其ノ十二
権蔵は先頭に立って、嵯峨美屋の敷地内を移動した。裏庭の外れに、三間四方の離れが建っている。男達は軒下にヒタリと張り付いた。
家探しは、本業ではない。
飾り窓からそっと内側を伺うものの、闇が支配する室内の様子はほとんど分からなかった。
「――……!」
縁側に回ろうと踏み出した時、不意に着物の袖がギュッと掴まれた。至近距離――半造だ。
眉をひそめて振り向くと、半造はあらぬ方向を指差し冷や汗をかいている。
……この寒空に?
権蔵は咎める目付きのまま、彼の耳元に口を寄せた。
「どうしやした?」
「あ……あすこ、あすこの木の陰から、女が……!」
上ずった細い声が、意外と静寂に響く。咄嗟に半造の口を押さえた。
「シッ! ――女?」
「へ、へぃ、白い着物の女がスゥッと浮いて……」
震える指先を辿ると、先ほど破った土蔵の更に奥の庭木が揺れていた。十中八九、崩れた土蔵の方向だ。風向きとは異なり、ユサユサと枝が大きくたわんでいる。
「まさか……」
サァ……ッと血の気が引いた。恐怖ではない。人ならざる何かが現れたということは、愛しい女が、もはやこの世の者ではないということだ。
「げ、源さん……もう、帰りやしょうぜ……」
情けない声がすがりつく。権蔵は大きく頭を振った。
「半造さん。こんなことに付き合わせてすまねぇな。だが、俺はまだ諦めきれねぇんだ。先に帰ぇってくれ」
「俺ぁ、もののけの類いは滅法弱いんでぇ……!」
小柄な身体を一層縮めて、半造はぶるぶると震えている。
「もうすぐ丑の刻だ。その前に、ここを離れた方がいいですぜ」
権蔵の言葉が終わるか終わらないか、そんな折、奇妙な生温い風が吹き抜けた。
「――ヒィ……ッ!」
半造は飛び上がった。権蔵は急ぎ、彼の口を再び塞ぐ。このまま怯え騒げば、家人にみつかってしまうだろう。
「だ、駄目だ、源さん! 俺ぁ帰える……っ!」
悲しいことだが、家探しの必要は無いかもしれない。権蔵は狼狽する若者の顔をグイと自分に向け、その目を覗き込んだ。
「分かりやした。塀まで送って行きやすから、付いて来なせぇ」
「ありがてぇ……!」
半造は涙声だ。前夜のお返しよろしく、権蔵は腰の引けた若者の身体を支えながら、離れを後にする。
裏庭の草木を揺らして進む中、半造はほとんど権蔵にしがみついていた。
「……半造さん、ここを出たら、俺が帰るまで徳三郎さんの家にいなせぇ。今夜見たモノのことは――口外しなさんな」
「へっ、へぃっ」
コクコクと赤べこのように頷いて、素直に従う。
崩れた土蔵から視線を逸らしたまま、半造は塀を乗り越えると、小走りに逃げ帰っていった。
――やれやれ。ようやく邪魔が……
「邪魔が消えましたね」
背後から、夜風にも似た女の声が、心の呟きに重なった。
権蔵はゆっくりと振り返る。
「……お香、お前なのか?」
崩れた土蔵の辺りに、煙のような白い影がゆらりと佇んでいる。
「いいえ……」
白い煙は徐々に濃度を増し、権蔵の目の前で、白装束に身を包んだ女の姿になった。声は否定したが、女の容貌は紛れもなくお香だ。
権蔵は駆け寄った。
「その顔はお香じゃないか」
「権蔵さん……アタシはヒトの形を持たぬ故、朝香様のお姿を借りたのです」
ニコリと笑む表情は、確かにお香とは何かが違う。見た目は愛しい女だが、中身が異質だと――何故か腑に落ちた。
「朝香様……? お前、もしかして、レン、なのか?」
女は権蔵に向かって、ふふふと屈託なく目を細める。
権蔵はガクリと膝を付いた。身体中から力が抜けていく。
「権蔵さん?」
お香の姿をしたレンは、驚いて身を屈めた。そして、項垂れた男の顔を覗き込んだ。
「亡くなって、しまったんだな……お前も、お香も」
涙ぐむ権蔵を見て、女は神妙な表情になり、白い手で彼の頬に触れた。感触はあるのに、体温はない。
「朝香様は、あなたの名を呼びながら……ここで、息絶えました」
「あぁ……! なんだって、こんなことに……ッ」
ぽろぽろと涙が溢れる。苦悶の表情で嘆き悲しむ権蔵を、女はジッと見つめていたが、静かに立ち上がった。
「権蔵さん。アタシが何故ここにいるか、お分かりですか?」
「……レン?」
涙を袖で拭って見上げると、闇夜にも関わらず、彼女の全身がはっきりと見てとれた。漆黒に浮かぶ月の如く、微かに発光しているようだ。
「朝香様は、お優しい方。儚い定めを嘆いていらっしゃいますが、怨み呪うことをご存知ない」
「――」
「……アタシは畜生の身。怨みも呪いも染み付いた、卑しい業の塊です」
淡々と続ける女の眉間がツィ……と寄せられる。
美しい容貌は変わらないのに、眼の中に残忍な光が灯った。まるで羅刹女のようだ――権蔵は息を飲む。
「朝香様の命を奪った外道がのうのうと生きている。そんなことは、許せないのです」
深く息を吐いて、権蔵も立ち上がった。正面に見る彼女の内には、激しい怒りが渦巻いている。
「レン、教えてくれないか。お香とお前は、どうして命を落としたんだ? ここで、何があったんだ?」
女は長い睫毛を一度伏せ、それから憂いを湛えた瞳を上げると、権蔵を真っ直ぐに見つめた。
「……分かりました。お話ししましょう」
