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其ノ一

【登場人物】


権蔵ごんぞう

 腕の良い錠前職人だったが、今は一匹狼の娘師(土蔵破り)。



・おおこう朝香太夫あさかたゆう=おおあさ

 かつての権蔵の許嫁。花街に売られ太夫になるが、嵯峨美屋のご隠居に身請けされる。


・レン(蓮華)

 お香が仔猫の時に助けた白猫。



嵯峨美屋さがみや

 小間物問屋。豪商。


嵯峨美屋善右衛門さがみやぜんえもん

 嵯峨美屋のご隠居。朝香太夫を身請けするも、家督は息子・吉右衛門に奪われて、隠居の身。


嵯峨美屋吉右衛門さがみやきちえもん

 嵯峨美屋の長男。父親が花街に入れ込んでいる隙に、家督を奪う。


嵯峨美屋登喜枝さがみやときえ=お登喜おとき

 吉右衛門の女房。


松之助まつのすけ

 嵯峨美屋の番頭。



辰次郎たつじろう=雷神の辰

 賭場を仕切る親分。腕の立つ娘師を探している。


七兵衛しちべえ

 辰次郎の子分。半造と定吉の兄貴分。


半造はんぞう

 辰次郎の子分。眉に大きな黒子がある。


定吉さだきち

 辰次郎の子分。少し小太り。



・おおりん

 遊女。辰次郎と通じている。花街に来る前は、職人の娘。


徳三郎とくさぶろう

 鍛治職人。かつては名工で知られたが、今は酒と博打に溺れた爺さん。



片岡かたおか

 町方同心。


新八しんぱち

 岡っ引き。かつては賭場にも出入りしたスリ師。

 捕えられて後は、片岡に雇われている。




 ――カチ……カチッ……カタン


 指先に伝わる微かな抵抗力の違いを手掛かりに、男は錠穴に差し込んだ針金を動かす。

 右に左に――もう一度右奥のとっかかりに引っ掻ける。

 神業のように正解に、彼は作業を続ける。


 ――ガチャン


 程なく彼の掌の中で、固く口を閉ざしていた番人が、力なく崩れた。閂の外れた錠前は、頑なな女が肌を顕にするかのように陥落し、重い土蔵の扉を開いた。

 この瞬間――土蔵破りの解錠の瞬間が、権蔵ごんぞうには堪らない快感だ。


 ――へへ……チョロいモンだ。さて、どんなお宝が眠ってなさるかな。


 足音を殺して暗い土蔵に踏み入れる。

 開けた扉をギリギリまで閉じると、懐から火打石を取り出してカチカチと合わせた。小さい火花が火種となって、手元を照らすべく蝋燭に移る。

 ボゥとした柔かな光源は、石組の棚にきっちり積み重ねられた無数の桐箱を浮かび上がらせた。


 埃の積もり具合から、いくつか抜き出し、中を確かめる。


『赤楽 【暁】』

『楽 【初霜】』

『志野 【枯薄】』


 いずれも銘が付いた名品だ。ゴクリ――思わず喉の奥が鳴る。

 この茶碗一客で、一年は悠に遊んで暮らせる金になるだろう。


 権蔵は食い入るようにしばし眺めたが、首を振って二箱は棚に返した。


 ……欲を出しちゃいけねぇ。


 権蔵は慎重だった。

 彼は赤楽の入った桐箱を持参した紫紺の風呂敷に包み、丁寧に小脇に抱えた。扉の前まで戻ってから、蝋燭を消す。

 そして重い扉からスルリと外へ滑り出すと、懐に入れていた錠前を再び扉に取り付けた。これで家人には、当分お宝が消えたことに気づかれまい。


 足早に土蔵から離れると、塀の影に張り付くように身を隠す。塀に沿って母屋を回り、裏の木戸から小路へ身を翻した。月のない闇夜に紛れ、丑三つ時の静寂を駆け抜ける。

 土埃を蹴散らし乾いた足音を小さく立てて、一気に橋を渡った。川向こうの薄野原に埋もれて、寂れたお堂が蹲っている――そこがここ数日の隠れ家だった。


 破れた障子戸を開け、中に転がり、権蔵は一息付いた。

 行灯に火を入れる。三間程の狭い室内には、体の大半が朽ちた菩薩像だけが鎮座していた。吹き込む風雨と乾燥に晒され、材質の木材は変色し、頬に一本ひび割れが走っている。すきま風に揺れる明かりの加減で、慈悲深い半開きの瞳から一筋、泣いているようにも見える。


 狭くとも他者が潜んでいまいか、隅々まで確認してから、権蔵は菩薩の前に腰を下ろした。


 ――この世の無情を泣いてなさるか。


 盗人に身を落とした我が身だが、自分なりの信心を完全に失った訳ではない。

 悔いてはいない。だが、侘しさに切なくなることはある。

 金がある時分なら、安宿で女を買うこともあるが、しばらくは懐が寒かった。


 明日、コイツを金に代えたら花街にでも繰り出すか――。


 諸欲の塊を抱いた風呂敷包を、朽ち割れて口を開いた蓮華座の中に隠す。

 その前にゴロリと腕枕で横になる。遠くで明け烏の声がする中、権蔵は浅い眠りに意識を投じた。


-*-*-*-


 権蔵は、日本橋の近くで生まれ育った。

 その界隈は古くからの職人町で、権蔵も早くから父親に弟子入りして錠前職人の道を歩んだ。

 元来手先が器用で真面目なたちの権蔵は、めきめき腕を上げた。十四になる頃には錠前の構造がすっかり頭に入り、兄弟子がこしらえた錠前を鍵を使わずに解錠するまでになっていた。


