シーン3「優」
シーン3「優」
楽しみにしていますよ――と別れ際、怜一郎は言ってきた。
「本気でそう思ってる?」
「当然でしょう? あなたの花嫁姿を見たくない男がいるとでも?」
「……あなたが言うと、どうにも嘘くさいのよ」
結婚式を三日後に控え、円は一週間ぶりに屋敷を訪れていた。
衣裳合せをするためである。
試着室ならぬ試着部屋に入れられて、淡々と働くメイドたちによって次々に着替えさせられる。
円はただ、立っているだけでよかった。
「じゃあね。次に会うのは式かしら。籍は当日入れるのよね?」
「ええ。ああ、玄関まで送りますよ」
「いらないわ」
答えて、脇の台に壺なんか置かれちゃってる広い廊下をひとり歩く。
結婚したら、ここに住むことになる。
そんなもの待たずに住めばいいと怜一郎は言っているが、円は遠慮した。
何故ならここには貴志がいる。
だから本当は結婚した後だってここには住みたくない。
けれど、さすがにそういうわけにはいかないだろう。
形式だけとはいえ、怜一郎の『理由』として、体面は保たなくてはならない。
「…………」
十字路で、足が止まった。
まっすぐ行けば玄関――当日は式場となるエントランスホールに出る。
左は知らない。右に行けば……通い慣れた貴志の部屋だ。
見ていると、その先の突き当たりの角から、配膳車をキュラキュラと押して、小柄なメイドが現われた。
「……あ」
しまった、と思ったが遅い。
短い髪を頭の両サイドでぴょこんとなるようリボンで留めている。
メイドは優だった。
優もこちらに気づいて、ビクッ、と体を強ばらせた。
「あ、う、マドカ、さま……」
「……久しぶり、ね」
「は、はい、です」
お互いにぎこちない笑みを浮かべて挨拶を交わす。
「――あ、そ、その、おめでとうございます。ご結婚……」
「え、ええ。ありがとう……」
「…………」
「…………」
「……そ、それでは、ぼくはこれで」
そう言って優は、すれ違い様にぺこりと頭を下げてくる。
「あっ、まっ」
と、円は思わず声をかけていた。
けれど喉がつっかえたようになって、続く言葉は出てこない。
その間にも、こちらの声が聞こえなかったのか、メイド服の背中は来たのと反対側の廊下の奥へ、キュラキュラと遠ざかっていく。
……まあ、いいか。
そもそも優を呼び止めてなにを言うつもりだったのか、自分でもよくわからない。
円はきびすを返した。
玄関のほうへ足を向けようとして、
ふいに、胸の真ん中に風穴が開いた。
……あ。
いやもちろん、胸に穴なんて開いていない。
錯覚だ。
ただそんな気がしただけ。
「っ……優くん、待って!」
気づくと意味不明の焦燥感にかられて、叫んでいた。
ピタッと優が立ち止まる。円は走り寄っていって、
「あ、あの、さ」
「…………」
「あいつ……どうしてる?」
と、そう聞いていた。
聞いてからは、ばつの悪さを感じて、意味もなく天井や床へ視線を動かしたりした。
けれど、しばらく待っても、優から返事がない。
ちらっと優を見る。
「……優、くん?」
そこで初めて、円は優の様子がおかしいことに気がついた。
フリルのついた肩が小刻みに震えている。
見れば、ステンレスの取っ手を掴む小さな手が、白くなるほど硬く握りしめられていた。
さっきからずっと、こちらに背を向けたままだ。
「優く、」
ぱしっ。
肩に手をかけようとしたら、払われた。
「……どうしてそんなこと聞くのですか?」
硬直する円に、変わらず背を向けたまま、ようやく口を開いた優は逆に質問してきた。
「どうしてって……その」
「マドカさまには……もう、関係のないことではないですか?」
口ごもる円に厳しい口調で、優は重ねて問うてきた。
「それは……」
その通りだった。
返す言葉はない。
優は正しい。
怒るのは当然だ……
目を伏せる。
冷水をかぶせられた気分だった。
