三輪〈マカロン〉
いつもより早く目が覚めた私は、ゆっくりと朝食を終えてのんびりと家を出た。
快晴、とまではいかないけれど、気持ちの良い天気だ。
「毎朝こんな風にダラダラ学校行けたら良いのになぁ」
早起きが苦手な私に、こんな奇跡のような朝を迎えることなんてできるわけがない。イケメンの幼なじみが、呆れながらも毎日迎えに来てくれるくらいのイベントがないと。
けれど、そんな存在は私にはいない。
「誰かが毎日モーニングコールしてくれたら、自分でアラーム消して寝坊することもないのに」
頭上の雲を見つめながら、そんなことを呟く。もちろん、毎朝声が聞けるなら誰でもいいわけじゃない。
ふと、あの人の声が聞こえた気がした。
『朝だ、空本。早く起きろ』
『おはよう空本。今日は自分で起きれたのか』
『今日の朝食はホットケーキだ。ハチミツは好きなだけかけろ』
『……夕月』
カッと顔が赤くなるのを感じて、私は両手で頬を叩くように押さえた。
今、私は何を考えてた!? 途中から電話の妄想じゃなくなってたよね!?
これが俗に言う欲求不満だとしても、仕方ない。私だって年頃の女の――。
「危ないと言ってるだろ!」
「わっ!!」
肩を掴まれ後ろへと引き寄せられた直後、目の前を車が横切って行く。前の横断歩道の信号が赤になっていて、あのまま進んでいたらと思うと一気に血の気が引いた。
「何度声をかけても気付かないとは、お前の耳は飾りか?」
「せ、先生!?」
呆れた顔をしている朝日先生が、私の肩から手を離して大きくため息をつく。
何故こんな所に? この時間に? この道が通勤路? なんて疑問は、先生が片手に持っている物を見て悟った。
「それ、中身は何ですか?」
「キャラメルラテだ。この店は朝からやっているからな」
「さすが先生、リッチですね」
「やらんぞ」
「いりませんよ! 羨ましいですけど……」
この道にある人気コーヒー店の紙コップをかかげる先生の顔が、すごく嬉しそうに見えた。
信号が青になって歩き始めた先生の広い背中を見ると、さっきまで私の肩に先生の手があったことを思い出して同じ場所にそっと触れる。
「どうした空本。また遅刻するつもりか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
数メートル先で、先生が振り返って私を待っている。たったそれだけのことで女子高生をときめかせてるって、気付いてますか? できればもうしばらく気付かないでください。私は、こうして先生と並んで歩けるだけで幸せです。
「すまなかったな」
「へ?」
「クッキー、うまかった」
「え、あ……ありがとう、ございます!」
実は先生に言われるまで、クッキーのことは忘れていた。夜は思い出さないように努めていたけれど、朝に先生と出会ったことですっかり頭から抜け落ちていたのだ。
「何で、すまなかった、なんですか?」
「あの時、空本の顔が引きつっていたからな。また怖がらせたんだろうと思っただけだ」
「また、って……」
「私が、気付いていないとでも思ったのか」
罪悪感に襲われて、私は俯いた。
今でこそ先生のことを知って恐怖は薄れたけど、つい先日も逃げ出したばかり。あの行動が先生を苦しめたのかと思うと、胸が締め付けられた。
「私も悪かったがな。昔から、不器用だとよく言われた」
「先生って不器用なんですか?」
「……手作りの物を渡されるのは、初めてでな。あんな反応しかできないのは仕方ないだろう」
やっと顔を上げて先生を見ると、そっぽを向いていた。それでも眉間の深いシワが見える。その表情はいつも見る怖い顔だけれど、今日は違和感があった。
耳が真っ赤だ。
「もしかして、照れ隠しに顔をしかめてたんですか?」
「そういうことは分かっても口にするな」
放課後ティータイムの翌日も、恥ずかしさからあんな顔をして誤魔化していたのだろうか。それとも照れくさくて?
