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無知性の凱歌 Revised 1  作者: 宮沢弘
第三章: 喪失
11/18

3−1: 第40日

 先日、「玄関のドアの覗き穴からコードを覗いている感覚と言えばいいだろうか」と書いた。この数日で、この感覚をもう少しうまく表現できるようになったと思う。

 モーツァルトはスコアが全て思い浮かんでいた、あるいは頭の中で組替え編集したという逸話がある。モーツァルトと比べるのもおこがましいが、それでも言うなら、それに近いと言えるだろう。そして、モーツァルトを例に出すと、もう一つ便利なことがある。むしろ、この例を書くためにこそモーツァルトの例は便利だ。

 プログラムを書くという行為は、幾分なりともそれに似ている。書くことすべてを見渡して書くのだ。

 だが今は、自分のために面倒な図やドキュメントを書くようにしている。たった、書誌情報にアクセスし、少しばかりデータを表示させるプログラムであるにもかかわらず。それでも、まだ、である。まだこの程度ならある程度は何とかなっている。まだ頭に頼れる。そう思うのは、まだ感覚が現状に追い付いていないことによる錯覚なのかもしれないが。

 なぜ頭の中で見渡せないのかとも思う。そこに苛立ちがないと言えば嘘になる。

 だが、比べられるというのは面白い。私に埋込まれた補助脳が、1/1を割り込むように設定されていないのであれば、まだ1/1に近付いている段階だろう。1/1に制限されているのであれば、いわゆる普通に近づいているのだろう。というなら、消えかかっているように思えるこれまでの習慣は1/1を超えていたということか。それを比べられるのは面白い。

 1/1に対する過剰分は失なってもかまわない。ただ、そのようであったという感覚は、できれば忘れたくない。忘れたら、比べられないのだから。それとも、その感覚の内容も忘れ、あるいは理解できなくなるのだろうか。そして、比べられなくなるのだろうか。


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