第12話 魔女と鴉と生首と
少々、時を遡る。
それは、ヴァーヌ湖へ攻め込んだ魔導国軍が敗北した直後―――。
「騒ぐでない。戦況に関しては、追って話をする」
首都マジスへ戻った第一導士ジェルザールは、平然とした顔を取り繕っていた。
慌てて駆けつけてきた者達を、鷹揚に手を振って追い返す。幾名かは普段よりも蒼ざめた顔色に気づいていたが、しつこく問い質せはしなかった。
留守を任せていた第二導師ザンロームだけを従えて、王城の奥へと向かう。
そうして執務室へ入ると、ジェルザールは椅子へ深く腰を落とした。
「……導師ジェルザール、何があったのです?」
ザンロームも望ましくない状況を察していた。そもそも侵攻軍の将が、一人だけで帰還するというのが異常なのだ。
従者に持ってこさせた果実酒をあおってから、ジェルザールはグラスを床へ叩きつけた。
「私の責ではない! あの氷上船が脆すぎたのだ!」
「つまりは、敗北したと?」
「ぐっ……どうしようもなかったのだ! それとも、貴様ならば勝利できたとでも言いたいのか!?」
ジェルザールは荒々しく机を叩き、罵倒混じりの言葉を並べ立てる。
自分たちは冷静に行動し、勇猛果敢に戦ったと。
対する帝国軍は、卑怯な奇襲を用い、残虐非道な手を打ってきたと。
脚色だらけの話に、サンロームはしばし黙って耳を傾けていた。
「氷上船は、すべてが燃やされたということか……それでは正しく全滅だな」
「商工連合の奴等が悪いのだ! あのような欠陥品を渡しおって!」
ザンロームはやれやれと頭を振る。ジェルザールと同じように小太りで、戦場に出た経験もない彼だが、常に冷静でいられる自信を持っていた。
「導師コンスタンはどうした?」
「ふん、撤退しろとは伝えておいた。その後にどうなったかは知らぬ」
ザンロームは眉を顰める。
やはり一人だけ逃げてきたのか、とは口にしなかった。
第四導師コンスタンは、大領地を持つ有力貴族だ。商工連合との繋がりも強く、第一導士派を金銭面で支えてくれていた。魔術師としての実力はいまひとつだが、転移魔術を使えるので、いざとなっても撤退だけはできるはずだった。
なのに、帰ってきていないということは―――。
「捕らえられたか、それとも……」
実はこの時、すでにコンスタンは壮絶な死を迎えていた。
転移して逃げようとしたところを、黒き悪夢に踏み殺されたのだ。
しかし冷静な判断力を持つザンロームでも、そんな悲劇までは想像の外だった。
「いずれにせよ、兵力の立て直しが急務だ。敗残兵もまとめねばならん」
「ふん! 兵力ならば、まだ残っているではないか」
「……まさか、首都の兵を? 王権を侵すことになるぞ」
「構うものか! どうせもう、あの王は目を覚まさぬ」
確かに、王が病に臥せってからもう一年以上が過ぎている。だからこそ次期王位を巡る争いが起きて、国内が荒れているのだ。
だが―――と、ザンロームは反論しようとした。
しかしその時、すでに反論すべき相手はいなかった。
いや、正確には、反論すべき相手の首から上が消え去っていたのだ。
「―――貴方は、王の器じゃないわねぇ」
若い女の声は、ザンロームの背後から投げられた。
一拍置いて、ようやく死を悟ったように、ジェルザールの首から鮮血が吹き上がる。太った体が鈍い音を立てて床へ倒れた。
「っ……何者、だ……?」
辛うじて震えた声で問い掛けながら、ザンロームは振り返る。
大声を上げて、衛兵を呼ぶ選択肢もあった。しかしそんなことをしても、余計な犠牲者が増えるばかりだと思えたのだ。
ジェルザールが首を斬り落とされた。それは分かる。
しかし、どうやって?
