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告白ダイブ

作者: 雨咲ひいら
掲載日:2007/06/18

 とりあえず、両親は離婚した。

 私の親権は、じゃんけん三回勝負で負けた父親に与えられ、母親は行方を眩ました。

 そして私は、放任主義かつラブレスな父親に大事に扱われることなく、バシーン!と高校生になった。一応進学校。えらい、えらかったぞ、私。猛烈な受験勉強と並行して、入学後一年分の学費と生活費を隣の酒屋のバイトでどがーんと稼いだのだから。うん。えらい。よくやった。

 そして高校の合格発表の当日、親父は麻雀と飲み屋のツケでちまちまと培養していた負債を私に残して、蒸発する。額にして百万。代わりに現れた借金取り。そして、ちゃぶ台に書き捨てられた言葉。おまけ感覚の置き手紙。

「強く、生きるんだ」

 それを読んで悟った時、頭からさーっと血が引いて、昼に食べたお握りの具に入っていたミニトマトの酸味が食道からふらりふらりと舞い上がって来ては、吐瀉を私に促した。我慢した。

 学校の授業を終えて、お客様のニーズにお応えするためにも制服を着替えずレジに立ち、夕飯を買って家に到着していた私は、確かにちょっとだけ疲れていたけれど、そんなショックでへこたれるような女じゃない。父親の失踪如きで狼狽えるような人間じゃない。と、いった論理で、両親は私に最高の教育を施していた。

 強く生きて欲しかったのだ。

 親の愛情なしで育つ、安上がりだけれども、強靱な精神を持つ子になって欲しいと、切に願っていたのだ。私には言葉でも腕力でも訴えなかったそのメッセージを、私は読み取ることができるのだ。感じることができるのだ。

 そうやって私が私に説得する。私は次第に説得に応じていく。だから、両親がどんなことを考え、結果として私の元から去っていたとしても、私はその過程を捏造する。 そういうことにしておく。

 そうするのは何故?

 目を背けるのは何故?

 その私自身の問いに対し、答えは持っている。

 だって、両親のことを考えるのは辛いから。

 考え出すとキリがないから。

 そしてそれは悩みとなって、私を苛むから。

 悩むことは、迷うことは、苦痛でしかない。

 だから、私の側にいない両親の事はまったく考えないようにしている。

 はじめから、存在していなかったことにして、日々を営むようにしている。

 両親の不在で蝕まれる過去よりも、自分自身がしっかりと存在している現在の方が、圧倒的に本格的に重要なのだ。

 ということで、私のスタートラインはそこから始まっている。

 人生レース。一人一人に用意されたスタートライン。生まれてスタート、死んでゴール。

 そして私は、私のゴールラインを自分で引く決意をした。それもすぐ手前。

 つまり私は、たった今、自殺を試みる。




 私には夢があって、それは女になることだった。

 そして女になって人並みの恋をする。

 最高だ。人にとってそれ以上の幸福はない。

 もちろん、私の性別は女だ。戸籍にだってばっちり書いてあるし、中学校の保健体育でも、ちゃんとピンク色の教科書を貰った。生理だってご苦労様だ。

 じゃあ、何が女ではないかと言うと、体がまったくもって全然女じゃないんです!という、それはそれはありきたりで、わがままで、贅沢な話だ。けれど、 私は本気で悩んでいる。

 女になりたい。

 身も心も、本当の女になりたい。

 ボロボロになった石タイルの風呂桶の中で手を合わせ、神様、神様と祈った時もある。

「神様、私を女にしてください!せめて顔だけでも良いので、女らしくさせてください!」

 けれどあご顎が無性に痒くて、手を合わせられるのもわずか数十秒足らず。普通の女の子、いや普通ではなくても、女の子なら生えてくるはずもないヒゲが、私と鏡との距離を急速に近づけたのは小学校5年生の頃。学芸発表会の衣装として履いたパンストに毛が絡み、痛みに悶絶したのもその頃。むだ毛処理の行程に眉毛や鼻毛も加わり、油断すれば枝毛、縮れ毛、膝栗毛。

