第三夜 旅籠(はたご)
ちょっとくだらない掌編ホラー三編。
同時投稿ですが、どれから読んでいただいても問題ありません。
先輩と温泉旅行に行った時の話です。もう一年くらい前になるんですけれど。
面倒なプロジェクトが一段落したところで、先輩から誘われたのがきっかけでした。
「知り合いが温泉旅館やっててさ。安く泊まれる部屋があるんだ」
この言葉、その時にもっと噛み砕いて考えていれば、と何度も後悔しましたよ。
“安く泊まれる旅館”じゃなくて、“安く泊まれる部屋”なのですよね。旅館自体が安くしてくれるわけじゃなくて、「その部屋なら安くしてあげる」という意味でしょう。
天然温泉があって朝夕の食事つきで三千円という金額を聞いた時にも、私は何故か疑問を抱きませんでした。
後で聞いたのですが、先輩が色々と理由を並べ立てて、私を無理やり納得させたそうです。
口が上手くて性格が悪い先輩はさておき、旅館そのものは良いところでした。
建物は古いですけれど綺麗でしたし、温泉も広くて、白く濁ったお湯は丁度良い温度でした。
延々と運転させられた疲れもあり、ぐったりと露天風呂の縁にタオルを枕にして、ふやけるまでお湯を堪能しました。
そして、部屋に戻るとたっぷりの海の幸。
これが三千円なら、月一で来ても良いくらい、とこの時点では思っていました。
「こういう旅館って、幽霊とか出そうだよね」
日本酒が進んで、すっかり出来上がった先輩が、突然妙な事を言い始めました。
「止めてくださいよ。お酒もご飯もおいしいんですから、素直に楽しみましょう」
「御札くらいあるんじゃないかな?」
私の言葉を無視して、先輩はふらつく足取りで室内に飾られた掛け軸の前に立ち、手を伸ばしました。
御札があったら嫌なのもありましたが、酔っ払って破いたりする方が怖かったです。
「うん?」
掛け軸をめくった先輩が、首をひねっています。
私は、見たくはありませんでしたが、先輩の様子を見ると、自然に視界に入ってしまいます。筆でくちゃくちゃと何かが書かれた、白くて縦長の紙が。
「御札、だよねぇ?」
「……最悪だぁ」
すっかり良いが醒めてしまった私は、残りの食事を食べてしまうと、再び温泉へと向かいました。
先輩は、旅館のゲームコーナーに入り浸るそうです。
「さっさと寝ちゃいましょう」
「そうだね」
温泉ですっかり温まった身体を、用意された布団に押し込みました。
先輩は、古いゲームが沢山あったと上機嫌です。その笑顔に腹が立ちます。
時間は判りませんが、ふと真夜中に目が覚めてしまったのは、何故だかわかりません。
ちらり、と隣で眠る先輩を見ましたが、ぐっすり眠っているようです。
大らかで人気のある人ですが、付き合いが深くなると細かい部分が目につく人です。私が神経質なのかもしれませんが。
とん、とん。
心臓が止まるかと思いました。
先輩の布団の、さらに向こう側。
障子の向こうのガラス戸あたりから、ノックするような音が聞こえました。
こん、こん。
少し、音が強くなりました。
当然、確かめに行くような勇気はありません。
ぎゅっと目を閉じて、音を無視することにします。
こん、こん、こん。
こん、こん、こん、こん。
間を空けて、一定のリズムで叩く音。
回数が増えていくのに気付きながらも、考えることを放棄しました。
ですが、音は次第に大きく、乱暴になってきます。
だん、だん、だん、だん、だん。
だん、だん、だん、だん、だん、だん。
いったい、ガラス窓の向こうには何がいるのでしょうか。
このまま放置していたら、いつか収まるのでしょうか。
あの御札があれば、大丈夫なのでしょうか。
祈るような気持ちで、布団を被って震えていたのですが、甘かったようです。
いつの間にか、音は室内へと移っています。
とん、とん。
とん、とん、とん。
今度は、窓の内側、椅子と小さなテーブルがある小さなスペースと和室を仕切る、雪見障子が震えています。
あまりに怖くなった私は、小さく布団をめくって障子を見てしまいました。
「う……」
障子の向こう側に、ゆらゆらと人のような形をした影が揺れています。
御札は効かなかったのでしょうか?
だん、だん、だん、だん。
また、音が大きくなってきました。
これが続けば、次はこちらまで入って来る、と考えたくも無いのに考えてしまう。
だん、だん、だん、だん、だん。
障子がまるごと外れるんじゃないかというほどの音がします。
ふと、隣で何かが立ち上がる音がしました。
侵入された、と緊張に身体をこわばらせた瞬間に、叫び声が響きました。
「うるっさい!」
酔ってぐっすり眠っていた先輩も、ようやく目が覚めたようです。
真横でどんどん音を出されて、ご立腹の様子。
「なんだ、こりゃ……」
そっと布団から様子を伺うと、先輩は障子の向こうの影を見ていました。
じっと見つめてから、ため息を一つ。
「ペン持ってるか?」
なぜ起きているとわかったのか、暗い部屋の中で、先輩が私を見下ろして言いました。
「か、鞄の中にありますけど……」
私がバッグを指差すと、先輩は乱暴に手を突っ込んで、サインペンを取り出しました。
「まったく、面倒くさいなぁ」
ブツブツとぼやきながら、あろうことか、先輩は掛け軸をめくり、例の御札を剥がしました。
「ええっ!?」
驚く私を無視して御札にぐりぐりとペンを走らせた先輩は、叩きつけるようにして元の壁に御札を貼りなおしました。
「うそ……」
べち、と壁に御札がくっついた瞬間、影は消え、音も収まりました。
面倒くさそうに、開いたままの鞄の口に向かってペンを投げ、先輩はさっさと布団に潜り込みました。
私も、しばらく呆然としていましたが、何だか馬鹿らしくなって、再び眠りにつきました。
翌朝、先輩に何をしたのか聞きました。
「あれ、見たらわかるよ」
頭をボサボサにした先輩は、御札がある掛け軸の方を指差すと、朝風呂に行ってしまいました。
恐る恐る掛け軸をめくると、そこには昨日と同じ御札が、少し斜めになって貼られています。
何やらミミズがのたくったような字……達筆すぎて私には読めません。
その中の一文字が、大きく×印で消され、横に先輩の字で『霊』が旧字体で書かれています。
意味が解らず、朝食の席で聞いてみました。
「御札の漢字が間違ってた。そりゃ効かないわな」
二か月後、また先輩にその旅館へ誘われましたが、キッパリ断りました。
お読みいただきましてありがとうございました。