剣閃のひとつすら見えなかった。魔力の揺らぎすら感じられなかった。
惨劇の瞬間まで、互いに目を合わせていたというのに。
そもそも、この場には自分たちしかいなかったはずで―――。
「ふふん、貴方は冷静で、賢いわね。少しは使えるかしらん?」
そこに居たのは、妖艶に笑う若い女だった。
漆黒の帽子を被り、同じく漆黒を基調とした服には、袖や襟に銀白の装飾が施されている。不吉な印象があるが、幼い女子が纏うような意匠でもあった。女にしては背が高く、布の多い服の上からでもしなやかな身体付きだと見て取れた。
腰まで伸びた髪も銀色で、黒との対照的な美を描き出している。
奇妙なことに、女は空中に浮いていた。
足音も立てず、緩やかに体を動かし、そこに椅子があるような姿勢を取る。
その手には、胴体を失ったジェルザールの頭部が握られていた。
「でも鈍いのかしら? 私の肖像画くらい、見た覚えがあるでしょう?」
「肖像画、だと……っ、まさか……!?」
ザンロームは目を見開き、言葉を失う。
顔色は蒼白に染まり、がちがちと奥歯を震えさせた。
「そうよぉ、私は魔女ミルドレイア。偉大なる女王様よん」
鮮血を撒き散らす生首を振りながら、無邪気な子供みたいな笑みを見せる。
こうして、狂気に染まった魔女は帰還した。
◇ ◇ ◇
『っていうことでー、再即位を宣言しちゃいまーす!』
ふざけているとしか思えない呑気な声が、鴉の口から発せられた。
赤い眼をした鴉が、城主の間へ乱入してきたのだ。帝国と魔導国との会談が一段落して、急報がもたらされた直後の出来事だった。
黒々とした翼を大きく広げた鴉は、その足にジェルザールの頭部を掴んでいた。
おぞましい土産を見せつけるように旋回した後、広間の中央へと降りる。そうして頭部の上に乗ったまま、先程の宣言をしてみせたのだ。
石造りの広間が静寂に包まれている。
鴉の口から発せられる、機嫌よさげな女の声ばかりが高く響いた。
『あははははっ、驚いてる驚いてるぅ。こういう乱入ってやっぱり楽しいよねえ。そういう意味では、帝国の即位式では勿体無いことしちゃったよね。ハイメンダールだっけ? あの公爵さんに嫉妬しちゃうわぁ。だけど驚かせたって意味では私の方が上かなぁ? なにせ私は、魔女ミルドレイア―――』
声が断ち切られる。
銃撃音が轟き、鴉が四散した。
無論、そんな真似ができるのはヴィレッサしかいない。
魔導銃の引き金に指を当て、忌々しげに顔を顰めていた。
「魔女よりも痴女の方がお似合いだぜ。悪趣味で傍迷惑だ」
『あははははっ、ひどいひどーい!』
今度は、頭部だけのジェルザールの口が動いた。太い目蓋に覆われていた眼が、ぎょろりと剥かれてヴィレッサを捉える。
『赤皇女ちゃんってば過激ぃー、この鴉ちゃんに罪は無いのに可哀相って思わないのかなぁ? あ、ごめんごめん、ちょっと待って。撃たないで。まだ話したいことがあるんだから。ね? お願い~』
ヴィレッサは容赦無く引き金を弾こうとした。乱入者の言葉に耳を傾ける必要なんてない。とりあえず排除して、後のことは後で考えればよいのだ。
だが、すんでのところで制止の声が入った。
「お姉ちゃん、待って!」
『マスター、お待ちを。情報収集が必要と判断します』
さらにはゼグードと、そしてゾエンヌも老体を盾にするように、魔導銃と生首の間に立った。
「アタシからもお願いするよ。まずは、本物かどうか確かめたいさね」
むぅ、とヴィレッサは呻る。
ルヴィスやレイアが居る以上、危険の芽は駆逐したいのだけど―――。
そんなヴィレッサの心情を察したのか、ゼグードが前に立ち、親衛騎士とともに隊列を組む。ルヴィスとレイアを守る形で広間の奥まで下がった。
さりげなく、グロウシスも騎士に守られる位置取りをする。
ヴィレッサは不満もあったが、ひとまず魔導銃を構えて様子を見守った。
『慎重ねえ。今日は挨拶だけだから、そう心配しなくてもいいのに』
「……その道化じみた喋り方は、確かにミルドレイア様そっくりさね」