 若者らしく日焼けした肌にぱっちり二重の眼、意思の強さを表す太い眉、愛嬌のある丸い鼻、やや厚目の唇――決して二枚目ではないものの、権蔵は職場でも長屋でも可愛がられた。

 そんな彼には、幼なじみのおおこうという許嫁いいなずけがいた。

 向かいの長屋に住む飾り職人の長五郎の一人娘で、面長に切れ長の涼しげな目鼻立ちは、母親譲りの器量良しと評判だった。

 長五郎は権蔵の職人としての将来を見込んで、半ば強引に娘との縁を結んだが、当人同士も満更ではなかった。両家は権蔵の独り立ちを待って、夫婦にする約束を交わしていた。


 ところが、お香が十五になった春――彼女の母親が、美人薄命の倣いに違わず、流行り病で呆気なく露と消えてしまった。

 恋女房を失った長五郎は昼夜となく酒に溺れ、手が震えて仕事ができなくなった。

 怪しげな賭場に出入りしているという噂が立ち、お決まりのように借金を抱えた。


 お香が借金の形に売られていったのは、権蔵が十六になる直前の初夏だった。


 長五郎が荒れ始めた頃、権蔵はお香をめとりたいと父親に訴えた。いずれ彼女が女衒せげんに売られるのでは、と恐れたからである。


 長屋では、身を持ち崩した父親が娘を女郎屋に売り飛ばすことなど珍しくなかった。

 貧しくとも庶民は、一生懸命生きている。だがそのすぐ側に日常を飲み込む深淵が口を開けているのだ。


 幼い頃からそんな家族を何度も見てきた権蔵は、お香の行く末も手に取るように予測できた。

 祝言を挙げてしまえば、お香を救える。


 しかし、権蔵の両親は祝言に反対したばかりか、彼の知らぬ間に婚約自体を反古にした。悪い評判の付いた一家と関わりを持てば、やがて面倒に巻き込まれるに違いない。

 父親は、勘当をちらつかせ、彼にお香を諦めさせた。


『――元気でね、権蔵さん』


 笠で顔を隠した背の高い女衒に手を握られて、十五のお香はもう一方の手を振った。伏せた睫毛が濡れ、愛らしい瞳は茜の色で揺れていた。


 権蔵は懸命に手を伸ばした。伸ばして、彼女に届いても――半人前の彼には救う手立てはない。

 分かっていても心臓が握り潰されそうに苦しい。

 大波に引き離されるかのように、記憶の彼方の恋人の姿は小さくなった。


「ま、待ってくれ……お香ちゃん!」


 自分の声で目が覚めた。

 薄明かりの中に、武骨な腕が伸びている。

 藍色の絣の着物から生えた浅黒い肌。

 権蔵は、ノロノロと自分の右腕を下ろした。


 ――また、あの時の夢か。


 煤けた灰色の光に、漆喰の禿げた白壁が浮かぶ。

 お堂の埃っぽい床板の上で、権蔵はゴロリと寝返りを打った。フワリと舞う塵に顔をしかめると、諦めて身を起こす。

 菩薩が変わらずに慈悲深い眼差しで、彼を見下ろしている。


「菩薩さん……おめぇの仕業かい?」


 やれやれ、随分青臭い後悔を引き出してくれやがる。

 権蔵は恨めしげな薄ら笑いを菩薩に投げた。


 あれからいくつ夏を迎えたか――権蔵は、すでに青年の域を出る歳だ。

 初恋の女は抱き損ねたが、酸いも甘いも……多くの肌を味わった。

 それでも――満たされた想いは一瞬で、目覚めれば虚しさだけが心を占めるのだ。


「アイツを金に代えるとするか……」


 権蔵は立ち上がり、身体を伸ばした。

 破れ障子の隙間から初夏の暑気がジワジワ這い寄ってきている。今日も渇きそうな気配だ。


 お堂を出ると、権蔵は腰丈まで生えている薄を掻き分け、河原に向かった。

 やや温んだ水で顔を洗い、埃で白っぽい着物を脱いだ。

 川で洗うと、固く絞る。近くに立木が見当たらないので、河原の熱を帯びた砂利の上に着物を広げる。絣の薄い着物は、一時も待たずとも渇くに違いない。


 手拭いを緩く絞ると、上から下へまとわり付いた汗を流していく。

 天中を目指して昇ってゆく日差しが、濡れたばかりの肌をすぐに渇かした。


 権蔵は、濡らした手拭いを頭に乗せると、川の水を少し含んで喉を濯いだ。

 何度か繰り返し、ようやく大きく息をつく。


 ――慣れたもんだ。


 宿無しの生活も、苦に感じなくなった。


 夏は、いい。今年も寒くなる前に蓄えなくちゃなんねぇ。


 権蔵が江戸に戻ってきたのは、暖かい季節の内に土蔵破りで荒稼ぎするつもりだからだ。

 雪がちらつく冬は、錠前を解く指先も感覚が鈍る。時間がかかれば、それだけ危険も高まるというものだ。だから木枯らし厳しい江戸の冬は、仕事を控える。秋までに貯めた蓄えで、安宿を移動しながら春を待つ。

 そういう暮らしを繰り返してきた。

 あと十年もすれば身体にガタがくるかもしれないが、どこかに身を落ち着ける考えがない以上、きっとこれからも似たような夏を迎えるのだろう。


 手拭いが渇いている。

 もう一度濡らして絞り、頬かむりして着物を確かめると、ほとんど水分が飛んでいた。

 彼は布を軽く伸ばして、身につける。

 そして、足早にお堂に戻っていった。




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