どちらにせよ、先生は私のことを嫌ってなんかいなかった。それだけで十分で、思わず笑みが零れた。
「先生、紛らわしい顔はやめてくださいよ」
「私がいつそんな顔をしたんだ」
「ついさっきですね。あ、今もです」
「くだらんことを言うな」
そんなことを言いながらも、歩調を私に合わせてくれている。些細なことに気付く度、私は恋に落ちてる。角砂糖が紅茶に溶けていくくらい、自然に。
「来週何があるか覚えているか?」
「親睦会の合宿ですよね」
「合宿所が山奥にあるらしくてな、そこではまだ桜が咲いているそうだ」
「そうなんですか? 桜と言えば花見ですよね」
「花見と言えば団子だな。串に刺さった三色のあれだ」
「それじゃ花より団子になっちゃいますよ」
合宿の内容は確か、午前に森林の散策、昼にカレー作り、午後は自由行動、合宿所での夕食の後にキャンプファイヤー、だった気がする。
先生が言うようにまだ桜が見れるなら、これはチャンスだ。
「あ、あの、先生!」
「何だ」
「合宿にお団子買っていきますから、一緒に花見しませんか!?」
「なに?」
私の言葉が予想外だったのか、先生が一重で切れ長の目を少し見開いている。
甘い物で釣るのは卑怯な気もするけど、こうすれば先生も私に付き合ってくれるかもしれないなんて、淡い期待を持っていた。
「……そうだな、考えておこう」
「は、はい!」
「ああ、団子で思い出した」
突然ゴソゴソと鞄をあさり始めたかと思うと手の平サイズのかわいい紙袋が出てきて、先生お気に入りのケーキ店のロゴが見えた。
今日はこれをお供に紅茶を頂く、という自慢話でも始まるのだろうか。
「やろう」
「え…!?」
恐れ多いと思いながらも受け取ったそれはとても軽く、中からチラリと見えるのは五色のパステルカラー。私には少し高価で気軽には手を出せないマカロンだった。
* * *
「今週の木曜と金曜は合宿だ。今から準備をしておけ。忘れたとしても取りに戻る時間はないぞ」
朝のホームルームで、クラス中から落胆する声がした。高校生にもなって親睦を深めるために合宿へ行くなんて、幼稚なイメージでかっこ悪い。正直、私もそう思っていたけれど、今は楽しみで待ち遠しいくらいだ。
顔がほころんでいるのを隠すために両手で口元を覆うと、朝日先生とバチッと目が合った。一瞬だけなのに恥ずかしくて、私から目をそらしてしまう。
「連絡は以上だ」
いつものように、先生は教室を出て行く。
私も同じように一時間目の準備を始めたけれど、クラスは普段よりザワついていた。
「なぁ、見間違いじゃねぇよな?」
「そんな気がすんだけど、分かんねぇよ」
「いや、あれは絶対そうだって!」
何の話だろうかと気にしたところで、私にはきっと関係ない。国語の教科書を机に出した後、いつもの習慣でスマホの通知を確認した。
「朝日の奴、絶対笑ってたって!」
「だよなぁ?」
「アイツでも笑うんだな。キモくね?」
ギャハハと廊下まで響いている男子の笑い声。
私は鞄からイヤホンを取り出して耳につけ、ジャックをスマホに乱暴に突き刺して曲を再生する。大音量の曲が、ようやく男子の笑い声を消してくれた。
朝日先生が笑ったのは、私が目をそらした直後だったんだろうか。それを残念に思うよりも、先生を罵られたことに腹が立った。
先生の微笑みは柔らかで、実は暖かくて、すごく貴重で、見たさに努力しても見れないのに。
心が落ち着くよりも先にチャイムが鳴ってしまい、渋々イヤホンを鞄に戻す。今朝もらった紙袋が見えて、受け取った時の記憶がよみがえった。
『マカロンなんて、いいんですか!?』
『味はいいが、食べづらくて苦手でな。若いお前はこういうのも好きだろう』
『先生、おじさん発言ですね』
『言っておくが、食べづらいだけで食わんわけじゃないからな』
先生の素敵なところを知っているのは私だけでいい、なんてワガママだろうか。
もらったマカロンが宝石のように輝いて見えて、とうの昔に溶けた怒りの代わりに暖かい気持ちで心が満たされる。私は特別だと、言われている気がした。