こぼれ話 悪魔の暗躍できなかった日 前編
久しぶりの更新。少々IF的な話となっております。
帝都エヴィドグラード。
一時は敵国に踏み躙られた都も、いまはもう朗らかな活気に溢れている。血と屍が積み上げられた街路も、綺麗に整え直されて、大勢の住民が行き交っていた。
商人とともに、多くの荷物を乗せた馬車も通っていく。
帝国騎士の活躍を謳い上げる吟遊詩人にも、喝采が送られている。
まだ戦火の痕が完全に消え去ったとは言えない。
大切な人を奪われた者も大勢いる。
それでも帝都は、いまの大陸で最も賑わいのある場所と言えるだろう。
ただ、その上空にひとつの影が浮かんでいた。
「くくっ……匂う、匂うぞ……」
黒い靄を纏った男だった。
精悍な顔立ちをしていて、やや細身だが、引き締まった体付きをしている。武を尊ぶ帝国の貴婦人にも好まれる容姿だろう。浅黒い肌と紅色の瞳は珍しいが、受け入れられないほどではない。
腰に差した一振りの剣も豪奢な装飾が施されていて、それなりの地位にあるのだと分かる。
だが、異常な男だった。
背中には黒々とした蝙蝠のような翼が生えている。
頭部からは捻じ曲がった角が突き出ていた。
「戦いの匂いがする。まだまだ血を流せそうだ」
男の名はグレイゴール。
人とはけっして相容れない、異界に棲む悪魔だ。
戦いと混乱を齎す彼は、死の匂いに惹かれてこの地へと赴いていた。
「人間どもが希望に溢れているのも良い。その希望の隙を突き、絶望へと染め上げ、数多の魂を喰らってやろうぞ」
舌なめずりをしながら、グレイゴールは眼下の帝都を見渡す。
やはり目についたのは街の中心にある城だ。
人間ならば、たとえ敵国の者でも畏敬を覚えずにはいられない堅牢な城だが、グレイゴールの目には絶好の狩場としか映らない。
「そうだな。まずは適当な貴族を見つけて、その心を掴んでやろう」
グレイゴールがその気になれば、万の軍勢さえ相手取れる。
しかし単純な力で屍の山を築くよりも、人間同士で争わせ、その混乱ぶりを眺めるのを好んでいた。
人の姿に化けるのも、悪魔であるグレイゴールには容易い。
そうして人間に近づき、欲望を刺激して、満たしてやることで心を縛る。自ら望んで混乱を起こすよう誘ってやる。
信じていた者に裏切れて、また裏切り、血に塗れた人間がどうなるか―――、
その先にある絶望こそが悪魔の糧となるのだ。
歪んだ笑みを浮かべつつ、グレイゴールは翼を大きく揺らした。
向かう先は帝城だ。
まずは幻惑術を発動させて、己の姿を風景と同化させる。
「なかなかに厳重な警備だが、私の術を捉えられるほどでは……」
ない、と言い掛けて、グレイゴールは違和感を覚えた。
まるで糸に触れたような魔術的感覚だ。
もしもグレイゴールが人間の技術に詳しければ、それが侵入者警戒用の魔力糸だと気づけただろう。
しかしグレイゴールは首を捻っただけだった。
その直後、城の一角から数本の矢が飛来する。
魔術によって勢いを増した矢を、グレイゴールは辛うじて避けた。
「―――侵入者だ! 城内全域に報せよ! 第一隊、第二隊は私に続け!」
「な……っ!?」
侵入に気づかれただけでも、グレイゴールにとっては予想外の事態だった。
さらに驚きの事態は続く。
警備兵からの攻撃を受けて、グレイゴールも反撃を試みた。手持ちの武器は剣一本のみだったが、悪魔であるグレイゴールは、人間には扱えないような複雑な魔術を自在に操る。並大抵の警備部隊など、戯れに壊滅させてやれる自信を持っていた。
無数の炎弾や雷撃、闇を纏った槍を放つ。
しかし、その尽くを防がれる。グレイゴールの眼下には、頑強な魔術障壁が、人間の繁栄を誇示するように輝きを放っていた。
「敵は飛行能力を保有! 魔術を行使!」
「中級以上の複合魔術を確認! とりわけ暗黒系統の魔術は脅威!」
「防御陣形を維持! 敵を包囲しつつ、援護を待て!」
「第三隊、到着! 攻撃を開始する!」
警備隊は、巧みかつ素早い連携を見せた。
