其ノ二
土蔵から盗み出した茶碗は、権蔵の期待を裏切らない額の金子に姿を変えた。
その金で古着を買うと、着替えて花街へ向かった。
まだ日は沈み切っていなかったが、熱い風呂に浸かり、酒をたっぷり浴びて、面長の女を抱いた。
睦事が済むと、権蔵は煙管を一服した。行灯の仄かな明かりの中に吐き出した煙が一筋広がり、天井の闇に溶けていく。
「……お前、お鈴といったな」
「ええ……」
女盛りをやや過ぎた色白の女は、権蔵をすっかり気に入ったのか、枕を並べた床の中で熱の残る肌を殊更に密着させている。
「この界隈は……長いのか?」
「……なんだい、あたしの歳を探ろうってのかい?」
女は拗ねたようにわざとらしく背中を向けた。
「いいや。お前の歳なんて――」
権蔵は煙管を置くと、女を背後から抱えるように腕を伸ばして乳房を撫でる。ビクン、と女が身を震わせる。掌に伝わる感触は、十代にみられる瑞々しい張りは失われているものの、まだ吸い付くように柔らかだ。
「……この肌が教えてくれるだろう?」
身をくねらせて女は振り返る。うっとりと弛んだ笑みを浮かべたまま、唇を寄せてきた。
権蔵は、紅が薄らいだ桜貝のような唇を塞ぐと、もう一度肌を重ねた。
「……お鈴」
「――なん……だい?」
権蔵に骨抜きにされた女は、乱れた息を荒くつきながら甘い声で答える。
「この辺りで、最近開いた店はあるかい?」
「……たな?」
トロリと焦点の定まらない瞳を権蔵に向ける。女はまだ夢見心地の様子だ。
「ああ。この一年くらいの間に開いた店があったら教えてくれないか」
「……そうさね……老舗の井筒屋さんの次男が、暖簾分けで、春先に呉服屋を開いた、って聞いたよ」
「へぇ……井筒屋さんの次男坊が、ねぇ」
権蔵は腕を伸ばして煙管を掴んだ。煙草葉はすっかり灰になっていた。
――カツン。
灰を落として再び葉を詰めると、布団から半身を起こし行灯から種火をもらう。
「あんた、流れ者風情を気取っているけど、旅の人じゃないね?」
「うん?」
「この手――この指は職人のものだよ」
自分を抱いた男の手を取ると、お鈴はゆっくりと指を絡めた。
「……分かるのか」
ふふ、と女は薄く笑う。
「あたしも、昔は職人の娘さ。こんな長い指の男は器用で――女泣かせに決まってる」
絡めたままの指に、手の甲に、何度も口づける。いとおしげに繰り返す様子を、権蔵は静かに眺めていた。
――お香も、こんな風に数多の男の腕に堕ちたのだろうか。
花街に売られて半年も経たぬ間に、長屋にはお香の噂が流れてきた。
元々評判の器量良しだった彼女は、あっという間に売れっ子の遊女になり――一年後には太夫になっていた。
権蔵は一目会いたいと、真面目に働いて金を貯めた。しかし、太夫を一晩独占する大金など、二十歳前の若者が稼ぐことは到底無理だった。
錠前職人として、一人前の仕事を任されるようになった二十一歳の冬。
『朝香太夫』と呼ばれるようになったお香は、豪商の旦那に身請けされたと風の便りに聞いた。相手は父親よりも歳の離れた五十に近い男やもめで、彼女の前にも数人『前妻』がいたらしい。嫁ぎ先の商家では、彼女より歳上の『前妻』の息子達が商売を仕切っており、若い嫁は隠居爺の慰みに囲われたのだ――と噂された。
「……買われたようなもんだ」
呟いて、煙管を吸った。渋い煙を味わうと、苦い嘆息と共に吐き出した。
隣の女は、細い指先で包み込んだ彼の手を乳房の間に抱いたまま、いつしか眠りに落ちていた。
――この女も、似たり寄ったりの身の上か……。
情は沸かないが、胸の奥から哀れみが漏れる。
しばらくこの宿に逗留するつもりだ。その間は俺が買ってやろう。
最後の一服を吸い終えると、権蔵は煙管を火鉢の縁に引っ掛け、それから行灯を吹き消した。
明かりに追いやられていた闇が、天井の四隅からゆっくりと染み出して、横たわる男と女の上に広がった。
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「あんたは、何の職人なんだい?」
すでに日は高いが、お鈴は権蔵の側にいた。
普通、客が払う花代は一晩を共にするための対価で、朝日が昇ると送り出されるのが習わしだ。
旅立つ行く先も、帰る家もない権蔵は、当面女郎宿に身を置くため、宿を切仕切る中年女に少なくはない金を掴ませた。お鈴の花代に色を付けると、喜んで彼女を貸出した。
それどころか、頼んでもいない朝飯や酒を運び入れてきた。中年女は、気前よく金を前払いした権蔵を上客と見なしたらしい。他の店に流れぬよう、すこぶる歓迎振りだ。
お鈴は、肩から胸まではだけていた襦袢をスッと合わせて、冷えた徳利から権蔵の猪口に酌をした。
「――錠前だ」
「へぇ……そりゃあ、こじ開けるのが得意な訳だねぇ」
紅を塗り直した唇が、意味深に弧を描く。
権蔵は答えず、漬物を肴に酒に口をつける。
「時に――源さん」
女は声を潜め、上目遣いに顔を覗き込む。『源』とは権蔵が名乗った偽名だ。
権蔵は薄化粧の女の顔をチラリと見遣る。
「辰次郎って親分――知ってるかい?」
「いや……」
「この近くの賭場を仕切っている男でね、腕の立つ娘師を探しているって噂さ」
権蔵の眉間に浅く溝が刻まれる。お鈴が顔色の変化を観察しているはずだ。
『娘師』とは、裏稼業の隠語で『土蔵破り専門の盗賊』を指す。
漆喰を塗った白壁の土蔵は、白粉をはたいた娘に喩えられ、頑丈な錠前に守られた土蔵を破ることは、身の固い娘の操を奪う行為に形容された。
「お前……」
「気になるなら、仲を取り持ってやってもいいよ」
女は涼しい笑みを張り付けた澄まし顔で、空いた猪口に酒を継ぎ足した。
堂々とした物言いをみると、辰次郎親分とも情を通じているのかもしれない。
――遊女の人脈、か。
哀れんだ女の強かさに腹の中で苦笑いして、グイと冷酒を煽る。
「お鈴」
朝飯の膳を隅に押しやり、権蔵は襦袢姿の女の腰を抱き寄せた。
あら、と小さく笑って、彼女は手にしていた徳利を膳の横に並べ――そのまま男の胸板に倒れ込んだ。
昼間の熱に汗ばんだ肌を更に火照らせて、敷いた切りの布団の上で重なった。
窓に下ろした簾の隙間から、温い風が緩やかに吹き込む。軒下に吊るした風鈴が一つ、夏の午後の気だるさに吸い込まれていく。
宵の前にお鈴は禿を呼び、伝言と柘植の櫛を渡して、使いに出した。
辰次郎からの返事が来たのは、その晩の夜半過ぎのことだった。