第10話 再会の朝
宿屋の大部屋で、ロナとマーヤは其々に朝の支度に掛かっていた。
もう顔は洗ってきたので、あとは着替えて朝食に向かうだけだ。マーヤは眼鏡を軽く拭いてから、手早く黒ローブを纏う。
部屋に戻ってくる際に、食堂前でヴィレッサたちと擦れ違った。
朝食を一緒にどうかと誘われたので、後から行くと言っておいたが―――、
「ぼ、ボスが、おかしいニャ!」
呆然としていたロナが、ようやく我に返って慌てた声を上げた。
反応が遅すぎるだろう、とマーヤは溜め息を落とす。
だけど言いたいことは分からないでもなかった。
「随分と楽しそうに笑ってたわね。あの三人、本当の家族みたいだったわ」
「そうだニャ! あのボスが、普通の子供みたいに見えたニャ!」
「……普通なのに異常って、まあ、おかしいわよね」
眼鏡を上げ直しつつ、マーヤはベッドに腰を下ろした。ロナにも着替えるように促しながら話をする姿勢を作る。
「むしろ、あれが素の表情じゃないのかしら。子供が戦って、大軍を退けて、平然と笑ってるなんて、そっちの方が異常でしょう?」
「言われてみれば、そうかも知れにゃいけど……」
ロナも着替えながら首を捻る。垂れた尻尾が、言い難い疑問を表すみたいにふらふらと揺れていた。
マーヤだって受け入れ難い。
あれが普通の子供らしい内面を持っている、なんて。
まず出遭いからして衝撃的で、異常としか言えない状況だったのだ。黒き悪夢を捻じ伏せる力を見せつけてくれたのもそうだが、なにより、その災害級の魔物に立ち向かおうという考え自体がおかしい。
普通の子供ならば、あんな大きな馬を見ただけで泣いて逃げ出す。
なのに、彼女は笑っていた。
悠然と、泰然と、いつだって凶悪な笑みを湛えて、誰も彼もを威圧していた。
まるで子供の皮を被った悪魔みたいに。
だから、救われた事実があっても尚、恐怖を覚えずにはいられなかった。
「でも……あれが全部演技だったなんて、それこそおかしいニャ」
「……言われてみれば、それもそうよね」
黒ローブを指先で弄りつつ、マーヤは神妙に眉を寄せる。
ヴィレッサに対する恐れは拭えない。けれど、それは不審ではない。
これまでの旅で、彼女が大勢の人間を救うのを目にしてきた。自分達も含めて、だ。どれだけ凶悪な顔をしていても、その事実は覆らない。
マーヤの内にある感情は、むしろ信頼に近かった。子供らしい純朴な表情を見て、その信頼はますます濃くなっている。
ただ、不思議な生き物だ、とは思う。
それに―――幼い子供に頼り、守られるのは、少なからず良心が痛む。
「彼女の変化はともかく……なんにしても、旅はもうじき終わりね」
「んん? マーヤは、この街に住むつもりかニャ?」
「違うわよ。彼女の目的は、あの二人との再会だったんでしょ。それが果たされた以上、これまでの旅とは意味合いが違ってくるわ」
まだ南のヴァイマー伯爵領へ向かう、という点では変わらない。ヴィレッサ達には、そこから故郷の村を復興させるという難題も待ち構えている。
けれど、ひとつの転換点であるのは確かだ。
言うなれば、再会へ向かう旅ではなく、再会を果たしての帰り道となる。
「私達も、彼女の村へ誘われてはいるけど……」
どうするつもり?、とマーヤは眼差しに問いを乗せた。
これまで二人は、レミディア国からの脱出を第一の目的としてきた。それはすでに果たされたのだが、実の所、これからの目的は曖昧になっている。
そもそも一国からの脱出だけでも難題なのだ。
盗賊や暗殺者といった世間に背を向けて生きている者ならばともかく、マーヤもロナも村娘でしかなかった。少々特殊な環境にあったおかげで、人並み以上の戦闘技術は得ていたが、それでも国を相手に抗えるものではない。
国境を越える手段どころか、その旅程でさえ手探りの状態だった。
その点からすれば、ヴィレッサには本当に感謝している。戦場に突っ込むという危険を冒したが、おかげで、いとも容易く帝国領内へと踏み入れたのだ。
だが、だからこそ、今後の方針に関しては迷ってしまう。
急転する事態に対応するのが精一杯で、その先を考えている暇もなかったのだ。
「いいかも知れないわよね。元々、私達の故郷も小さな村だったし」
「マーヤは、魔女を目指して修行したいんじゃにゃいのかニャ?」
「諦めはしないわよ。畑仕事を手伝いながらでも勉強はできるわ。シャロンさんは凄い魔術師みたいだし、色々と教えてもらえるとも思うわ」
「そうだにゃぁ……あちしも、狩りができるなら満足だニャ」
近い未来の自分を想像して、マーヤはぼんやりと空中を眺める。
