其ノ四
錠前造りに没頭する日々が続いた。
女っ気のない男所帯を気遣ってか、飯時になると七兵衛達が入れ替わり立ち替わりやって来ては、握り飯や冷や汁なんかを差し入れてくれた。
「結局、女の手がなくちゃ仕事になんないでしょ」
仕事を始めて十日程経った、午後。
篭屋の威勢のいい声が近づいたかと思うと、突然お鈴が現れた。
艶やかな遊女の着物ではない。町娘さながら、茄子紺に白い縦縞の涼しげな紬だ。素朴で庶民的な柄だが、すっきり着こなした後ろ姿には、やはり町娘にはない花街の粋が漂っている。
「水仕事なんかさせちまって……親分に叱られやしないかい」
驚く男達を前に、持参した食材を台所に運び込むと、お鈴は手際よく夕食をこしらえた。
ふふふ、と楽しげに微笑んで振り返る。
「あたしが辰の親分に無理言ったのさ。たまには精のつくものを食べてもらわないとねぇ」
意味深に口角を上げて、彼女は炊き上がった白米を茶碗に盛り上げた。
漬物や干物は、ちょくちょく子分達が運んでいたが、手料理は久しく口にしていない。
しかもお鈴は、ここに来る途中の屋台で鰻の蒲焼きを買って来ていた。旨そうなタレの匂いに腹が鳴る。
クスッと笑んで、白米に漬物、鰻、彼女がこしらえた大根の味噌汁が乗った膳を権蔵の前に置く。
「はは……すまねぇなあ」
「さ、たんと食べとくれ。徳さんも――酒は足りてるかい?」
持ってきた酒徳利を渡されて、徳爺さんは鰻を肴に一足先に飲み始めていた。
「ああ、ワシにまですまねぇな」
「いいんだよ。さ、もっと飲んどくれ」
お鈴は徳爺さんに酌をする。爺さんの酒量は相当進んでおり、権蔵が夕食を終える前にすっかり寝入ってしまった。
「……ふふ、やっと水入らずになれたねぇ」
スッと権蔵の隣に寄り添うと、お鈴は彼の左手に触れる。長い指に、自分の指を重ねて科を作った。
「おい、親分に叱られちまう」
「なんだい。あたしは親分のモノじゃないよ。あんたに――会いたかった」
慌てる権蔵の手の甲をちょっとつねる。言葉は怒ってみるものの、睨み上げた眼差しは艶かしい。
夕食膳と徳爺さんを居間に残したまま、お鈴は権蔵に絡みつき、奥の間で重なった。
夏の熱を忘れる程の一夜を過ごし――朝方、お鈴は辰次郎が寄越した篭に乗って帰っていった。
昼過ぎに権蔵が起き出すと、居間はきちんと片付けられていた。そればかりか、次の食事のために飯と汁物が作ってあった。
――チリ……リ……リン
いつの間にか縁側に吊るされていた風鈴が、風に鳴く。
床の耳元で聞いたお鈴の含み笑いに似た、甘い響きだった。
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油蝉が蜩に替わる頃、図面を元に鉄を打ち始めた。
只でさえ繊細な構造の錠前に、偽物の鍵穴が付いたカラクリを施したため、なかなか思うようにはかどらなかった。
バネが途中で引っ掛かって動かなくなったり、カラクリが機能せず本物の鍵穴が現れなかったりした。
爪程の僅かな厚みのズレが全てを狂わせる。削り、叩き、部品を幾度となく造り直した。
鍛冶仕事に入ってからは、昼夜逆転の生活になった。
夕刻起き出すと、飯を食ってから工場に入り、明け方までひたすら鉄を相手にする。
朝日が昇る中、水風呂で身体の熱を抜いて、冷や飯を掻き込んで、寝る。
体力も神経もすり減らす作業が続くと、差し入れに来たお鈴を抱く気力すらなかった。そんな権蔵の有り様を目にしたお鈴も諦めたのか、台所で煮物を作って帰っていった。
蜩もだんだん途切れ、時を早めた宵が秋の虫を深めていく。
