の利く方だ。足元にくっきり影を作るような明月夜より、月影に身を潜ませられる闇夜の方がむしろ落ち着く。盗人の性だろうか。
「今日は五枚、貰えるかい」
この前と同じ橋のたもとの夜鷹蕎麦で掛け蕎麦を食い、蒲鉾で一杯やってから、持参した器を示した。
蕎麦屋のおやじは、取り出しかけた蕎麦の器を置いて、権蔵が持ってきた丸い深皿に蒲鉾を五枚乗せた。
屋台を出て、堀沿いをゆっくり歩く。
表通りに繋がる三叉路の広い交差点に差し掛かった時、彼の期待は不意に現れた。
「……レン」
塀からピョンと地面に飛び降りた白い影に向かって、名を呼んでみる。
白猫は応えず、ツンとすました金色の瞳で権蔵を認めると、当たり前のように彼の元まで来て、腰を下ろした。中々に傲慢な態度だが、それすらこの気品ある生き物には許されている気がした。
「また会えたな」
向き合って、その場にしゃがむ。風呂敷を少し開いて、権蔵は蒲鉾を彼女の前に置いた。
何故だか警戒心のない白猫は、鼻を近づけてすぐに食い出した。
旨そうに夢中になっている有り様が、気持ちを和ませる。
彼女の程よく筋肉質な四肢や毬のような背の丸み、綺麗な桃色の耳の中、ピンと手入れされた髭――、権蔵は珍しい細工物でも眺める心持ちで、隅々まで堪能する。
蒲鉾は、あっという間に消えた。食後の儀式の如く、彼女が優雅に髭を撫で付け、前足を舐める仕草に感嘆した。
「――――レン」
――にゃあ。
この前と同じだ。
女の細い呼び声に応え、白猫はパッと立ち上がる。
――どこの屋敷だ?
今度は権蔵もすぐに反応した。
暗闇に溶ける白い尾を追う。素早く駆けた先に、彼の胸の高さ程の塀が立ちはだかるが、彼女は一瞬背を弓なりにしただけで飛び越えてしまった。
刹那、権蔵は躊躇したが、風呂敷を暗がりに置いて、塀に手をかけた。ヒラリ……白猫のように身のこなし軽くとはいかなかったが、程なく乗り越えた。静かに塀の内側に降り立つと、慎重に辺りの様子を伺う。
神経がピリリと張り詰める、こんな雰囲気は嫌いじゃない。しばらく成りを潜めていた盗人の血が全身を巡り始めたのだろう。
「……レン。あら……この前と同じ香り。ご馳走を貰ったの?」
――にゃあ。
「貴女を気に入った人がいるのね……」
呼び声の主と思われる女と、白猫の会話が古い土蔵の中から漏れ聞こえる。
足音を殺して近づく。石積みの表面を漆喰で塗り固めた強固な造りだが、彼の頭上――地面から八尺程の高さに明かり取りの小さな窓が開いている。ちょうど猫ならくぐり抜けられる大きさだ。
「……そう、三河屋の奥様、まだ伏せていらっしゃるの。心配ねぇ」
――にゃおぅ。
「まぁ、大黒一座の新作に行列ができているの?」
――にぃ。
「お芝居なんて、もう何年も観てないわ……。あの頃は、禿や新造の子達と着飾って出掛けたものよ。楽しかったわ」
――にゃあ。
「ふふ。大丈夫、もうここでの暮らしも慣れたわ。優しいわね、貴女は」
――にゃーおぅ。
どうやら女は、この土蔵の中で生活しているらしい。どういう事情か見当も付かないが、かつては華やかな――花街の、しかも位の高い女性だったに違いない。それを証拠に、彼女が口にした『禿』や『新造』とは、太夫の世話役の若い娘を指す言葉だ。
「それにしても……こんな夜更けに貴女にご馳走をくれる人は、どんな人なのかしら?」
――にゃあ。
権蔵はドキリとした。
甘えるような低い猫の鳴き声が、自分の何を伝えているのだろう。
「……あら……そうなの」
楽しげに問い掛けた女の声音は、白猫の応えを聞いて、少し戸惑ったようだ。
おいおい……何て言いやがったんだ?
権蔵には猫の言葉は分からない。いや、分かる方が普通じゃない。
全身を耳にして、女の言葉を拾っていた権蔵だったが、だんだん薄ら寒くなってきた。
一体、土蔵の中の女は、何者なんだ? 猫に通ずる……もののけか?
一瞬、丑三つ時のあやかしではないのかと疑いを持つと、もうその観念が頭を縛って離れない。
彼女らに気付かれないよう、権蔵は来た時よりも更に慎重に気配を殺して土蔵を離れた。
塀に手を掛け、静かに乗り越える。通りに身を傾けた時、すぅ……っと夜風がうなじを掠めた。
ひぃと喉まで上がった驚声を飲み下し、急いで塀の外に降りる。
ガチャン――!
運悪く、自ら隠して置いた風呂敷包を踏んでしまった。眠りに沈んだ静寂を、異質な響きが震わせる。土蔵まで届いたかもしれない。
風呂敷包を引っ付かむと、権蔵は一目散に逃げ出した。割れた皿が音を立てないよう、胸の辺りに抱えて走る。
――畜生め! 土蔵破りの時だって、こんなヘマはやらかしゃしなかった!
腹の中で毒づきながら、暗がりの通りを駆け抜ける。
息が上がった頃には、油汗は単なる汗に変わっていた。
……こんな酷い風体を人様に見られちゃなんねぇ。
東の空が白み始めている。
権蔵は、風呂敷の中から割れた皿と蒲鉾を堀に捨て、とぼとぼと徳爺さんの家に引き返した。
この前の朝帰りとは異なり、脱力感に似た疲労で全身がずっしりと重く、風呂に入る余力すら残っていない。
台所で水を二杯流し込み――ばったり畳の上に倒れ込んでしまった。
暁風にお鈴の風鈴がコロコロと鳴った。他の女に現を抜かした権蔵の失態を嘲笑うような音色だったが、幸い彼の耳には届かなかった。