其ノ十五
手にしたカラクリ錠に目を落とした切り、吉右衛門は口を真一文字に結んでいる。
パチ……パチと、火鉢の中から聞こえる炭の呟きが、辛うじて静寂を拒んでいた。
「あの恐ろしい辰次郎親分が、貴方様に寛大なのは――こちらの蔵に、お宝がたんまり眠っているからだ、と聞いておりやす」
動揺を煽るが如く、権蔵は吉右衛門の秘密を指摘する。
「ど、どこで、そいつを?」
高音が震えてかすれた。もはや否定すらできていない。
「へへ……人の口に戸は立てられませんぜ」
火鉢の熱のせいではない。吉右衛門の額に、嫌な脂汗が吹き出していた。
「土蔵の中のお宝どもが、貴方様の首を繋いでなさる。仮に――それらがお宝でなかったら」
「なっ、何を!」
立ち上がりかけた吉右衛門を、権蔵は両手で制した。
「仮、の話ですぜ、吉右衛門さん?」
仮定などであるものか。この男は、知っているのだ。虎の子として土蔵に眠る『お宝』が、どれもガラクタだということを。
「あ……アンタは、それを誰かに……」
権蔵は、ゆっくり首を横に振る。
「あっしは、嵯峨美屋さんに恩がありやす」
小さな瞳を一杯に見開いて、吉右衛門は火鉢ごしの男を凝視する。
言葉では口外しないと答えても、もはや安堵などできやしない。吉右衛門は、真綿で締め上げられるような息苦しさを覚えた。
「吉右衛門さん」
小さく震える手を一蔑してから、権蔵は静かに続けた。
「ソイツの納品期限は今夜でやす。あっしは、辰次郎親分から金子をいただいて、江戸を出るつもりでやした」
スッ、と一尺程畳の上を後逡りすると、権蔵は土下座した。
「どうぞ……あっしの代わりにソイツを役立ててくだせぇ」
「ご、権蔵さん?」
崖っぷちまで追い詰めておきながら、突然差し伸べた手を握れと言われたようなものだ。吉右衛門の躊躇も然るべきである。
しかし吉右衛門は、己の立つ崖の脆さも心得ている。差し出された手を握る他、この窮地から助かる術がないことも。
「やっと恩返しすることができやす。お願ぇしやす、吉右衛門さん」
着物の袖で額の汗を拭くと、吉右衛門は大きく息を付いた。
一か八か――。
吉右衛門は、この局面、勝負に出ることにした。
「本当に……いいんだな」
「もちろんでさ」
「分かった。有り難く頂戴しよう。早速、開け方を教えてくれないか」
権蔵は畳から顔を上げた。それから「失礼しやす」と吉右衛門の側に進み出ると、カラクリ錠を器用に動かし本物の鍵穴を出して見せる。
「この突起を、こう……捻って、この部分に」
――カチャン。
素直な金属音が、鍵の動きに応える。頑なに閉じていた掛け金が開く。
「……見事なものだ」
先ほど、びくともしなかったことを知っている吉右衛門は感嘆の賛辞を贈る。
「それじゃ、次は貴方様が」
「あ、ああ」
権蔵ほど器用ではない吉右衛門だったが、カラクリ錠の開錠方法を覚えるのは、さほど苦労はなかった。
複雑な造りの錠前だが、やり方とコツさえ掴めば何ということもない。
「約束は、亥の刻。今夜は常盆はありやせんので、親分はいつもの船着き場に居やす」
「分かった。支度して、すぐに届けに行くことにしよう」
海老錠と鍵を木箱に収め、吉右衛門は目の前の訪問者に向かって、居ずまいを正した。
「有り難う、権蔵さん。床に伏せている父の分も礼を言います」
善右衛門が眠った切りということは、世間には隠されている。「最後に、一目、お礼を」などと言い出される前に釘を刺しておく。
「いえ。これで、思い残すこたぁありやせん」
権蔵は、何故か不吉な言い回しをした。
敵か味方か分からない相手と今生の別れになることはやぶさかでないが、その相手が思いがけず神妙な面持ちをしたことに戸惑った。
「妙な言い方はよしてくださいな」
吉右衛門の苦笑いすら意に介さず、権蔵は真顔でスッと立ち上がった。
「じゃ、あっしはこれで。失礼しやす」
一礼して、廊下へと姿を消した。通された順路を記憶しているのか、迷いない足音が遠ざかって行った。
残された吉右衛門は、しばし木箱を見つめていたが、炭火の爆る音に我に返ると、立ち上がって部屋を出た。その手に木箱を確と握り締めて。
-*-*-*-
権蔵の思惑通り、吉右衛門は動いた。