「ごめんなさい……無神経、だったわね……」
「わかってくれればいいのです。では」
と。
「キシさまはぁ、寝込んでおられますよぉ」
その声は、いつものように、背後から突然聞こえてきた。
立ち去りかけていた優がばっと振り返る。
「なっ、サダメさんっ、なんで言っちゃうのですか……っ」
まん丸にした目をこちらの背後へ向けて、抗議の声をあげてきた。
くくくくくく……とこちらの耳元で不気味な笑い声がそれに応える。
「べつにぃ、よいではありませんかぁ」
「よ、よくないですよっ。だって、キシさまがマドカさまには絶対言うなって」
「そのようなコト……ワタクシ、立ったまま失神していてぇ、聞いておりませんからぁ」
「そ、そんな……!」
「くふ、ユウちゃんはぁ、まだまだですねぇ」
「――ちょ、ちょっと!」
ふたりのやりとりを、間に挟まれて、円はぽかーんと聞いていたが、我に返って声をあげた。
「え、なに? あいつ、寝込んでるの?」
優を見るが、ふいっと唇を尖らせて横を向かれてしまう。
秘密を守るためにあえてそういう態度を取っていたのかも……なんて、一瞬淡い期待をしたものの、どうやら普通に機嫌を損ねてしまっているようだった。
自業自得だけれど、やっぱり悲しくなる。
背後へ目を向ける。
けれど、すでにそこにサダメの姿はなかった。
いまさら驚かないけれど、出現と同様の唐突さで、見事なまでに消え失せている。
また優に視線を戻す。
優はため息をついて、いかにも仕方なさそうに、こくんと頷いた。
「そうなんだ……」
「はい」
「……やっぱり、わたしのせい……?」
「他にあるのですか?」
「いえ……うん……そうね」
唇を覆うように手を当てて、円はうつむいた。
連日連夜のスパルタ勉強。
加えて、最後はアレである。
心当たりがありすぎる。
けれど……でも、だ。
やっぱり、やりすぎた、とは思わない。
だって、あの男はやると言った。
だったら結果がすべてだ。
あんな結末……許せるはずがない。
もしかして、と体調不良の可能性などを、考えなかったわけではない。
でも、彼は言い訳さえしなかったのだ。
どうしようもない。
許すことも……できない。
だから、悪いのはあいつだ。
自業自得というのなら、あいつこそがそうだ。
……そうよ。そうよ!
思い出したら、また腹が立ってきた。
……あんなやつ! あんなやつ! あんなやつ!
「あのそれ……五千万の壺です……」
「へ!? あ、ちょ、わーっ」
優の声に円は、両腕に抱え上げ床に叩きつけようとしていたその壺を、寸でのところで持ち直した。
元の台に戻して、ふーっと額に浮いた汗をぬぐう。
「危ないところだったわ……」
でもよく考えたら、そんなに焦ることはなかったかもしれない。
怜一郎と結婚すれば、この屋敷だってけっきょく、共有財産として円のものになるのだ。
だからって無闇に壊していいってことにはならないけれど。
「マドカさまって」
と、優がジト目を向けてきた。
「時々、奇抜な行動に出ますよね……」
「そ、そうかしら? そ、そんなことはないんじゃない……?」
言ってみたものの、さっきの今ではまったく説得力がない。
「そんなことあります」
案の定、断言されてしまう。
優はなにか考えるそぶりで下を向くと、顔を上げて、こちらにまっすぐ、目を合わせてきた。
「マドカさま……マドカさまは、そういうとき、なにを考えていらっしゃるのです?」
「え、なにって……?」
真剣な目つきに押されて、きょとん、と聞き返す。
「……キシさまのこと、ですか?」
言われてみればそうかもしれない、と円は思った。
なるほど、と納得する。
そうだそうだ。
「まあ……でも、そりゃ、そうよね? だって、わたしをイライラさせたりするのは、いっつもあいつなんだもの」
……まったく、どうしてあの馬鹿はいつもいつも……!
