其ノ十三
嵯峨美屋に女の幽霊が出る。
嵯峨美屋は呪われている。
そんな噂が広まるのに長くはかからなかった。
噂好きな江戸っ子のことだ、あること無いこと尾ヒレを付けて、面白半分の作り話が真しやかに囁かれた。
噂のタネ――正体は、もちろんレンだ。そして、噂を煽った張本人は半造だった。
権蔵と共に嵯峨美屋に忍び込んでから二、三日は口をつぐんで青ざめていたが、幽霊話があからさまに人の口に上り出すと、掌を返したように饒舌になった。
『……あぁ、そりゃあ恐ろしい女だったぜ! 青白いやつれた顔で、長い黒髪を振り乱して……恨めしげにこっちを睨みやがる! そうして、嵯峨美屋の裏庭の辺りを、フワーッフワーッ漂うときたもんだ……』
「……まったく、現金なものですねぇ」
呆れたようにレンの唇が弧を描いた。
嵯峨美屋の崩れた土蔵跡、レンが現れてから五日目の夜だ。
「人間なんてそんなもんだ」
瓦礫に腰掛けた権蔵は、特別な感慨もなく呟いた。
「ここの奥方も似たようなもの。羽振りの良い時期は、吉右衛門の道楽にも目を瞑っておりましたが……」
レンは愉快そうに、クックッと喉を鳴らした。
嵯峨美屋の息子、吉右衛門の奥方のお登喜が三行半を突き付けて出て行ったのは、今朝のことだ。
幽霊話が広まると、一人、また一人と暇請いを申し出る女中や奉公人が現れた。そんなことも含めて、真っ昼間から夫婦喧嘩が耐えなくなっていた。
「権蔵さんの狙い通りですわね」
お登喜や女中を脅すよう、策を与えたのは権蔵だ。
「まずは外堀だ」
家人や店の者が離れ、混乱した嵯峨美屋は、
『都合により休ませていただきます』
木札を掛けて、昼前から店が閉じられてしまった。
「俺も、やっとカラクリ錠が出来上がった。いよいよ明日の夜――決行だ」
「はい。アタシはいつでも」
レンはニッコリ微笑んだ。
「……吉右衛門の様子はどうだ?」
「店を閉めてから、ずうっと飲んでます」
「ご隠居は? まだ伏せた切りなのか?」
「ええ。アタシは姿を見せないのに、四六時中、何やらうわ言を呟いているとか。世話係の女中が気味悪がって、昨日暇請いを申し出ました」
人間の弱さを身を持って知っている。復讐の成果が出ているものの、権蔵の気持ちが晴れることはなかった。
「そうか」
小首を傾げ、レンは権蔵の隣に腰掛けた。
「……嬉しくはないのですか? どうして、お辛そうな顔をされるのですか?」
レンはゆっくりと瞬いた。彼女は純粋なのだろう。
幼子にするように、権蔵は彼女の頭を優しく撫でた。くすぐったそうに目を細める。
「嵯峨美屋は許さねぇ。だがな……俺の願いはお香を幸せにすることだ。それが果たせねぇ限り、喜べねぇよ」
ヒトの複雑な感情を完全に理解することは難しかったが、静かな口調の中に込められたお香への深い思いは読み取れた。権蔵の顔をしばらく見つめてから、レンは音もなく立ち上がる。
「では――今宵は、いかがいたしましょうか?」
シン……と辺りの空気が冷えてきた。
「ああ、そうだな。次は内堀だ」
「内堀……」
「離れのご隠居の枕元に立って、こう言うんだ――『口惜しや……』」
権蔵に授けられた文言に耳を傾けると、レンは妖艶に微笑んだ。
-*-*-*-
カタカタと風音とも異なる小さな音が、どこからともなく聞こえてくる。
嵯峨美屋善右衛門は、横たわった布団の中で、ピクリと身体を強張らせた。
――カタ……カタカタ……
目を閉じると、炎に包まれたお朝の姿が暗闇に浮かぶ。
自ら打ち倒した女が、苦しさに顔を歪め、助けを求めて手を伸ばしてくる。
『熱い……助けてくださいませ……助けて……』
耳にこびりついた叫泣が離れない。
忘れようとしても、阿鼻叫喚の光景がまざまざと甦る。
あの日から、善右衛門は眠れなくなった。ただでさえ、体調が優れずに療養していた身だ。昼となく夜となく、焼けただれて化け物のようなお朝の幻を見るようになった。
医者に駆け込もうにも、心当たりを問われるに違いない。薮蛇になるのは必至なので諦めた。
結局、吉右衛門がどこからか調達してきた薬を口にしたが、眠りは浅いままだった。
――カタ、カタカタ……
「ええい、未練がましいわっ!」
青白い顔に冷や汗をびっしり浮かべた善右衛門は、手近に置いた杖を握りしめると、闇雲に振り回す。
「……ぅ……ぅうっ」
「ヒッ……?!」
この数日、奇妙な物音は何度も聞いた。しかし呻き声、それも若い女の声が聞こえてきたのは初めてだ。
「うぅ……口惜しや、嵯峨美屋善右衛門様……」
「ヒィッ!」
女は、はっきりと善右衛門の名を呼んだ。
驚いた拍子に杖を取り落としてしまった。冷や汗で湿った布団の中に亀のように潜り込むと、彼はシワだらけの骨ばった手足を縮め、頭を抱えた。
「善右衛門様……どうして助けてくれなかったのです……」
