第19話 マーヤの日記、そして……
教会兵から逃れるようにして旅に出てから、およそ一ヶ月が過ぎた。
冬の気配も近づいている。
だがこうして日記をつけようと思い立ったのは、凍え死ぬ恐れを覚えたからではない。私達が出会ったのは、もっと……そう、悪魔よりも恐ろしいナニカだ。
まずはその悪魔―――彼女との出逢いについて記しておこうと思う。
願わくば、この日記が呪いの書物にならないことを祈って―――、
―――というのが、出逢いの顛末だ。あるいは出遭いと記すべきか。
もしもこの日記を読む者がいれば、妄想だと笑うだろうか?
私でさえ自分の正気を疑っている。だが、事実しか書いていないと断言しよう。
魔導遺物を操る。ナイトメアを手懐ける。一国に対して喧嘩を売る。
そんな真似をして、愉しげに笑っている幼女がいるなど、いったい誰が信じられようか。私だって吟遊詩人の口から語られたのであれば信じなかった。
実は私の眼鏡に呪いが掛けられていて、幻想を見せられているのではないかとも疑ったくらいだ。
けれど、彼女の存在は事実であると、重ねて記しておく。
彼女自身の存在、その脅威的な力については、本人も正確には把握していないらしい。
無限魔力とは何なのか? どうして彼女に宿ったのか?
その無限魔力を持つ者だけに扱える極式魔導遺物とは、何の意図で―――。
問い質したい事柄は山ほどあったが、私はそれを口にできなかった。
単純に怖かったのだ。
私達の旅の経緯も一緒に話したので、逆に、彼女はこう問うてきた。
「じゃあ、マーヤたちが捕まったのは、あたしが奴等を警戒させたからか?」
「え、えっと、それは……」
もう生きた心地がしなかった。
レミディア軍に捕まった時、私は確かに魔導遺跡襲撃犯を呪った。魔術触媒にしてやりたいとも思ったくらいだ。
今では逆恨みだと理解している。助けてもらったのだと感謝もしている。彼女がいなければ、私達の命が無かったのは確かだ。
けれど、若干のわだかまりは抜け切っていない。
もしも、そんな小さな恨みも見咎められたら―――。
そんな恐怖に震える私に対して、彼女はやはり悪魔のように笑ってみせた。
「いやぁ、良かったな。運命みたいなものを感じるぜ」
「う、運命?」
「だってそうだろ。二人が捕まらなきゃ、あたしらは出会わなかったんだ。案外、モゼルドボディアって言ったか、その神もレミディアを滅ぼしたがってるのかもな」
どうやら私達二人を、レミディア国を倒す駒として使うつもりらしい。
大した力も持たない私達だが、彼女は知恵もよく働く。
一瞬可愛いらしいとも思えてしまう笑顔の裏で、いったいどんな恐ろしい計略を巡らせているのか―――それもまた、問い質せはしなかった。
彼女は恐ろしいだけではない。容赦もない。
私が長年我慢していた禁忌を、あっさりと破ってくれたのだ。
「どうして犬なのに、語尾が『ニャ』なんだ?」
聞きたかったのに! 聞いたら負けだと思っていたのに!
それに対する馬鹿の返答にも、たっぷりと文句をつけてやりたいところだった。
「ボス、あちしは犬じゃないニャ。ウルディラ族だから狼ニャ」
「そっちの問題かよ! ってか、似たようなもんだろ」
「違うニャ! いくらボスでも、ウルディラ族の誇りに賭けて、なるべく訂正してもらえるよう伏してお願い致しますニャ!」
安い誇りだな、ウルディラ族。
まあ、そんなことはどうでもいい。彼女も喧しい馬鹿に対してはぞんざいに扱っていた。
「分かった分かった。狼だな。んで、なんで猫みたいな喋りしてやがる?」
「それは、あちしの兄ちゃんと関係しているニャ」
幼馴染―――いや、腐れ縁である私にも初耳だった。
けれど、この馬鹿の家族との面識はあった。
たしか兄は、いかにも孤高の狼といった風体で、細身の私に対してはあまり良い態度を取ってはくれなかった。けれど妹の知人としては認めてくれていたようだった。
良くも悪くも誇り高く、真面目な男だったと記憶している。
「兄ちゃんとは、何かにつけて競い合っていたニャ。狩りの腕でも、剣術でも……あちしの方がいつも少しの差で勝って」
「それは嘘ね」
「ニャッ!? ま、マーヤも少しは合わせてくれても……」
「いいから、先を話しなさいよ」
馬鹿の言葉を記しておくと、日記が果てしなく長くなりそうだ。
なので省略する。大した話でもなかった。