火鉢の始末と、客人についての口止めを松之助に申し付けると、自身は鉄鼠の羽織に袖を通して、闇の深まった通りを小走りに駆けて行った。
その姿を塀の陰から見送ると、権蔵は嵯峨美屋の裏手に回る。
爪痕のような細い月さえもはや無く、澄んだ空には星明りだけが瞬いている。
ふぅ、と付いた息が微かに白い。権蔵は両手に息をかけると、嵯峨美屋の塀を乗り越えた。
足音を消して崩れた土蔵跡に行き、いつものように両手を合わせる。
「――権蔵さん」
吐いた息より確かに白い煙が集まり、白猫姿のレンになる。
「お前……その姿は」
「ふふ。もうお役目は終えましたから。朝香様の形をお借りすることもないでしょう?」
レンを通じて、幻でも愛しい女の姿に会える喜びがあった権蔵は、内心嘆息した。しかし、そんな心情を見透かしたように、レンは金色の瞳をキラリと光らせた。
「吉右衛門が出かけましたね」
いつも腰掛ける、お決まりの瓦礫に腰を下ろすと、隣の大石にレンも鎮座した。
「ああ。どっちに転んでも、辰次郎親分のことだ。生きて帰ぇしやしめぇ」
「ふふ……見てましたよ。役者でしたねぇ」
「てやんでぇ。俺ァな、アイツに会うためなら、鬼にでも夜叉にでもなるぜ」
照れ隠しに言い捨てた権蔵を見て、レンはゴロゴロと喉を鳴らさんばかりに目を細めた。
「それよか、お前の首尾はどうなんでぇ」
善右衛門を脅すよう指示した張本人としては、気がかりなところだ。
「それがですねぇ……アタシ、ちょっとやり過ぎちゃったみたいなんです」
白猫は弱ったように、少し身体を縮めてみせる。
そして、潰された善右衛門が未だ目覚めぬことを告げた。
「……へっ、構わねぇさ。目覚めた時にゃ、取り返しが付くめぇ。後の祭りってこった」
ニヤリと口元を歪めた権蔵は、手を伸ばしてレンの頭を優しく撫でた。
堪らず「ニィ」と喜声が漏れる。
「ありがとう、権蔵さん」
ピン、と姿勢を正し、金色の双眸が真っ直ぐに見つめ返す。
「アタシ独りじゃ、こんな芸当できやしなかった。こんな――小気味のいいことはありません」
お香を想って、もののけに身を堕した小さな魂がいじらしい。
権蔵は両手を伸ばして、レンをそっと膝上に招いた。一瞬、戸惑った後、彼女は柔らかな姿態を権蔵の腿の上に預ける。
実体を持たない白猫は、体温も体重も感じないが、存在を確かに伝えてくる。
「もういいぜ。お前はもう、憎しみに染まるな」
慈しみを込めてその背を撫でると、レンは哀しげに「にゃあ」と低く鳴いた。
そのまま、しばらく優しい沈黙が流れる。権蔵はレンを撫でながら虚空に瞳を投げ、お香の姿を思い描いていた。
この場所で、お香とレンが会話していたことが懐かしい。土蔵での日々、彼女の途方もない孤独を、レンがどれ程癒してくれたことだろう。
それに、権蔵が彼女と再会を果たせたきっかけも、レンだ。改まって口にしないものの、権蔵は深く感謝していた。
「……あ!」
徐に身を起こしたレンが、ピンと耳を立て、瞳を輝かせる。
「うん? どしたい、レン?」
見下ろす権蔵と視線が合う。酷く動揺した様子だが、次の瞬間、ニンマリと目を細めた。そして、彼の膝からピョンと元の大石に飛び移った。
「権蔵さんっ――今、吉右衛門が斬られました!」
「分かるのか?」
思わず権蔵も立ち上がる。
「ええ! ええ……! 想いを、果たしました、朝香様ぁ……」
感極まって叫ぶと、レンは前足で頻りに顔を拭った。その姿がユラリ、薄くなる。
「おい、俺を置いて成仏しちまうんじゃねぇだろうな?」
「ふふ……まだですよ、ご心配なく」
慌てて声を掛けた権蔵に、鮮明に戻ったレンが微笑んだ。
「そうか……随分、お香を待たせちまった。寂しい思いをしてるだろう」
白猫は、ボゥと微かに発光すると、ふわりと宙に浮いた。
妖しげに双眸が輝きを増す。
「権蔵さん。朝香様は仰っていたじゃありませんか、『ここで待ってます』って」
「――ここに、いるのか?」
「ええ。ほら――あすこに」
レンに示され、振り向いた背後には土蔵の瓦礫はなく――嵯峨美屋の塀も、星空もない。
ほの暗い灰色の世界が限りなく広がり、目を凝らすと、帯のように黒くのたうつ水の流れが横たわっている。足元には、大小様々の大きさの砂利。ここは、河原だ。
