一輪〈ミルクティー〉
私を励ますように、青空が澄み渡っている。昨日の雨が作った水鏡も、ぬかるんだ校庭の中で空を映して輝いていた。
こんなにもどんよりとした私の気持ちを晴らしてくれようとしているのに、どうしても晴れやかな気持ちにはなれそうにない。
「ハァ……」
廊下の窓から流れてくる春の風が、ため息と一緒に憂鬱な空気を遠くへ運んでくれればいいのに。窓ガラスに酷く歪んだ私の顔が映って見えて、これではいけないと思い直す。落ち込んでいても時間は戻ってこないのだから。
ゆっくりだった歩みを止め、静かに深呼吸をする。心の準備ができたところで、私は重い扉を開いた。
「おはようございます……」
「堂々とした遅刻だな、空本夕月」
「……すいません」
今は朝のホームルーム中。担任の朝日先生が教卓から私を睨みつけていた。透き通るような白い肌の額に、青筋が浮いて見えるような気がする。百九十センチはあろう高身長、細身なのにガッシリとした肩幅のせいで威圧感が半端じゃない。
そんな先生の鋭い目付きとクラス中の視線が刺さって痛くて、私は静かに歩いて自分の席についた。
「空本、罰として遅刻の反省文をノートに書いて提出しろ」
「え……」
「放課後に持って来い」
しんと静まり返っている教室に、チャイムの音が響き渡る。私の返事を聞くこともなく、先生はカツカツと靴音を鳴らしながら教室を出て行った。
私達の担任は、いわゆる学校内の嫌われ者。無口で無愛想な態度に加え、陰険や根暗などの尾ひれがついているほど。それに、怒らせると怖い。先生に口答えをして逆らった生徒を泣かせた、なんて話は一度や二度ではない。怖いからできるだけ関わり合いたくない、そんな人だった。
「ついてないなぁ……」
私は適当なノートを取り出して開く。ペンケースから気に入ってるペンを探している最中、クラス中からヒソヒソと話し声が聞こえてきた。
「バカだな空本」
「反省文とか、だっせぇ」
腹は立つけれど、寝坊したのだから自業自得だ。ノートの一番上の行に「遅刻の反省文」とだけ書いたところで、一時間目の授業が始まってしまった。
* * *
休憩時間を全部使って、ようやく反省文を書き終えた。
数学教師である朝日先生がいる数学準備室は、私達が授業を受ける校舎とは別の棟にある。そこまで行くのに五分かかり、準備室の扉を開くのに一分を要した後、三度深呼吸をして扉を叩いた。
「失礼します。朝日先生はいらっしゃいますか?」
「空本か、何の用だ」
「何のって、反省文を持って来たんですけど……」
「ああ、本当に書いて来たのか」
先生に言われたんですから、逆らえるわけないです。なんて言葉は、口が裂けても言えない。
気のない返事をした先生は机の上を睨みつけたまま、私の方には見向きもしない。チラリと覗いてみると、先生の手にはスマホが握られていた。右手の人差し指が、画面を指したまま微動だにしない。もしかして、使い方が分からないの…?
「先生、この前までガラケーでしたよね? やっとスマホデビューですか。分からないなら私が教えましょうか?」
「私をオッサン扱いするな。それにまだ二十八だ」
朝日先生の弱味を知って思わず零れた笑みが凍りつく。しまった、調子に乗りすぎた。先生の目が、ここで初めて私を捉える。蛇に睨まれた蛙とは、このことだろうか。怒られる……私も泣かされる……。そう考えるだけで目頭が熱くなった。
「私も、バカにされたものだな」
「ご、ごめ……すいませ……」
「アラームの設定が分からない。どこにあるんだ?」
「へ?」
「教えてくれるんじゃないのか。本当に冷やかしだったのか?」
「いっ、いえそんな! えっと、先生の機種はこの上から下にスワイプして……」
ものの数秒で、やりたかったアラームの設定を終えた。相当苦労していたのか、先生は目頭を押さえながら深く深く息をついている。
「空本に教わることがあるなんてな。だが助かった」
「お役に立ててよかったです」
怒られなかった事実に安堵して、そろそろ反省文を提出して帰ろうとノートを取り出す。先生の顔色を伺うと、さっきよりも表情が硬い気がした。もしかすると、さっき怒れなかった分、今から怒られるんだろうか。寒気がして身を縮めた瞬間、先生の鋭い眼差しがこちらを向いた。
「こっちへ来い」
「……え?」
促されて入ったのは、準備室と隣接している空き教室。移動教室などで使われる所だ。先生に指定された席へ腰を下ろし、机の上に反省文を書いたノートを置いた。どこかへ行く先生の背中を見ながら、説教なら三十分から一時間くらいだろうかと考える。
「……邪魔だ、それをどけろ」
頭上から降ってきた低い声。ふと顔を上げると、先生がティーカップと白い箱を持っていた。
「せ、んせ? 何ですかそれ……」
「ノートをしまえ、汚れる」
「あ、はい!」
ノートを鞄にしまっている最中、机の上にカチャリとカップが置かれる。白い湯気と共に漂う柑橘系の香り、澄んだ色をした紅茶だ。
「アールグレイは好きか? ミルクを入れるならこの茶葉がいい」
「へ、へぇ……」
「この店のシフォンケーキが、この紅茶には合う。チーズケーキもいいがな」
徐々に勉強机の上がアフタヌーンティーの場へと変わっていく。不愛想な朝日先生が私の目の前で優雅にティーカップを傾けている。私がここにいることが場違いな気がしてならない。
いたたまれなくなって、考えるより先に口が動いていた。
「せ、先生って甘党、なんですね」
「……よく言われるが、おかしいか?」
「おかしいっていうか、イメージと違ったので……」
先生の声音が寂しそうなのは気のせいじゃない。カップの持ち手に絡まる指が、居心地が悪そうに動いた。
「前の赴任先の先生にそう言われてな。それ以来、校内では甘味を我慢している。苦手なコーヒーも飲めるように努力した」
無口で無愛想でプライベートを一切表に出さない朝日先生は、どこに行ったんだろう。今私の目の前にいるこの人は、本当に私が知っている朝日先生なんだろうか。カップを静かに置く仕草、満足そうにつかれるため息。その全ての動作に、目が奪われる。
「どうした、飲まないのか」
「え、あ、いただきます!」
カップを持ち上げると、冷めているのに高揚感を掻き立てる香りがする。口内に広がる優しい甘みに、頬が緩んだ。
「おいしい……」
「そうか」
「……あの、何で私にこんな……頑張ってコーヒー飲んでたんですよね? 反省文は…?」
「ここのケーキは昼に行かないとすぐ売り切れるんだ。紅茶は一人で残業する時のために置いてある。今日の遅刻は寝坊だろう? 言い訳には興味が無い。だが、真面目に反省文を書いてきた空本になら、また教わってもいい」
そう言って、先生はスマホを取り出した。その顔はまるで少年のように悪戯に微笑んでいて、また初めて見る表情。
先生が私のために用意してくれた甘みは、口に含むたびにドキドキした。