シーン2「円は逃げ出した。しかし御曹司からは逃げられない!」
シーン2「円は逃げ出した。しかし御曹司からは逃げられない!」
なんで逃げてしまったのだろう……
逃げるべきではなかった。あれでは認めるようなものだ。
ぐるぐると思考は巡ってため息になった。
あれから三十分。
女子トイレの個室に円はいた。
フタを下ろした便座の上で、背中を丸めている。
「はあぁ……」
逃げるにしても、もっとうまいやり方もあったはずで、よりにもよって全力疾走とか最悪だった。
これまで築いてきた『桜枝円』の行動パターンで考えて、全力疾走はない。大勢の寮生にもばっちり目撃されている。
新聞部の張り出すスキャンダラスな見出しが目に浮かぶようだ。
『お嬢様像の崩壊』
『ツンデレ、発覚!』
……うん。死ねる。
落ち着いて冷静になればなるほど、自分を罵りたくなる。
あんなに取り乱すなんて、まったくどうかしていた。
でも、まさかあんなことを言ってくるなんて思わないではないか。
「あれが……鳳凰院……」
まともじゃない。正直なめていた。御曹司のなかの御曹司。手に入らないものはない。その意味を、正しくわかっていなかった。彼が言えば白も黒になる。資本主義に縛られた世界で、彼の言葉は神の啓示に等しく、誰もそこに疑問を挟むことは許されない。だから、ツンデレじゃなくても、ツンデレにされてしまう。彼の貼ったレッテルははがせない。
昨夜のルルの心配はある意味当たったというわけだ……
腕時計を見ると、もうすぐ一時限目の始まる時刻だった。
サボタージュはまずい。
ツンデレ疑惑はどうしようもないが、お嬢様のイメージはまだ修復がきく。奨学生という立場もある。
「……っよし!」
パシッ、と頬をはたいて立ち上がる。
うつむいてばかりいられない。
楽観的に考えるならば、貴志の興味は確実に円に向けられているわけで、目標へはちゃんと前進している。ツンデレだというならば、それはそれでやりようはある。
円は個室の戸を開けた。
「よぉ、長かったな」
――貴志が、立っていた。
「ぢょわあぁぁあっ! がっ」
飛び退いて円は元の位置に逆戻りした。
ガツンと後頭部をタンクにぶつけ、目じりに涙がにじむ。
いたひ!
「おいおい、大丈夫か?」
そんな円に、貴志はいたって普通に円のほうへ手をさしだしてきた。その手を、円は焦点の合わない目で呆然と見つめることしかできなかった。
「――な」
「な?」
「なんで……いるの?」
「ん? おまえを待っていたからに決まっているだろう?」
片眉を吊り上げた表情は、なにを言っているんだ、と言わんばかりだった。
「そういうことじゃ……」
「違うのか? いやなに、話の途中でいきなり走っていくから何事かと思ってな。追いかけたのだ。うむ、生理現象ならしかたがない。宣言して行くのも気恥ずかしいだろうからな。だが、わざわざ校舎のトイレに来ずとも寮のほうに行けば近かったんじゃないか?」
「だからそうじゃなくて――」
ここは女子トイレである。男子は入っちゃいけないのだ。
しかし、
「変態……って、言っても無駄なんでしょうね……」
だんだんわかってきた。
打ちつけた後頭部のじんじんとした痛みとはべつに、頭痛がする。
「ふー……落ち着け、わたし……相手のペースに呑まれるな……っ」
「なにをブツブツ言っている? ほら、さっさとつかまれ。いい加減、腕がだるくなってきた」
「……いいです。自分で起きられます。それよりそこをどいてください」
「ふむ。そうか」
貴志の手を払って円は身を起こした。
出口に向かう。貴志は後ろからついてきた。洗面所で蛇口をひねる。流れる水を見ながら思う。
だいじょうぶ……大丈夫、よ。わたしは落ち着いている。
