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そら模様  作者: アル
9/10

九輪〈グミ〉

 




 雨のにおいが、テスト中の教室に充満している。

 湿気にあおられて広がる髪を手の平で押さえる女子生徒。面倒くさそうにあくびをしている男子生徒。降りしきる雨が窓ガラスを叩いている様子を、おぼろげに見つめる一人の生徒。

 梅雨に入ったせいで雨が止まない日が続いているが、そんな天候もその生徒の心境を表しているのでは、と思うほど。目からこぼれる涙の代わりに、降り続けている雨を見つめているのかもしれない……。そう見えるくらい、哀愁を帯びていた。


 合宿の日から休日を挟んだ月曜日、空本夕月は登校してこなかった。予想はしていたし、しばらく来ないだろうとさえ思っていた。この程度で休むとはまだ若いなと心の中で皮肉を呟きつつ、顔を合わせずに済んだことに少なからず安心している自分もいる。

 だが、翌日には私の安心をいとも簡単に砕いて、空本は席に着いていた。その表情は凛としているようだが生気がなく、まるで義務を果たすためだけに来たと言わんばかりの雰囲気だ。

 もしも本当にそうであるならば、学生として正しい。空本の行動は、正しい。私は教師として恥ずべきことを考えた、と身が引き締まった気がする。

 これ以上一人の生徒に乱されるのは良くないだろう。以前のようにただの教師と生徒に戻れると、そう信じて疑わなかった。

 そして、生徒達の成績が出た頃。


「期末テストで赤点を取った生徒は、夏休みの夏期講習に強制参加だ」


 ホームルームの時間にそう告げると、夏休みを間近に控えた生徒達から、微かに抗議の声が上がる。その中で、空本は眉根を寄せながら成績表を見つめていた。

 空本夕月の期末テスト結果は、九教科中の四教科が赤点。中でも、数学は十八点という悲惨な数字だった。

 五日間ある夏期講習を免れることはできず、それも連日登校して勉学に励まなければならない。

 冷房のある広い図書室が、夏期講習の会場だ。そこで生徒は午前中だけではあるが、講習用の問題集を解いて過ごす。

 もちろん、夏期講習の目的は学力向上のためであり、教師も質問等に応じるため常に数人ほど駐在する。私も、その内の一人だ。

 数日とは言え、毎日顔を合わせることになる。そのことを、空本はどう捉えているのか……。

 その考えを払拭したくて、私は講習に使う問題集を作成することに集中した。




   * * *




 八月十日、夏期講習の初日。時刻は九時五十三分。

 図書室で他の教科担当の先生と生徒達を待っていた私は、問題用紙の束をテーブルに三つ置き、近くの本棚を眺めていた。

 歳のせいか、近頃視力が落ちているように感じる。実際に、二メートル先にある棚に並ぶ本の背表紙は、黒く塗り潰されたような丸が並んでいた。何の本が陳列されているのか、よくわからない。


「おはようございます」

「ん……あぁ、おはよう」


 不意にかけられた声に振り向くと、自分のクラスの生徒ではなかった。髪を後ろで一つに束ねた、真面目そうな顔立ちの女子生徒だ。

 夏期講習は赤点を取った生徒は強制だが、それ以外の生徒は自由参加になっている。この生徒も、自主勉強のために訪れたのだろう。

 教科担当の教師の前に並べられた問題用紙を一枚ずつ取るよう指示をして、私は再び自分の席と決めた椅子に腰を下ろした。


「……フゥ」


 思わず漏れたため息に、落ち着かなくなって問題用紙を一枚手に取った。何度も確認した問題と答えに、間違いがないか再び確かめる。そうして暇を持て余している内に時は経ち、生徒達がまばらに図書室へと集まり始めた。時刻は十時七分。

 暗唱できるほど眺めた問題に再び目を落とし、不意に我に返る。新学期で行う授業の準備をしなければいけないのに、道具を忘れていた。


「すみません、少しの間ここをお願いします」

「ああ、いいですよ」


 隣にいた教員に持ち場を預け、私は早足で図書室を後にする。

 確か、自分のデスクに教科書や段取りの計画表を、夏期講習用プリントの横に置いていたはず。それでも持ち忘れてしまったのは、プリントしか見えていなかったからだ。もっと言えば、プリントの先……彼女が問題を解く姿しか考えていなかった。この程度なら解けるはずだ、と。