その寂涼とした河原に、眩しいほどに純白の着物を纏った麗人が佇んでいる。
「お――お香っ!」
「……権蔵さん?」
名を叫びながら駆け出していた。
草履ごしに伝わる砂利の凹凸に足を取られるも、必死で、無我夢中で、走って行く。
あちらからは、お香も着物の裾をたくすようにしながら駆けてくる。
「危ねぇ……っ!」
彼女が躓いてグラリと身が傾いた瞬間、権蔵は細い腰に腕を回し、もう片手で彼女の肩を掴んで、抱き止めた。
「……怪我ねぇか、お香?」
「権蔵さん! 本当に……?」
彼女の白い手が権蔵の頬に触れる。切れ長の瞳は、しっかりと彼を捉えているが、表情が固い。
「お香、お前、目が」
彼女の表情がやや弛む。
「ええ、こっちに来てから見えるようになったの」
「そうか、良かったなあ」
権蔵は単純に喜んだ。しかし、腕の中の彼女は悲しげに眉を寄せる。
「それより、どうして、ここに?」
「お前に会いたくて、レンに連れて来て貰ったんだ」
はにかむ権蔵と対照的に、お香の瞳が強張った。
「ここは、生者が来る場所ではないわ」
安心させるように彼女の額に唇を当て、権蔵は晴れやかに破顔した。
「お前を失って生き長らえることに、意味はねぇ。お香と一緒にいられるのなら、この世の命なんか惜しくねぇよ」
澄んだ黒曜石のような瞳が潤む。ポロポロと涙が溢れた。
「……あたしの未練が、あんたを殺してしまったのね」
「てやんでぇ。お前に取り殺されるなら本望だ。お香――会いたかった」
権蔵の着物をすがりつくように握りしめたまま、彼女は泣き続ける。その存在を確かめるように抱き締めていた権蔵だが、やがて少しだけ身体を離すと、彼女の唇を求めた。
記憶に違わぬ柔らかな唇は甘く、このまま永久に固まってしまっても構わないと感じた。吐息も鼓動も浮かされたように熱い肌も、何もかもが溶け合って一つになったようだった。
「不思議ね――生きていた頃に失ったものを、死んで全部取り戻せるなんて」
権蔵の肩に頬を預けて、お香はしみじみと呟いた。
「もう独りにしねぇ。黄泉でも地獄でも、お前を離さねぇからな」
「嬉しい……あたしも離れない」
どちらからとなく顔を寄せ、唇が重なる。至福、というものがあるのなら、これがそうなのかもしれない。とろけるような温もりが身体中に広がって行く。
「――朝香さまー、権蔵さーん」
やや遠慮がちに二人を呼ぶ声がする。抱き合ったまま、声の主を探すと、レンがふんわりと形を滲ませながら二人の元に駆け寄って来るところだ。
「レン!」
「お前、どこに……」
「お邪魔してすみません。ですが、そろそろ参りませんと……」
白猫は、二人の一尺前でヒョイと宙に浮き上がり、申し訳なさそうに金色の瞳を細めた。
「――え?」
「ほら、あちらの世界が呼んでいます」
レンは、右前足でスィと一方を示した。
それは川のある方向だった。あれほど黒々と不気味にのたうっていた川の流れはすっかり治まり、穏やかにせせらぐ水面がキラキラと虹色に煌めいている。
「権蔵さん、身体が……!」
触れ合う互いの身体の輪郭がゆらゆらとぼやけている。もう、この場所にとどまっていてはいけないのだと、二人は何故か理解した。
「……行こう、お香、レン」
権蔵はお香の額に口づけると、彼女の腰に腕を回し、しっかりと抱く。お香はレンを抱え、彼らは一塊に寄り添いながら、川に向かって歩き始めた。
ユラリ、ユラリと形を滲ませつつ進んで行く。
やがて二人の足は川に浸かり、足首、膝、腿と五色の水中に沈む。温かくも冷たくもない。不思議と恐怖は湧かなかった。腰の深さが最深部で、川の中程を越えると水位は引いていった。
岸に着いた時、彼らはまるで濡れていないことに気付いた。そして、各々の輪郭が再び明確に戻った姿を見て、もはやこちらの世界の者なのだと納得した。
その時――遠く、彼らの遥か前方から、歌に似た響きが伝わってきた。重く深く染み渡り、何とも心地良い。蝶が蜜に惹かれるが如く、魂が引き寄せられる。
灰色の靄とも光とも見分けのつかない行く先は、恐らくあの世に違いない。
静かに微笑み合いながら、彼らは響きの源へ歩を進めて行った。