また腹が立ってきた。
……いけない、いけない。
再び壺(五千万)に伸びかける手を円はなんとか自制した。
優を見るとまたジト目になっている。
はぁ、と小さく息を吐いて、優がうつむいた。
お腹のあたりのエプロンの布地を両手でぎゅっと握って、
「ぼく、わかりません……」
「え?」
「マドカさまは、ほんとうは、キシさまがこと、好きなのではないですか……?」
なんてことを、言ってくる。
またか、と思った。
こいつもか。
「はぁ……あなたも、ルルみたいなことを言うのね。まったく……」
何度も言わせないでほしい。
「わたしがあいつを好き? そんなわけ――ないじゃない」
きっぱりと、告げる。
「言ったでしょ? わたしはあくまで鳳凰院の財産が欲しいだけ、だったんだから。あいつの勉強を手伝ってたのは、ただそれだけのことよ。それなのに期待はずれもいいところでさ……まあ、幸いこうして怜一郎と結婚できることになったわけだし? もういらないわ、あんなやつ」
スラスラと流れるように言葉は出てきた――まるでそうやって頭の中で何度も自分自身に言い聞かせていたかのように、それはもうスラスラと。
もちろん、そんなわけはないのだけれど。
最後に、ふん、と鼻を鳴らす。
「そうですか……わかりました」
うつむいた優の口元が、ゆっくりと弓の形に変わっていった。
「……優くん?」
「あはっ、それを聞いて安心しましたっ」
頭の両側で、結んだ髪をぴょこんと跳ねさせて、優が顔を勢いよく上げる。
にこぉ~、と満面の笑みが貼り付いている。
双眸が爛々と輝いている。
明らかにテンションがおかしいその様子に、まるで別人のようだ、と思った。
変なスイッチが入っている。
円の知らない優だった。
「――ところでマドカさま。どうしてキシさまがぼくたちに口止めをしたのか、わかっていらっしゃいますか?」
一転、ころっと急に笑顔を引っ込めて、神妙な口調で優は聞いてきた。
戸惑いつつも、円は思ったまま答える。
「へっ……え、ええと、まあ、あいつのことだから、またくだらない見栄でも張ってるんじゃないかしら……?」
「二十点です」
「……どういうことよ」
言い渡された点数に唇を尖らせて円は優をにらんだ。
自慢ではないがそんな点数は取ったことがないので、反射的にカチンと来た。
納得いかない。
普段の、いつもの優であれば、円ににらまれればすぐにおどおどしている。
けれど、今目の前にいる優は、おどおどするどころか、不敵な微笑みを返してきた。
「たしかにキシさまには見栄っ張りなところがあります。ですけど、それはキシさまの本質ではありません。わからないですか?」
「だから、どういうこと?」
円がそう言うと、またころりとダイスの目が変わるようにして、優の表情が、目じりをつり上げた剣呑なものへと変わる。
「まさか……本気で言っているのですか?」
返す声のトーンが低い。
「そんなの、あなたを心配させたくないからに決まってるじゃないですか」
「……え?」
「なんで……なんでわからないのですか? マドカさまは、こんなにもキシさまに愛されていらっしゃるというのに……!」
その目が、その声が、はっきりと円を責めていた。
「…………っ」
息を呑む。
むき出しにされたその感情を、知っている。
美少女として、これまで幾度となく向けられたことのある、それ。
優の暗い瞳に揺らめく炎はまぎれもない、嫉妬の色……でも、なんで。
「優……くん? もしかして、あなた……」
「こういう話を知っていますか? あるところにひとりの召使いと、ひとりのご主人様がいました」
「え……なに」
唐突に語り出した優に円は戸惑いの声を上げた。
けれど、有無を言わせないまっすぐな視線に、射すくめられる。
「召使いは、生まれたときから召し使いとして生まれました。ご主人様も、生まれたときからご主人様として生まれました。だから、召使いには最初からわかっていました。これは叶わぬ恋だと。ふたりの身分はあまりにも違いました。それならいっそ……召使いは自分を偽ることを決めました」
「――それって、」
「はい。そうです、マドカさま」
くすっ、と悪戯っぽく微笑んで。
「ぼく、『女』です」
彼女は言った。