 応用問題も混ぜてあるから、わからなければ質問に来るかもしれない。……いや、来るだろうか。


「何を、考えているんだ……」


 数学準備室の鍵を握る手には、汗が滲んでいた。

 授業で使う問題集のノートや教科書、その他の用紙を持って図書室に戻ると、ほとんどの席が生徒達で埋め尽くされていた。夏期講習用の問題用紙も、残り数枚になっている。


「朝日先生、あれから生徒が何人か来ましたよ。私はこれから用紙のコピーを取ってきますけど、一緒にやってきましょうか?」

「じゃあ、二十部ほどお願いします」


 快く受け入れてくれた先生に軽く会釈を返し、テーブルに教科書類を置いて椅子に腰を下ろした。

 天井近くに溜まった熱気を頭上に感じていたが、座ってしまえば快適な温度だ。

 ほどよい雑音の中は集中力が増す。今の内に作業を進

めてしまおう、と教科書を開いた。


「先生、ちょっといいですか?」

「ん、ああ。どうした?」


 テーブルを挟んだ向かいに立っているのは、隣のクラスの染谷……だったか? 朝に弱いのか、眠気をはらんだまぶたを重そうに持ち上げている。立ち姿も心なしか気怠そうだ。

 そんな染谷は、声をかけておきながら私に背を向けて歩き出した。自分のいる席まで来い、ということなのか。私を誘導しているようにも見えて、席を立つことがためらわれる。

 行けば、もしくは……いや、確実にそうだろう。来たときの姿を見てはいないが、空本が来ているはずだ。顔色が気にならない、と言えば嘘になる。だが、会ったときにこの動揺が顔に出ないだろうか……。

 考えていても仕方がない。意を決す思いで、私は立ち上がり染谷の後を追った。


 何故かまた、手汗を握りしめている。

 それぞれのテーブルから聞こえてくる微かな話し声も、まるで私のことを言っているように感じた。向けられる視線は軽蔑を、口から漏れる言葉は嘲笑を含んでいるようにさえ思う。

 鉛を飲み込んだように、腹の底が重くなった。


「ここです、先生。一緒に見てもらえますか?」


 染谷が立ち止まり、こちらを振り向く。

 その背後には、控えめに私を見る丸い瞳。交わった視線に戸惑って、私は目を逸らしてしまった。一瞬泳がせた視線を戻すと、あの瞳はもうこちらを見ていない。

 心臓が、嫌な音を立てる。次の健康診断で引っかかるのではと思うくらい、痛い。

 何か言わなければ、と謎の使命感に駆られて口を開いた。


「おはよう、空本。今日は遅刻しなかったか?」

「はい、大丈夫です……」

「このプリントは一学期の復習だぞ。教科書は持ってきているか?」

「え……すみません、忘れました」


 染谷が席につくと、空本はますます俯いてしまう。私に顔を見られたくないのだろう。

 だが、教師として応じるのは当然だ。そうしなければならない。


「少し待っていろ」


 自分の教科書を取りに、元来た通路を戻る。

 先ほどまで私を見ていたような気がする視線は、もう感じない。空本と直に言葉を交わして少し緊張が解けたのか、腹の重みもなくなっている。

 教科書を手に空本達のテーブルへ戻れば、既に問題用紙に手をつけていた。


「できそうか?」

「えっと……問五くらいまでなら、なんとか」

「基礎はできているな。応用が苦手か。この問題にはコツがあるんだが、この公式は覚えているか」

「あ、見たことあります。えっと、ここの数字を順番に代入するんですよね?」

「ほう、ちゃんと覚えているじゃないか」


 私の言葉に空本は少し微笑み、用紙の上を走るペンも動きが軽やかになった。それからは染谷も交えて時折談笑しつつ、数枚あった問題用紙はあっという間に終了。

 私が用紙の採点をしている間、二人は別教科の問題用紙を解いて過ごしていた。

 空本の採点結果は八割程度が正解で、これだけできれば学期末のテストも悲惨にならずにすんだろうに。だが、原因に心当たりがあるだけに胸が痛んだ。


「採点終わったぞ。この調子で明日も頑張れ」

「はい…!」

「夕月、まぁまぁね」

「あっ、茜はまた満点…!?」


 お互いの問題用紙をのぞき込みながら、明るい声を漏らした。その様子を見ているだけで頬が緩む。

 普通に喋ることができただけでも安心した。もう、笑顔を見ていないと心配することもなくなりそうだ、と。




   * * *




 夏期講習は無事に進み、今日は最終日。

 問題用紙をいつものように用意してテーブルに並べていると、図書室の扉がゆっくり開かれる。そこから覗く丸い瞳が、私の姿を捉えてスッと細められた。


「おはようございます、先生」

「おはよう。今日は早いな」


 そう声をかけると、空本は扉に体を半分隠してはにかむ。子供が菓子をねだりに来たような、そんな無邪気さを感じさせた。高校生にもなってそんな印象を持つのは、おかしいことだろうが。