ロナもまんざらではない顔をして、自分の尻尾を抱えるように回した。少し乱れた毛並みを太股に乗せて、気持ちを落ち着けるようにそっと撫でていく。
「うん……ボスと、ここでお別れっていうのは嫌だニャ」
「まあ、そうね……少しは恩返しをしないと寝覚めが悪いわよね」
マーヤは眼鏡を上げ直すと、きつく口元を引き締める。
大真面目な表情を作ったつもりだった。でも、すぐに崩される。
いきなりロナが身を乗り出して、顔を近づけてきた。
「な、なによ……?」
まじまじと見つめられて、目をぱちくりさせてしまう。
そんなマーヤに、ロナはにぃっと晴れやかな笑顔で応えた。
「やっぱりマーヤは素直じゃないニャ。ボスが心配なら、そう言えばいいニャ」
「なっ……なによ、それ!? アレの何処を心配しろって言うのよ!?」
「にゃはは。確かに、その通りニャ。たとえドラゴンゾンビの大軍に襲われても、ボスだったら笑いながら片付けてくれそうニャ」
だけど、と。
ロナはふっと優しげに目を細めた。
「ゼグードのおっちゃんにも言われたニャ。よろしく頼むって。あの時は考える暇もなかったけど、いまなら、なんとなく意味が分かるニャ」
「……あれは、ただの子供好きだから出た言葉じゃない?」
「にゃはは。その可能性も無きしもあらずんばらんな気がしないでもないニャ」
「ややこしい言い回ししてんじゃないわよ! 間違ってるし!」
なんか腹が立つ。ロナのくせに、大人びたことを言うなんて。
苛立ちに任せて、マーヤは獣耳を引っ張ってやった。にゃあにゃあと悲鳴を上げる狼娘をひとしきり甚振ってから、溜め息とともに手を放す。
「とりあえず、彼女の故郷までは一緒に行くってことでいいわね?」
そう結論する。疑問形だが、ロナも頷くのは確認するまでもなかった。
だけど考えるべき事柄は他にもあった。
あくまで、まだ可能性に過ぎないのだが―――。
「もしも、彼女が正式な魔導士になりたいって言い出したらどうするの?」
故郷に帰らず、このまま帝都へ向かうと言い出すかも知れない。
まさかとは思うのだが、あの猪突猛進な性格からすると有り得ないとも言い切れなかった。そしてロナには、それを歓迎する理由がある。
帝国の魔導士となれば、敵国であるレミディアと戦う機会は多いだろう。
ロナにとって、レミディアは仇敵だ。故郷を滅ぼされたのだから。
戦うために同行を申し出ても不思議ではない。
あるいは、もっと別の情動から、ヴィレッサの背を守りたいと言い出すかも知れない。それこそ、ただ心配だから、なんて単純な気持ちで。
けれどマーヤとしては歓迎できない。
迂闊な判断を止めてやるくらいには、ロナとの腐れ縁は断ち切り難いのだ。
「兵士になって戦争するなんて、貴方には向かないでしょう?」
「いくらにゃんでも、それはもっと先にゃと……」
首を捻った姿勢のまま、ロナは急に口を噤んだ。
耳だけをぴくりと動かす。
それだけの仕草でもマーヤはすぐに反応して、ベッド脇にあった杖を掴んだ。
「何かあったの?」
「鎧の音ニャ。兵士さんが一人だけ、こっちに駆けてくるみたいにゃけど」
一人だけなら、言伝か何かだろうか。警戒する必要はないように思える。
それでもマーヤは、緊張感を纏って立ち上がった。
「とりあえず、彼女達の所へ行きましょう」
「そういえば、朝御飯もまだだったニャ」
ロナも後に続いて部屋を出る。
平穏無事な暮らしは、どうやらもう少し先になりそうだった。
◇ ◇ ◇
焼きたての温かさを保ったパンに、ジャムをつけて齧りつく。仄かな苦味に似た香ばしさと、ジャムの甘さが合わさって舌を喜ばせてくれる。
「ん……おいしい」
素朴な感想を述べて、ヴィレッサは表情を綻ばせた。
隣ではルヴィスが同じようにパンを頬張っている。向き合って座ったシャロンも柔らかく目を細めていた。
「このジャムね、ルヴィスが作ったのよ」
「うん。キールブルクの近くでね、ベニベリーを作ってる村があったの。そのまま食べるとちょっとすっぱいけど、ジャムにすると甘くて美味しくなるんだよ」
嬉しそうに語るルヴィスに、ヴィレッサも自然と頬を緩める。
なんとなく、手を伸ばして頭を撫でた。
「も、もう、なに? いきなり……」
「ん。ルヴィス、よく頑張ったね」
ルヴィスは微かに頬を紅く染めて目を逸らす。だけど頭は撫でられるままだ。
ヴィレッサが手を止めると、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。そうして寄り掛かるみたいに肩を寄せてくる。
甘えん坊さんめ、とヴィレッサは心の内で呟く。
肩に当たる感触は懐かしくて心地良かったが、微かな不安も胸に浮かんだ。