完璧なまでに統率された動きで、グレイゴールを囲み、徐々に追い詰めていく。
「ふははははっ、なかなかの手練れのようだな。だがヌルい! 我が父は、皇女殿下にすら矢を射掛けたことがあるのだ! それに比べれば恐れるに足らず!」
「くっ……まさか、人間如きがここまで……」
顔を歪めたグレイゴールへ向けて、凄まじい勢いで槍が投げつけられた。
身を捻るも、槍は黒い翼を穿ち抜く。
「がっ、ぁ……おのれぃぃ!」
さらに弓矢や魔術による追撃も加わり、グレイゴールは堪らず身を翻した。
どうにか飛行術を維持して、城壁を乗り越えて逃走する。
「逃亡を許すな! 帝都中を虱潰しにしてでも捕らえるのだ!」
嬉しそうな警備隊長の声が響く。
人気のない街路に落ちたグレイゴールは、穿たれた翼の痛みを堪えながら走り出した。
「人間め、よくも我に傷を……このままでは済まさぬぞ!」
痛みはあるが、グレイゴールの力であればすぐに癒せる程度の傷だ。そもそも悪魔であるグレイゴールには、単純な物理的な攻撃は効き難い。
人間に対する恨みも得て、むしろ気力は漲ってくる。
「必ずや後悔させ、絶望の底へと叩き込んでくれる……」
暗く沈んだ嘲笑が、薄暗い街路へと響いていった。
整然と隊列を組んだ兵士たちが、商店街を早足に抜けていく。
怪しい者がいないか、そこかしこに目を配りながら。
道の端で占い屋を開いていた老人は、兵士たちが通り過ぎるのを見送って低い声で呟いた。
「……城の警備は厳重だったが、さすがにこの変装は見破れないようだな」
幻惑術を掛けたグレイゴールだった。
帝都から抜け出すのも難しくない。しかし完全に退散するのは、悪魔としての誇りが許さなかった。
とはいえ、先程の一戦での消耗もある。
しばしの休憩を挟んでから、人間どもを惑わす作戦を練り直すつもりだった。
城の警備隊相手には不覚を取った。
それはグレイゴールとしても認めざるを得ない。屈辱ではあるが。
「だが、所詮は人間だ。群れねば何も出来ぬ虫に過ぎぬ」
悪魔である自分が二度も遅れを取るはずがない。
ましてや、恐れて退くなど絶対に有り得ない。
そう確信しているグレイゴールは暗い笑みを浮かべる。
「この街は、貴族の出入りも多い。わざわざ城へ向かわずとも、そいつらと接触できれば……ん?」
ふとした気配を察知して、グレイゴールは口を閉じた。
表通りから近づいてくるその気配へと目を向ける。
「まったく。久しぶりの帝都だっていうのに騒がしいわね」
一人の修道女が歩いてきていた。
帝都には複数の教会や修道院が建てられている。神官や修道士も、なにも珍しいということはない。
だが、その修道女は明らかに異質だった。
エルフィン族の修道女というだけでも奇妙だ。
帝国と交流があるとはいえ、エルフィン族はあまり人里に出て来ない。しかも修道女となれば、人々からは確実に奇異の目を向けられる。
おまけに、その修道女は、幻惑術を纏って姿を誤魔化していた。
悪魔であるグレイゴールでさえ見過ごしてしまいそうなほど、精巧な幻惑術だ。
街を行き交う人々には、一般的な修道女に見えているだろう。
「今日は静かに買い物するだけの予定だったんだけどね」
独り言みたいに述べながら、その修道女は足を止めた。
道端に座っている老いた占い師、即ちグレイゴールの横に立つ。
斜めにグレイゴールを見下ろしながら、修道女は語り掛ける。
「城に侵入者ですって。貴方は、何か知らないかしら?」
「……いえ。私は何も」
グレイゴールは緊張した声で応じる。
精巧な幻惑術に加えて、その修道女にはまだ異常な点がある。
信じ難いほどに膨大な魔力を抱えている。
魔術に長けたエルフィン族でさえ、そうそういないほどの。
正しく悪魔にすら匹敵するほどの魔力量だ。
グレイゴールもそれを察していて、焦りすら覚えて思考を巡らせる。
こいつは何者だ?
何故、ここに現れた? 何が目的だ?
私の正体に気づいているのか―――?
