其ノ十
江戸の町を嵐が吹き抜けた翌日は、あちこちで瓦屋根の修理や折れた庭木の片付けに追われていた。
盗人を恐れた商家や、金に余裕のある武家屋敷は、日が落ちても提灯を掲げて大工に作業を急がせた。
嵯峨美屋の近所でも、海鼠塀が崩れたとかで、職人が数人、夜を押して作業していた。
昼間、普段より人の往来が多いばかりか、日が暮れてまでポツポツと灯りが見える。これではお香の元に行くことは到底無理だった。
そうこうする間に月は肥え太り、上弦を過ぎると日ごとに明るさを増していった。
観念した権蔵は、お香との約束を果たすべく、錠前の組み立てに専念した。
満月も過ぎると、工場の足元に火鉢が有難い季節になっていた。
夜が暗くなるにつれ、愛しい女の面影がちらつく。嵐と月明かりに予定を狂わされたとは言え、最後に触れてからひと月近い。
独り身で気楽にやっていた時分には知らなかった孤独が、ジリジリと焼き焦がすように気持ちを蝕んだ。
薄の穂が開き、草木が色づき始めた晩秋の夜――ついに、権蔵は嵯峨美屋に向かった。
レンに秋刀魚を、お香にはぼた餅を土産に、慣れた手順で塀を乗り越え、土蔵を破った。
――にゃあぁ。
権蔵の土産に、興奮を隠さないレンは、夢中で秋刀魚のご馳走を平らげた。
その近くの畳の上では、お香もまた満足気な笑顔でぼた餅を頬張っている。
「出来立てじゃなくて、すまねぇなぁ」
「そんな……あたしの好物を覚えていてくれただけでも嬉しいわ」
娘時代の思い出を反芻しながら、権蔵はお香の細腰を抱き寄せる。
「なぁに、半月も独りにしちまった詫びみたいなもんだ」
「あら、待てるって言ったでしょう?」
男の肩に頭をもたせながら、餡の付いた指を舐めている。その仕草を見ていたら、権蔵はもう堪らなくなって――。
「きゃっ」
お香の口元をぺろりと舐めた。
「餡が付いてる」
笑いながら、唇を塞ぐ。餡より甘い、彼女の香りにとろかされながら、緋色の帯を解いていく。
そうして久しぶりの肌に夢中になる。夜のしんと冷えた空気すら、熱くなった身体には心地好い。
「……こんなに幸せで、バチが当たりそう」
権蔵の腕枕で、お香が囁く。しみじみとした呟きは、土蔵暮らしの寂しさだけを指しているのではないのだろう。
「もっと早く江戸に戻って、お前の消息をきちんと確かめてりゃなぁ……」
嘆息混じりに答えた権蔵の胸元に額を寄せて、お香は小さく首を振った。
「きっと、こういう巡り合わせだったのだわ」
確かに、居所を掴む頃合いが、彼女が太夫でいる間や、嵯峨美屋に身請けされた直後だったとしたら――彼女に対する想いは、ここまで再燃しなかったかもしれない。彼女の幸せを願いながら、人知れず江戸を離れたことだろう。
彼女の頬をそっと指先で撫でる。色づきが、やや濃くなった。
「ああ、早くお前と暮らしてぇなぁ」
「焦らなくても、あたしはどこにも行かないわ。あんたが盗み出してくれるまで、ここでちゃあんと待ってる」
愛しさを込めた言葉を静かに交わして、熱が燻る身体を激しく重ね合う。
どちらも皆まで言わずとも、互いの存在無しの将来など考えられなくなっていた。
いつものように明け烏の声に追い立てられながら、組み木細工のようにピタリと合わせた身体をほどく。
「あと七日の辛抱だ。俺ぁ、稀代の盗人・五右衛門様でも手に入らなかったお宝を盗み出してみせるぜ」
芝居がかった大袈裟な台詞を吐いたのは、幸せに酔ったせいか。言ったそばから照れ臭くなったが、お香の白い腕はぎゅうっと彼の背を抱いた。
「はい。お待ちしてます、権蔵様」
畏まる彼女の声が小さく震えている。次に顔を合わせる時は、約束が果たされる夜だ。俄に帯びた現実味が、二人の気持ちを神妙にした。
もう一度唇を重ね、名残を惜しみつつ、身を離す。
権蔵は樺茶色の着物を纏い、土産を包んできた竹皮を丸めて懐に入れた。
――にゃあ。
長持からスルリと下りてきたレンは、肌襦袢姿のお香の膝元に腰を下ろすと、まるで『ご馳走さま』というように権蔵に向かってひと鳴きした。
「じゃあな、お香、レン」
彼女らに微笑んで、土蔵を後にする。
慎重に、更に祈りを込めて錠前を掛け、塀を越えると、権蔵は明け方の通りに溶けて行った。
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ひと風呂浴びて朝寝した権蔵は、ぐっすり眠りに巻かれていた。
遠くで何かざわめきを聞いた気がして目覚めたが、茜色に染まった部屋の中に異常は見られなかった。
日が暮れてから、半造がやって来た。
母屋で徳爺さんとの話し声が聞こえていたが、しばらくの後、工場に籠っていた権蔵にも、律儀に顔を見せた。
「邪魔してます、源さん」
手元の細かい作業に集中していた権蔵が顔を上げると、彼は戸口で手にした風呂敷包みをちょっと掲げた。
「――ああ。また差し入れですかい? いつもすいやせん」
台所にあった冷飯を掻き込んだだけの腹が、正直に歓迎の音を立てた。
男達は軽く笑い、権蔵はすぐさま土産の饅頭を頬張った。
「半造さんも良かったら」
「じゃあ、遠慮なく」
思いの他、饅頭の数があったので勧めた。作業台を挟んで男二人、餡の詰まった掌大の饅頭を食らう。
「茶のひとつも出さず、すまねぇことで」
「いやいや、気になさならいでくだせぇ。今夜寄ったのは、ついでなんで」
大口で頬張りながら、若者は空いた左手をヒラヒラと振った。
「おや、こんな夜更けに他の用事がおありで?」
食い始めてから腹の虫の正しさを思い知らされた権蔵は、はや二つ目に手を伸ばす。
「そうなんすよ。ほら、昼間、火事がありやしたでしょ?」
「――火事?」
「あれ? この辺りだと半鐘が届きやせんでしたか?」
聞き返すと、逆に半造はキョトンと真顔になった。
知るよしもない。朝帰りから、とっぷり日が暮れるまで熟睡していたのだ。バツの悪さに、権蔵は頭を掻いた。
「あ――お恥ずかしいんですがね、今日は夕刻まで寝入ってましてねぇ」
一瞬の間があり、半造はカラカラと笑った。
「いやぁ、参りやした! 源さん、なかなかどうして、肝が座ってなさる!」
「止めてくださいよ。恥ずかしい」
「いやいや……。徳の爺さんなんか、裸足で飛び出したそうですぜ」
いくら徳爺さんが酔っていたにせよ、それは大袈裟ではないか?