ウルムス村が襲撃を受けて以来、ヴィレッサは自分が帰ることばかりを考えていた。途中であれこれと暴れもしたが、それはただ放っておけなかったからで、寄り道ですらない。障害物を排除しただけだ。
ルヴィスとシャロンの無事を知って、再会できて、いまは心から安堵している。
だけど、もっと考えてもよかったのかも知れない。
二人も、村の皆も、きっと大変な苦労をしていたのだろうから―――。
「お姉ちゃん、どうかしたの?」
ベーコンエッグに手を伸ばそうとしたルヴィスが、首を傾げて顔を覗き込んでくる。純朴な、でもほんの微かな怯えも混じった瞳で。
ちょっと突ついただけでも、泣き出しそうだった。
「ううん。なんでもない」
言葉を濁して、ヴィレッサは食事を再開する。
ルヴィスはまたちょっと唇を尖らせたけれど、詮索はしてこなかった。
「お姉ちゃん、ジャムついてるよ」
「ん……?」
ヴィレッサが首を傾げると、すぐにルヴィスが指を伸ばした。頬っぺたに付いたジャムを拭って、「もう、だらしないんだから」と口に含む。
布巾を差し出してくれたシャロンも、くすくすと笑みを零した。
「そんなので、旅の間は大丈夫だったの?」
「そうだ! お姉ちゃん、あちこちの街を回ってきたんだよね? あの大きな馬もなんだか凄いし! 話を聞かせてよ!」
ルヴィスは小さな拳を握って、目を輝かせながら訴えてくる。
だけどヴィレッサは言葉を詰まらせてしまう。
いっぱい話したいことはある。初めての経験ばかりだった。
でも、ありのままを語ると、教育上よろしくない血生臭い話もあるので―――。
「大丈夫よ」
ヴィレッサの懸念を察したのか、シャロンが優しい口調を投げてくれた。
「ロナとマーヤ、ゼグード様からも大体の事情は聞いてるわ。どれだけ貴方が頑張っていたのかも。だから隠す必要なんて無いのよ」
そう告げられて、ヴィレッサは目をぱちくりさせる。
困惑と安堵が半々だ。元より何も隠すつもりはない。どう話そうか迷っただけで、二人にはすべてを聞いてもらうつもりだった。けれど言われてみれば、昨夜の内にロナとマーヤが事情を話しているのも当然の流れだった。
となれば、大方の出来事は伝わっているはずだが―――、
ヴィレッサは、はたと気づく。
「ゼグードの爺さんって……あれ? バルツァール城砦に行ったの?」
「あぁ、言ってなかったわね。入れ違いになったのよ」
「あ……やっぱり転移術で……」
今更ながらに失敗を悟らされて、ヴィレッサは頭を抱えた。
結果だけ見れば、ビッドブルクの街を魔物から救えたのだから良かったと言える。だけど迂闊な判断をしてしまったのも確かだ。
ぐったりとヴィレッサが項垂れていると、その裾を、ちょいちょいっとルヴィスが引っ張ってきた。
天使みたいに優しく微笑んで、ルヴィスは言う。
「お姉ちゃんがそそっかしいのは、いまに始まったことじゃないよ?」
トドメを刺されて、ヴィレッサはテーブルに突っ伏した。
反論の言葉は出てこない。呻き声で不満を伝えるだけで精一杯だ。
そんなヴィレッサの頭を、ルヴィスとシャロンはくしゃくしゃと撫でる。
「ふふっ、やっぱりヴィレッサは変わらないわね」
「うん。魔導士になっても、お姉ちゃんはお姉ちゃんです」
「……少しは成長してるよ?」
もしかして、励まされているのだろうか?
なんにしても悪い気分じゃない。悩むのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
ともかく、全部を話してみよう。ルヴィスには刺激が強いかも知れないけれど、隠しておくよりはずっといい。相棒の紹介もしないといけない。正式な魔導士になるかどうかも、二人と相談して―――。
ひとしきり頭を撫でられてから、ヴィレッサはむっくりと身を起こす。
けれど口を開こうとしたところで、荒々しい足音が近づいてきた。
「あ、し、失礼します。ヴィレッサ様……」
兵士が一人、息を乱しながら駆け込んできた。
食堂を見回して、近くに宿の主人しかいないのを確認してから、声を潜めて告げる。
「エリム様が、至急、屋敷へいらして欲しいと……その、実は……」
ヴィレッサは咄嗟に緊張を纏っていた。
領主の娘からの呼び出し、というだけではない。この領地が抱える複雑な事情に、狼狽している兵士の様子、ろくでもない可能性ばかりが想像できる。
けれど、告げられた内容には完全に不意を突かれた。
「……ファイラット男爵が、亡くなられました」
隣で耳をそばだてていたルヴィスもシャロンも、揃って息を呑む。
不穏な気配が、朝の涼気を掻き乱していった。