初め、消え入りそうなか細い声で聞こえていた女の怨み節は、徐々に確りとした問いかけになった。
「盲いたわたくしが、それほど疎ましかったのですか……」
「ヒィィ……クワバラクワバラッ!」
ガタガタ震えながら唱えたが、これは雷避けのまじないだ。
レンは嘲るように、小刻みに揺れる布団を見下ろした。
「なぜ、わたくしの言葉を信じてくださらなかったのですか……?」
善右衛門が隠れる布団が、ズシリ、重くなった。
「ヒッ……ゆ、許してくれぇっ! 殺すつもりはなかった! あれは、弾みだったんじゃあ!」
彼は悲鳴を上げた。ゆっくり、ゆっくりと、掛け布団ごと重し潰されていく。
「わ、悪かった! 土蔵に、長いこと、閉じ込めた……のも、グゥ……苦しぃ……」
「貴方様は、わたくしを身請けしてくださった。それは恩に感じております。ですから、一度切り、機会をあげましょう」
「……た……頼む! 助けてくれぇ……」
「それでは――」
女の声音が低くなる。
「土蔵の下に打ち捨てられたままの、わたくし達の亡骸を弔ってくださいませ。さもなくば――貴方様もろとも、嵯峨美屋の名の付く者の息の根を止めましょうぞ……!」
怨みとも、憎しみとも、怒りとも取れる、オドロオドロしい脅しは、地の底から響いてくるようだ。
「ヒイッ……わ、わ、分かっ、分かった! いっ言う通りにするから……命、命ばかりは、お助けくだせぇっ!」
善右衛門が恐怖に悶える布団の上で、巨大な白猫の姿に変えたレンは、満足気に金色の双眸を細めた。
「……弔いは、明日中に。約束ですよ、善右衛門様」
「へっ……へいっ、承知、いたしました……」
やっとそれだけ誓うと、善右衛門は圧力に耐えられず、気を失った。
レンが身を起こすと、布団の下でミリリと骨が軋む音が鳴った。
「……あら、ま」
老人の脆い四肢のことだ。どこかに「ひび」くらい走ったかもしれない。
気に留めることもなく、レンはヒョイと飛び降りた。
――バリバリ、バリッ!
権蔵に言われた通り、襖の一枚に、前足で大きく爪痕を残す。彼女は小さく頷くと、離れの中からすぅ……と掻き消えた。
破れた襖からは、冷えきった夜風が頻りに吹き込んでくる。切れ切れの嗚咽の如く、悲しげな音を奏でながら、離れの中を外気が満たしていった。
-*-*-*-
最初に善右衛門の異変に気付いたのは、新しく世話係を任されていたお福だった。
この女、お香の世話係をしていた例の醜女である。
朝餉の膳を運んで来た彼女は、離れの襖に付けられた鋭い爪痕を見て青ざめた。
「ご隠居様っ?!」
襖を開けた途端、異様な冷気がサァ……ッと外に向かって流れ出た。
お福は思わず身を震わせる。この寒さは何なのか――?
八畳の部屋の中央に敷かれた布団。三尺ほど離れた畳の上に、善右衛門の杖が転がっている。いつも布団の側にきちんと置かれているはずなのに。
「だ、大丈夫ですか、ご隠居様?」
膳を隅に置いて、急ぎ布団に駆け寄った。捲ろうとして、掛け布団のヒヤリとした冷たさに息を飲む。
不吉な予感を胸に、掛け布団を剥ぐと――。
「ご隠居様っ!」
土気色の肌をした善右衛門が、身を縮めた格好で横たわっていた。
触れた頬も腕も、岩清水の如く冷えきっている。真冬でもないのに、一体どうすればこんなことになるのだろうか?
慌てたお福だが、老人の顔の前に掌をかざすと、鼻から漏れる息がある。
「だっ、誰か! お医者様を! 早く、お医者様を呼んでくださいっ!」
離れの入り口から母屋に向かって夢中で叫ぶ。
自分が開けた襖に刻まれた獣の爪痕が目に入り、お福はゾッとして後退った。
瞬時に、お朝が可愛がっていた白猫が思い出された。確か、先日の火事で焼け死んだはずだ……。
「早く……早く、誰か来てえぇっ!!」
半狂乱で喚き散らした金切り声は、隣近所の商家にまで届き、辺りは騒然となった。
四半時の後、丁稚が医者を連れて来た。
医者は善右衛門の存命を確認したが、肋と右腕の数ヵ所を骨折しており、まるで高所から落ちたようだと首を傾げた。
怪我の手当てを終えても、善右衛門は目覚めなかった。
そのことについては、極度の体力消耗と精神的疲労、さらに睡眠不足が影響しているのだろうという見立てだった。
「薬と蜜を溶いた白湯を含ませなさい。時が来たれば、目覚めましょうぞ」
無責任な指示を与えて、医者は帰っていった。口止め料を暗に含んだ治療代を、たんまり受け取ったことは言うまでもない。
まだ酔いの抜けない吉右衛門に代わって、番頭が破れた襖を取り替えるよう、若い衆に指図した。
それから女中に言い付けて、離れの入り口の左右に、魔除けの塩を盛った小皿を置いた。
善右衛門が目覚めない内に刻々と時は流れ、レンとの誓いを誰も知らぬ間に、はや秋の日は暮れようとしていた。