子供の頃、兄から聞かされたそうだ。「誇り高い戦士は語尾に『ニャ』を付けるものである」と。
どうやら真面目な兄が珍しく冗談を言っただけらしいが、それを真に受けた馬鹿は懸命に努力をして、間抜けな語尾を口癖にしてしまった。変なところで物覚えが良かった分、もはや治せないのだそうだ。
あまりにも馬鹿馬鹿しい―――私も彼女も呆れていた。
でも、言葉にはしなくて良かったと思う。
「いまはもう、これで良かったと思ってるニャ」
朗らかに、屈託なく、ロナは笑っていた。
「この口癖がある限り、いつでも兄ちゃんを思い出せるニャ。あちしが本気で信じてると知った時の、困ったような顔も。兄ちゃんは本当に真面目だったからニャ。だから教会の奴等とも、きっと最後まで戦って……」
「……ロナ……」
掛ける言葉が見つからなかった。
教会兵は獣人族に容赦しない。殺されるか、奴隷にされるか―――。
せめて、再会を祈っておこう。何に祈ればいいのか分からないけれど。
「にゃ、にゃはは。そんな暗い顔しなくても大丈夫ニャ。あちしはちっとも気にしてにゃいし、兄ちゃんのしぶとさも、誰よりも知ってるニャ」
「ああ。ロナの兄貴なら運も良さそうだよな」
彼女もそう言って苦笑していた。
凶暴で凶悪で、とても子供とは思えない部分ばかりが目立つ彼女だが、人並みの気遣いも身につけていたようだ。
「よかったら、あたしらの村に来いよ」
恐ろしい黒馬の毛を撫でながら、そんな優しい提案もしてくれた。
「ほとんど潰されちまったけど、きっと復興させる。いい人ばかりだぜ。畑を耕してもいいし、狩りもできる。獣人だからって変な目を向ける奴もいねえからな」
故郷のことを語る彼女は、不思議な色を瞳に宿していた。
温かな、優しげな、でも何処か寂しそうで、何かを堪えているような―――。
彼女が底の知れない、不可思議な人物なのは確かだ。
だけど、もうほんの少しだけ信じてもいいかも知れない。
少なくとも、この時の私にはそう思えた。
ああ。だけど―――。
「……やっぱり、レミディアの奴等は許せねえな。潰すか……」
そんな呟きも耳に届いてしまったのだ。
果たして私は平穏な生活を取り戻せるのか?
再び安眠できる日は訪れるのだろうか?
願わくば、それが生命の終わりと同義でないことを―――。
◇ ◇ ◇
旅は順調に進んだ。
街道を避け、レミディア国内を斜めに縦断するという難しい道程だったが、メアの脚ならば荒地や森林でも問題にならなかった。
「しっかし、初めての旅が野宿ばっかりってのは嫌な思い出だぜ」
「確かに、ベッドが恋しくなるニャ」
「でも下手な宿屋より毛布はいい物よ。あの領主の物だから、少し気持ち悪いけど」
「メアの毛も意外と柔らかいしな。考えてみりゃ、快適な旅だよな」
地図には頼れなかったが、方向に迷うこともなかった。メアの野生の勘は頼りになる上に、仮にも獣人族であるロナは案内役として優秀だった。
ただひとつ、問題があったのは―――。
「軍が通った跡?」
「間違いないニャ。これだけの大人数、隊商でも有り得ないニャ」
「レミディアの国軍が……私達と同じく、帝国へ向かってるってこと?」
数日前のものと思われる、馬や荷車も混じった大量の足跡。
それにはヴィレッサも眉を顰めずにはいられなかった。
「数は、どれくらいだ?」
「正確には分からないニャ。でもたぶん、数万はいるはずニャ」
「……本格的な侵攻ってことか」
戦争が始まる。大勢の人が死ぬ―――。
それ自体は予測できた。レミディアは常に帝国へ攻め込む機会を窺っていたというし、飛翔船という新たな武器を活用したくて堪らなかったのだろう。
だからこそ、ヴィレッサは飛翔船を破壊しておいたのだ。
少しでも戦争の開始を遅らせたかったのだが、どうやら望み通りにはいかないらしい。
「どうするの? このまま国境に向かったら、間違いないカチ合うわよ?」
「山を抜けていく手もあるニャ。時間は掛かるだろうけど……」
控えめながらも、二人は安全策を進言する。
けれどヴィレッサは首を振った。
「もしも国境が陥ちたら、ますます危険になる。このまま行くぞ」
それに―――と、遠くへと殺意を込めた眼光を飛ばす。
「どうせレミディアは敵だ。蹴散らしてやるさ」
ヴィレッサは自信満々に口元を吊り上げる。二人の不安を笑い飛ばすように。
けれど手綱を握った手は、微かに震えていた。
次回から国境での攻防戦。
大軍vs幼女、始まります。