思わず権蔵は苦笑いした。
「そんなに大騒ぎとは――火元はどこだったんで?」
「それなんすよ。何でも嵯峨美屋が火を出したってんで、親分がね、『借金のカタのお宝が燃えちゃいないか見てこい!』ってなもんで、エライ剣幕でしてねぇ」
饅頭を無理矢理飲み込んだ。喉の奥がギュッと締め付けられているようで、ようやく言葉を絞り出す。
「――嵯峨美屋?」
声が震えないよう、努めて冷静に聞き返したが、背中にびっしり脂汗が吹き出している。
「ええ。前に一度、店の前を歩きやしたでしょ? あすこの長男が、ウチの賭場のお得意なもんで。結局、燃えたのはお宝を収めた蔵じゃなくて、ガラクタなんかを突っ込んでたっていう離れの土蔵だけだったんですがねぇ。全く、人騒がせなことで――源さん? どうしやした? 喉に詰まらせやしたか?! 真っ青じゃないですかい!」
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目の前が暗くなり――どれくらい経ったのか、辺りの様子がぼんやり戻って来た時には、権蔵は工場の床にへたり込んでいた。
食い掛けの饅頭が、脛の横に転がっている。
「源さん?! 源さん、どうしやした?!」
傍らに膝をついて、心配した半造が覗き込んでいる。
「は……半造さん、嵯峨美屋の、燃えたってぇのは――」
権蔵は若者の両腕を鷲掴みにして、すがり付くように見上げた。
その必死の形相にギョッとしつつも、
「え、ええ、だから、普段は使っていない離れの――」
気圧されながら答えた。
途端、権蔵は顔をクシャクシャに歪めると、ガバと頭を抱えた。
「そんな――そんな、馬鹿な――!!」
「げ、源さん?!」
これまで接してきた権蔵は穏やかな男だった。眼前で激しく動揺する姿に、半造もまた愕然とした。
「すいやせん……ちと……失礼しやす……」
独り言のように呟いて、権蔵はフラフラと立ち上がった。作業台に両手を付いて、二、三度ゆっくりと頭を振る。目の焦点が定まっていないのか、まるで辺りの様子など見えていないかのようだ。
それでも、つんのめり、躓きしながら、歩みは工場の外へ向かっている。
「源さん……」
危なっかしくて見ていられない。半造は、彼の後を追いかけた。
本人は走っているつもりなのだろうが、酒に酔った千鳥足とまるで変わらない。
労なく付いていくと、権蔵は嵯峨美屋の屋敷の裏通りに正確に辿り着いた。
歪な半笑いのような欠けた月が、水浸しの通りを鈍く光らせている。
火事の時、恐らく堀から汲み上げて消火したのだろう。堀から塀までの通り一面、溢れた水でぬかるんでいる。
権蔵は足元も気にせず塀に駆け寄ると、着物が濡れることも構わずにへばりついた。身を乗り出すと、薄闇の中でも、そこにあったはずの土蔵が瓦礫と化したことが、はっきりと見て取れた。
「――あ、あぁ……!」
無惨に崩れた残骸を前にして、唸りに似た嗚咽を漏らして顔を伏せる。背中が大きく上下に震えている。
「……源さん、しっかりしてくだせぇ」
自分よりも大柄な権蔵の肩を抱えるように掴み、耳元で諭す。
「ここは人目に付きやす。今夜は帰りやしょう」
低く呻いている権蔵の身体はガタガタと震えている。
大の男をここまで動じさせることとは何なのか――半造には分からなかった。しかし、昼間の騒ぎの後のことである。町方が普段より頻繁に見回りに来ることは、容易に予測できる。
「源さん!」
動かない権蔵の肩を掴み、激しく揺する。鋭く名を呼ぶと、ようやくピクリと反応した。
「ひとまず出直しやしょう」
「……すまねぇ」
権蔵は、やっとのことで声を絞り出したが、力なくかすれてしまった。
鉛のような腕に力を込め、ギクシャクと塀から引き離す。ぐらりと傾いた身体を半造が受け止めた。
「さ、行きやすぜ」
小柄な若者に支えられながら、踵を返す。男達はヒタヒタと足音を殺して、嵯峨美屋を後にした。