ゾエンヌは無雑作な足取りで、生首の前に歩み出た。ヴァレッサに背を向ける形で、無防備にも見えるが、全身から隙の無い気配を漂わせている。
生首も、ぎょろりと眼を動かしてゾエンヌを見据えた。
『ん~……この魔力の気配は、ゾエンヌちゃん? 随分と年取ったわねぇ』
「アンタほどじゃあないさね、ミルドレイア様」
『ありゃ、随分と生真面目になっちゃったねえ。昔みたいに、ルドみんって呼んでいいのよ? あ、ミーア様だったっけ?』
ゾエンヌの肩が、びくりと震えた。
その言葉だけで、師弟の繋がりを証明するには充分だったのだろう。
「本当に、ミーア様なのですか……?」
『だぁかーらー、そう言ってるじゃない。でも本人証明って難しいわよねぇ』
「で、では、かつての約束通りに、また我らを導いてくださると?」
おぞましい生首越しとはいえ、数十年ぶりに師弟が対面したのだ。
細かな事情は承知していない。ヴィレッサたちにとっては、所詮は他国の、しかも今日はじめて顔を合わせた相手のことだ。
それでも人一人が、人生のほぼすべてを賭して待っていた瞬間なのだ。
ゾエンヌの感慨は察して余りある。
だが―――、
『んん? ああ、そういえばそんなことも言ったっけ?』
相対する魔女の言葉は、あまりにも軽薄だった。
『あの時は周りが敵だらけで、逃げるのに忙しかったからねぇ。帝国の魔導士とか、エルフィン族の戦士とかさぁ。あいつら相手にするのも面倒だったからぁ……あ、もしかして信じちゃってたの? あらぁ、それは悪いことしちゃったわねぇ。でも、ないわぁ。女王様とか師匠とか、堅苦しくってもう勘弁って感じだしぃ』
それまで小刻みに震えていたゾエンヌが、ぴたりと凍りつく。
誰もが沈黙する中で、生首からの高い笑声だけが響き渡った。
ヴィレッサは頬を歪めて一歩を踏み出そうとした。僅かに身体をずらせば、ゾエンヌを避けて魔弾を撃ち込める。
けれどそれよりも早く声を上げる者がいた。
「あ、あの!」
騎士たちに守られながら、レイアが躊躇いがちに問いを投げる。
「いま、この声の向こうに……ミルドレイア様がいるんですよね?」
『その通りよん。本物の、伝説の、とっても凄い魔女ミルドレイア様よぉ』
「だ、だったら!」
どうしてこんな酷いことを―――、
おぞましい生首と目を合わせて、レイアは肩を縮める。一度戦場跡を見たくらいでは、怯えるのも当然だろう。
「ミルドレイア様は……みんなを幸せにしてくれるんじゃないの? すごい魔法を使って、みんなが笑顔で暮らせる国を作ってくれるって……だから、お母さんも、村の人たちだって、いつか罪が赦される日まで頑張ろうって……」
『そんなのデタラメよん』
涙声への返答は、やはり非情で軽薄だった。
『誰かのでっち上げよぉ。まったく酷いわよねぇ、こんな小さな子供まで騙して、泣かせちゃうなんて。あ、でも私が思いつきで言い残したから、そんなに大きな話になったのかしら? だとしたら、そうねぇ……ごめんちゃいねぇ?』
甲高い笑声が響く。嘲笑というには趣味が悪過ぎる。
もう、充分だろう。
こいつと話して得られるものなどない。
たとえ偉大な魔女であったとしても、それはもう過去のことだ。
いま、この声の向こうにいるのは、人の心を解さない狂人でしかない。
そして―――、
「テメエは、あたしの敵だ」
ヴィレッサは宣言すると、引き金を弾いた。
魔弾はゾエンヌの横を抜けて、生首を砕き散らす。
僅かに飛び散った血が、皺だらけの頬を汚した。
それでもゾエンヌは動かない。小さな悲鳴を上げたレイアは、大きく膝を折って項垂れて、ぽろぽろと涙を零していた。
ヴィレッサは舌打ちを漏らし、歯噛みする。
何か言葉を掛けてやりたい。
自分には、殺す力なら溢れるほどあるのに―――。
そう思ったのは、油断だったのだろうか。
「っ、まだだ! 来るよ!」
ゾエンヌが声を上げた。同時に振り返って上方を睨む。
直後、天井が割れた。
飛来したのは大きな黒い影。悲鳴と怒号が上がり、石畳が赤く染められた。