「まあ、貴方が侵入者でも、そうでなくてもどっちでもいいわ」
ひとつ息を落とす。
そうして修道女―――シャロンは、鋭く言い放った。
「悪魔を見逃すつもりはないの。滅びなさい」
シャロンは剣を振り払う。
同時に、複数の魔法陣を描き出している。
グレイゴールも即座に動いていた。
飛び退きつつ、迎撃の魔術を放とうとする。
だがグレイゴールは、身を守る障壁を張るので精一杯だった。
「がっ……!」
凄まじい勢いで構築された魔術式が、白い閃光となってグレイゴールを襲った。
雷撃にも似た光は、悪魔であるグレイゴールの霊体を直接に痛めつける。
さらに無数の矢弾も放たれた。
魔力で作られた白い矢弾は、数発は障壁で防がれたが、残りはグレイゴールの体を深く穿った。杭のように体に喰い込み、壁へ張り付けにする。
対悪魔用の専用術式は、グレイゴールに死を予感させるほどの激痛を与えた。
「ぐ……貴様、悪魔払いか!」
「いいえ。悪魔よ」
銀髪の悪魔―――、
かつて、帝国軍に恐れられたシャロンはそう呼ばれていた。
皮肉な仇名を思い返して、シャロンは苦笑を零す。
けれど油断はない。
確実にトドメを刺そうと、新たな術式を組み上げる。
「エルフィン風情が……侮るなぁっ!」
グレイゴールは暴力的に魔術を放つ。
構築が簡単な、闇を纏った魔力弾を無数に散らばらせる。それでも一発一発が硬い石壁を砕き、人間を殺せるだけの威力を伴っていた。
さらに力任せに腕を振るい、張り付けにされた体を壁から引き剥がす。
対するシャロンは冷静だった。
多重障壁で身を守りつつ、攻撃術式の構築も崩さない。
白く輝く大きな槍が、グレイゴールへと放たれる。
欠片すら残さず悪魔を消滅させるべく、白槍は一直線に空中を駆けた。
ほんの一呼吸にも満たない間の攻防は、シャロンの勝利で終わるはずだった、が、
「ッ……!」
グレイゴールは逃れた。
悪運が強かった、と言うべきだろう。
建築技術も発展している帝都は、用水路もよく整備されている。対峙した両者の足下は、ちょうど下水道となっていた。
力尽くで路面を割ったグレイゴールは、そのまま地下道へと身を投じたのだ。
「追跡したいけど……さすがに、少し危険かしらね」
暗闇は悪魔の領域だ。
加えて、街中とは違って、下水路では簡単に兵士を呼べない。
「ひとまず、警備隊に報せましょう」
呟いて、シャロンは溜め息を落とす。
悪魔なんかに出会いたくなかった。
滅ぼすべき敵であるのは間違いないが、それ以上に頭の痛い問題がある。
「早く帰りたいのに……あんまり遅くなると、ヴィレッサに怒られちゃうわ」
嬉しそうに苦笑も零して、シャロンは軽く肩をすくめた。
傷ついた身体を引き摺るようにして、グレイゴールは下水路を進む。
危なかった。
正しく、絶体絶命とも言えるほどの窮地だった。
まさか、あれほどの力を備えた術師がいるとは完全に誤算だった。
そう戦慄と屈辱に歯噛みしつつ、グレイゴールは懸命に足を動かす。
下水路の臭気が鼻についた。
悪魔といえど、汚物に対する嫌悪感は人間とさして変わらない。こんな汚物まみれの道をネズミのように逃げ回るなど、けっして望む状況ではなかった。
「あの女め……許さぬ、絶対に許さぬぞ……」
怨嗟を撒き散らしながら、魔術によって体を癒していく。
悪魔であるグレイゴールにとって、肉体の傷は大した問題ではない。けれど霊的な傷は深刻だった。対悪魔用の魔術による傷は、長く痛みが続き、精神的にグレイゴールを滅ぼそうとしてくる。
恨みを晴らそうにも、少なくとも数日はまともに動けそうにない。
それに、万全の状態でも正面から戦うのは危険だと思えた。
「自分を悪魔だなどと嘯いていたが……恐らく、我らに対抗するために特化した奴なのだろう。そうでなければ、あの戦闘力は説明がつかん」
怒りに駆られそうになりながらも、グレイゴールは辛うじて冷静さを保っていた。
状況を受け止めて、次の行動を探る。
「……この街に留まるのは危険だな」
耐え難い屈辱ではあるが―――、
人間どもも侮り難い。大勢が集まれば、その中には突出した力を持つ者も現れる。
そう警戒を深めたグレイゴールは、退く選択肢を取るしかなかった。
だが、何処へ向かうか?
人間界から離れる選択肢も頭を掠めたが、それはさすがに誇りが許さなかった。
「そうだな……なにも、人の街はここひとつではない。もっと小さな街から始めて、じわじわと苦しめてやろう。それもまた楽しめそうではないか」
狭い下水路に、低く笑声が響いていく。
敗北感に苛まれながらも、グレイゴールの瞳にはまだ鋭利な輝きが宿っていた。