顔を上げる。鏡越しに、腕を組んで壁にもたれて、平然としている貴志と目が合う。
「続きを」
「ん?」
「お話、途中だったのでしょう? 続きを聞かせてください。たしかわたしがその、アレだとかどうとかって……その続きです」
手はすでに洗い終えていたが、洗面台に手をついて、円は鏡に映る貴志と向き合った。
無防備な背中を見せているわけだけれど、それでも――直接顔を合わすより気圧されずにすむはずだ。
「ああ、そうだったな。だが円よ。腹の調子はよいのか?」
「……デリカシーって言葉、知ってます?」
「うん? なんだいきなり。それがどうかしたのか?」
わかってる。女子トイレにいて平然としてられるやつに期待はしていない。
「なんでもありません。おなかもべつになんともないです。それが?」
唇を尖らせて言うと、貴志はにやりとした。
「なに、これからデートに行くのだ。途中で腹が痛くなったら困るだろう?」
円はぽかんとした。
「デ、デートって、恋人同士が出かける、あのデートです?」
「他にあるのか?」
「……いえ。でも、これからって……授業あるんですけど」
「は? そんなもの、どうでもいいだろう」
「どうでもって……よくありません。わたし、奨学生ですし……条件厳しいんですから」
「ふむ……そうか」
あごに手をあててうつむいた貴志だったが、すぐに顔をあげた。
自信に満ちた笑顔があった。
「ならば今日は休講ということにしてやろう。どうだ?」
「いえ、どうだと言われても……」
「これで欠席にはならんぞ!」
「……はぁ。そうですね」
貴志は、ニタリ、と笑う。
「いっそのこと祝日にしてしまうのもいいな。『初デート記念日』か。うむ、悪くない!」
「や、やめてくださいっ」
いったいどんな罰ゲームだろう。
それにしても――
すでに貴志の脳内でふたりはカンペキに付き合っていることになっているらしい。いくら否定したところで無駄なことは、先刻の会話で十分に悟らされた円である。
「……それで。いったいどこへ連れて行ってくれるんです?」
校舎を出たところで、前を歩く貴志に円は尋ねた。
「オレの家だ」
「ぶっ」
危うくなにもないところで転ぶところだった。
「い、いま、なんて?」
足を止めて、貴志がこちらに振り返る。
「聞こえなかったか? オレの家、と言ったのだ。正確にはオレの入学にあわせてここの敷地内に建てさせた別荘だがな。なに、歩いて五分もあればつく」
「いえ、あの、そういうことではなく!」
家って。
そこはデートで行く場所じゃない。なんていうか、行き着く場所っていうか……つまり、とにかく、いきなり行くような場所ではありえない。いろいろステップを飛ばしすぎだ。
……ああ、でも、これは、ひょっとして、チャンス?
世の中には既成事実って言葉があるわけで。
……どうする?
「おい、どうした、顔が赤いぞ。やはり体調が――」
「っだ、だめです! まだ早いです!」
危ないところだった。安全日だったことに思い至ってよかった。
「早い? なにがだ?」
「あ、あなたねぇ……早いに決まってるでしょっ? そうですよ。仮に、もし、わたしたちが付き合っているってことにしても、早すぎます!」
「……意味がわからん。やはり熱が――」
「近づかないでケダモノぉ!」
どんっ、と思わず両手で貴志を突き飛ばしてしまう。
倒れた貴志は、けれどすぐに尻を払いながら起き上がった。
「オレは人間だが?」
「人間が一番こわいのよ!?」
自分でも意味不明に叫んだ。
そのとき――首筋にちくりと痛みを感じた。
「……あ、ぅ?」
目ぶたが急速に重くなり、足腰から力が抜ける。
「む。どうした。マドカ?」
最後に聞いたのは自分を呼ぶ貴志の声。
円の意識は急速に闇に落ちていった。