彼女に促されるまま、権蔵は瓦礫のひとつに腰を下ろした。
レンの肩越しで、艶かしい月が、虚空から白い鎌刃を振りかざしていた。
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昨日――いいえ、日が変わったから、もう一昨日の朝ですね。
あなたがお帰りになられた後、いつものように朝香様は床で微睡んでいらっしゃいました。……ええ、それは幸せそうに。
朝香様の世話係の女が食事を持って、着替えの手伝いにやって来たのは、辰の正刻(朝八時)過ぎでしたか。
無口な醜女ですが、妙に勘の鋭い所がありましてね。アタシの毛艶が良いことや、朝香様が女の独り住まいの割に色香麗しいことを、以前から訝しんでいたようなんです。
『きっと男を引き込んでいるに違いない』
余計な進言を、当家のご隠居に吹き込んだのでしょう。
正午を過ぎた頃、血相を変えたご隠居が、杖を付いた身体を軋ませるようにして、ここにやってきました。
朝香様が盲てからは、せいぜいひと月に一度、ここ一年は数ヶ月に一度しか現れなかったのに。
あれを嫉妬、というのでしょうか。老いぼれて歪んだ腕のどこにあんな力があったのか――振り上げた杖で激しく殴打し、朝香様を問い詰めたのです。
『ここには錠前がかかっているではありませんか』
おいたわしや、朝香様は顔を腫らし、泣きながら御身の潔白を訴えられました。
そんな痛々しいお姿を前に、アタシも黙っていることができませんでした。
思わず老体に飛び掛かり、骨ばった四肢にエイヤと爪を立て、見事なみみず腫れをこしらえてやったのです。
『ええい! 忌々しい畜生め!』
ご隠居はアタシを足蹴にし、振り払おうとした時――よろめいて、積み上げた長持に倒れ込みました。
長持の中には、朝香様の夏着の着物が収められておりました。
崩れた長持が行灯を倒し、折り悪く飛び出した着物に油が零れ……それはもう、あっという間の出来事でした。
炎の海の中、足を引きずりながらご隠居は逃げて行きました。
朝香様とアタシは、煙に巻かれて動きを封じられると、熱せられた息に胸を焼かれ、炎に身体を包まれて――気付くと暗い河原に倒れていたのでございます。
「……河原?」
黙って女の語りを聞いていた権蔵は、思わず聞き返した。
レンは深く頷いた。
……ええ。黒い帯のような水がとうとうと流れ、容易には渡れそうにありません。
河原には小さな砂利が敷き詰められており、所々に不恰好な小石の塔が積み上げられています。
川に目を戻せば、水源も河口も見えません。
アタシと朝香様は、しばらく佇んでおりました。
『ここが賽の河原と呼ばれる場所なのかしら』
話に聞くこの世の果ては、見渡す限り低い灰色の靄が垂れ籠める、光も闇もない空間でした。
川にせせらぐ音はなく、吹き抜ける風もなく、滞ったそら寒さだけが漂っておりました。
『朝香様。ここがあの世の手前なれば、強い想いを持つ者は川を渡れないと聞きます』
ヒトの世界を渡り歩く間に、聞きかじった話でございます。
アタシには、思い当たる節がありました。
「強い想い……」
権蔵は呟く。
再び、レンは頷いた。
朝香様を狭く暗い場所に閉じ込めた挙げ句、命を奪った、この家の者が許せない――アタシを河原に縛るのは、強く深い呪怨の想い。
朝香様を縛るのは――お分かりでしょう、権蔵さん?
「……ああ。俺だって、すぐにでも会いたい。お香が待つ場所ならば、この世でなくとも構わない」
レンは嬉しそうな笑顔を見せた。無邪気な表情は、お香の容貌を借りているが、紛れもなくレンの心を表していた。
「アタシは朝香様の姿を移し、鬼に魂を売り渡し――ここに還ってきたのです。嵯峨美屋父子に復讐するために」
真顔に戻ったレンは、再び羅刹女の気配を身に帯びた。
権蔵に恐怖はなかった。
「すまねぇな、レン。お前が憎しみを引き受けてくれたのか」
目の前の白い手を取ると、愛しい女の姿を借りたもののけをしっかりと抱きしめた。たじろいだレンの瞳から怒りが薄れた。
「俺に、考えがある。お香とお前の苦しみを、嵯峨美屋父子にしっかり味わって貰おうじゃねぇか」
「いいえ、権蔵さん。魂を汚すのは、アタシだけで十分です」
抱きすくめられた腕から器用に抜け出すと、レンは真っ直ぐに権蔵を見た。
「お前はどうやって恨みを晴らすつもりでいるんだ? 気長に、毎晩枕元に立ち続けるつもりか?」
権蔵も引かなかった。
具体的な策を持っていなかったのか、レンは言葉に詰まり、眉間にシワを寄せた。
「嵯峨美屋父子が憎いのは、俺も同じだぜ」
グッと握った拳が震える。彼らがお香に行った仕打ちを思うと、腸が煮えくり返るようだ。また目頭が熱くなった。
「それに――俺は、お香に会いてぇんだ」
レンは少し俯くと、頷いた。
「朝香様の元に行くということは――分かってますね、権蔵さん?」
「おうよ。百も承知だ」
「……分かりました。あなたのお力をお貸しくださいませ」
弱り顔で眉尻を下げた微笑みは、昔、お香が見せた懐かしい顔つきだ。
胸が一杯になり、権蔵はもう一度レンを抱きしめた。
そして、彼女の耳元に、復讐を果たすべく秘策を授けたのだった。