「朝日先生だけですか? 他の先生は?」

「今日は私が図書室を開ける番だったからな。じきに来られるだろう」

「そうなんですか」

「今日は一人か?」

「はい。茜は、もっとゆっくり寝たいから今日は行かない、って言ってたので。あ、先生これどうぞ」


 手渡されたのは、個包装された小さな菓子だった。

 白い粉を薄くまとったオレンジ色の半透明な塊は、飴にしては柔らかい。

 普段自分で買うことのない菓子に少し戸惑ってしまう。それが伝わってしまったのか、空本は少し心配そうに私を見上げていた。


「もしかして、グミは嫌いでしたか?」

「いや、自分で買ったことがなくてな。ありがたくいただこう」


 包装を破って口に含むと、まず最初にひんやりとしたパウダーが口内を刺激する。噛めば跳ね返される弾力は、普段味わうことのない触感で、年甲斐もなく胸が躍るよう。まだ冷房の効いていない部屋の暑さでうだる中、爽やかな甘みが心地良かった。

 グミを堪能する私を見て、嬉しそうに空本が笑う。その顔が昨日よりも赤いような気がした。

 今日も朝から暑く、部屋も熱気をはらんでいるためサウナのようだ。熱中症の文字が、脳内を横切る。


「体調でも悪いのか?」

「えっ、大丈夫ですけど、どうしてですか?」

「顔が赤いだろう」


 少し身をかがめて顔をのぞき込めば、空本の頬はさらに赤みを増した。すぐに目をそらしてうつむくその仕草は、何か言いたいことがあるように見える。

 このままでは、勉強に集中できそうにないな。時刻は、九時五十六分。

 私は椅子に腰を下ろした。


「講習の時間まで、まだ余裕がある。話したいことがあるなら、今なら聞けるが?」

「え!? えっと……」


 空本は目を泳がせながら、プリントを筒状に丸めている。

 一度辺りを見回し、誰もいないことを確認したのか私の方へ向き直った。何かを決心したような、強い光が瞳に宿っている。


「あ、あの! 今日の夕方は、仕事ですか?」

「夕方? いや、この講習が終われば休みだ」

「じゃあ、今日ーー」

「夕月ちゃん、おっはー!!」


 勢い良く開かれた扉から、円明が飛び込んできた。

 円明は赤点もなく、今まで夏期講習には参加してこなかったというに、今日はなんなんだ。新学期が始まるまで見ることはないと思っていた顔は赤く、額に汗が滲んでいるように見える。平静を装ってはいるが呼吸が軽く乱れている所を見ると、どうやら走ってきたらしい。

 そんな円明を、空本は口を噤みながら睨んでいた。


「夕月ちゃんが講習来てんの知らなかったわ! 茜ちゃんにも遊ぼって連絡してんのにスルーだしさぁ」

「用事があるから夏休みは忙しいって、終業式の日に言ったはずだけど」

「えー、聞いてねぇし」


 円明の乱入は、空本も予想外だったらしい。

 時計に目をやれば、針はタイムリミットの十時を示していた。空本の話をしっかり聞いてやることができなかったことは、心残りだが仕方ない。


「ついでだ。円明もプリントをやっていけ」

「は!? なんで俺が!!」

「それなら、何をしに来たんだ」

「えっ、何って……」


 円明がチラリと視線を向けた先には、眉根を寄せて不満そうにしている空本がいる。

 ……そうか、こいつは空本のことが……。

 思い返せば、それらしい行動をいくつか見たような気もする。学生生活でありがちな青春の一ページ、というやつか。


「お前は英語が得意だっただろう。空本に教えてやれ」

「夕月ちゃん、英語も赤点だったのかよ」

「き、基礎はちゃんとできてるから!」


 茶化す円明に対し、赤面しながらも空本は言い返そうとする。

 二人を見ていると、なんとも言えない気持ちが胸の中を犯していった。煙を飲み込んだように、重さのない暗い塊が渦巻いている。

 若さを輝かせる生徒達の眩しさに耐えられなくなって、視線をそらした。


「先生、さっきの話なんですけど……」

「悪いな、もう時間だ。話は終わってからにしよう」

「私と一緒に、夏祭りに行ってください!!」

「……祭り?」

「おまっ! 俺がこの前に誘ったやつだろ!!」

「だから、暁とは行けないって言ったよ!」

「はー!? 俺も行く!!」


 うるさい口論が繰り広げられる中、私の目には夏祭りの情景が浮かんでいた。

 空本に言われるまで忘れていたが、今日は駅前付近で出店が立ち並ぶ。商店街の道路を一部封鎖して、御輿をかつぐイベントもあったはずだ。

 最後に祭りと呼べる場所へ行ったのは、いつだったか。

 口論を終えた空本の目が、まっすぐに私を見上げている。その眼差しに、私は微かに目を伏せた……。



 

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