しばらく錠前造りから離れていたとはいえ、予想以上にカラクリに手こずっている。
――腕がなまっちまったか。
思いたくは無いが、構造は頭に入っているものの、組み立てが上手くいかない。
その晩は、月が綺麗だった。
権蔵は、鍛冶仕事を休むことにした。ここの所、根を詰めていた。たまには気分転換も必要かもしれない。
昼夜逆転で、日が沈んでから目が冴えてくる。
徳爺さんは、昨日七兵衛に誘われて賭博に出掛けたまま、帰ってきていない。
夜鷹蕎麦の呼び声が遠くに聞こえる。
小銭を懐に、権蔵は家を出た。
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堀を渡る橋のたもとに出ていた蕎麦屋の屋台で掛け蕎麦を啜る。
五十代後半に見える小柄なおやじは無愛想だったが、夜半近くに出歩く訳ありな客相手にはちょうど良いのだろう。
蒲鉾を肴に冷や酒を一杯やった。帰り際、更に四枚蒲鉾を買った。翌日の飯の惣菜にしようと思ったのだ。入れ物がなかったので、おやじに頼んで蕎麦の器を借りた。器の借り賃に、と十文払うとおやじはもう一枚蒲鉾を入れてくれた。それを風呂敷に包んでぶら下げる。商家が並ぶ裏道を堀に沿ってそぞろ歩く。
徳爺さんの家に来てから、もうすぐふた月になる。
辰次郎親分には、年内にこしらえると約束したが――過信だったろうか。
頭上で黄金色に輝く丸い月を見上げて、小さく息を付いた。
――にゃあ。
「……お、なんだ、お前。いつの間に」
足元にフワリと柔らかい温もりを感じて、権蔵は驚いた。
風呂敷を下げた左足の近くで、白い雌猫が人懐こくすり寄っていた。
「ははぁ。旨いモンは分かるんだな」
権蔵は目を細めてしゃがむと、今しがた買ってきた蒲鉾をひとつ、器から摘まんで猫の前に置いてやる。
どうせおやじの好意のおまけだ。その好意を、この小さな生き物に分けてやってもバチは当たるまい。
白猫はしばらく匂いを嗅いでいたが、すぐにパクりと食いついた。
「旨いか。形は違うが魚だからな」
猫の背を撫でたい衝動に駆られたが、そこは初対面同士、適度な遠慮も必要だろう。
夢中で食む白猫の様子が愛らしい。寝ても覚めても錠前のことで頭の中は一杯だった。彼女の無邪気な仕草を見ていると、抱えていた焦燥感や苛立ちがスルリと解けていく気がした。
掌程の蒲鉾は、あっという間に腹の中に消え、白猫は名残惜し気に前足を桃色の舌で舐めている。
「――――レン」
夜風に紛れて、微かに細い声がした。女の声だ。
白猫はピクリと片耳を動かして、ピンと姿勢を正す。
「――レン……?」
――にゃあ。
呼び声にはっきりと応えると、白猫は腰を上げた。長い尾をゆらりとたゆらせ、しなやかに身を翻す。つられて立ち上がった権蔵の視界の端で、一度彼を振り返り、それからピョンと塀の上に飛び乗って、その内側に姿を消した。
月明かりの中で出会った白猫は、そこらでゴロついている野良猫とは違う品の良さを感じた。
『レン』と呼ばれていた。あれが彼女の名なのだろう。
うーん、と伸びをして、権蔵は再び風呂敷を手に歩き出した。
小一時間程、辺りをぶらつく。大店が多いせいか、古い土蔵が目に付いた。
――あれは、狙い目だな。こっちは、母屋に近すぎる……。
知らず破り易さを値踏みしていた。職業病、とでもいうのだろうか。思わず苦笑いが零れる。
程よく身体に気だるさが溜まった所で、徳爺さんの家に引き返した。
東から徐々に闇が散っていく。瓦屋根の彼方の空が微かに青い。夜が終わりを告げている。
権蔵は温い朝風呂に浸かると、布団も敷かずに畳の上で大の字になって寝た。