 その時から、女の子、いや男の子以上に毛深かった私は、今の今まで、真剣に悩み続けてきた。そして毛深いだけに止まらず、私の顔の原始的な顔立ちといったら最強で、昔だったら一人でマンモスのはらわたをほんの数秒たらずで地表に晒すことができる程の野蛮且つ凶暴な顔つきなのだ。不在の両親よりも、性ホルモンのバランスに、殺意をも沈黙させる憎しみと苛立ちを昔から募らせてきた。

 そんな理由で自殺します。と言っても、周囲の人間は同情なんかしてくれないだろう。別に同情してもらうために自殺をするわけではないが、できれば他の人には私の自殺を納得させたいという気持ちがある。それよりも、自分自身を納得させる必要がある。

 肉体的な問題なら、整形してしまえば良いじゃん。

 この悩みを打ち明けた時、誰もが平気そうな顔で言う。

 確かに、億単位の手術費用をかければ、私は私の理想に追いつくことができるかも知れない。けれど私にはそんなお金を稼ぐ能力はないし、地道に稼いだところで、既におばあさんになってしまっている。父親の借金も返さなくてはいけないし、私は私の生活でいっぱいなのだ。

 あー、もう!

 どうしようもない状態。

 私の夢を叶える為にはお金が必要なのに、稼ぐ手だてがない。

 体を売るにも、買い手が付かぬバッドバディと原始的な顔立ち。

 進学校に進んだものの、高学歴を身につけるための学費も稼げず。

 卒業生の百パーセントが進学するこの高校で、汚点を残すかのように就職しなければならない私の金銭問題。

 本来なら、両親を憎んでいるのに。そうもできない。

 この人生八方塞がりな状況で、私は決意する。




 憎き体のあちこちを全力でつねりながら、「人間に生まれてきたのは良かったけど、こんな最低ランクの体を私に押しつけやがってちくしょう」と何度も呟いては、足を進める。

 私の知っている範囲で最も高い場所を目指し、呪詛の言葉は次第に息切れの中に隠れていた。革靴は泥で汚れ、制服は汗で濡れ、私はその頂上に辿り着いた。

 びゅうっと吹き付ける強風と木々の緑葉オーディエンスの歓声の中、目の前に開け放たれた視界は清々しい空と太陽で埋め尽くされる。

 この崖の上からみえる街の見晴らしが良い。だからどうというわけではないし、この風景が好きだから、私はここで死ぬの!と可愛らしく理由付けもできない。ただ崖の下には十数メートル分の落下距離を楽に稼ぐ空間がある。落ちている間に、宙返りを三回くらいできるほどの余裕も時間もある。ちなみに、勉強も運動も、早急に絶縁したいほど仲が悪い。

 私はこの頭上に広がる満点晴天な青空にでっかい口を開け、「んがぁー」と叫ぶ。けれど何も変わらない。木霊すら帰ってこない。そして、肉体と精神のずれを感じた小学校高学年の頃から、胸の中でぷちぷちねちょねちょと音を立てながら渦巻く私の苛立ちは、出口を知らずに改めて透明度を落とす。どよーん、どよーん。Aカップの私の胸の中には、未だに一抹の希望さえ膨らまない。

 遺書も何も残さず、最後に言う言葉は「ちくしょう」とだけ決めておき、私は地面から足を解放した。私の自殺に対する確固たる決意は、飛び降りるまでの状況観察すら許さなかった。ただ私は落ちたい、そして死にたいという一心で足を前に進め、殆ど立ち止まることなく、身を宙に投げ出す。両足をしっかりと揃え、地面を強く蹴る。足が、体が、魂が、その一瞬を省みること無く、地面の抗力から逃れられた。素敵!

 落下している間、何故だか気持ちは非常に安らかで気持ちよく、ほんの少したりとも、恐れを感じなかった。風圧が腫れたように赤く膨らんでいる私の頬を、餅をこねるようにぐにゃぐにゃにし、死ぬ前に一度でもいいから誰かにこのくらい揉み解されたかったなぁ、と少し寂しく思う。頬に限らないが、胸にも限らない。どこでもいいから、誰かに求められ、繋がれ、吸収されてしまいたかったのだが、もはや遅し。




 私の最大のオシャレ着である制服のスカーフは、結びが甘かったせいかすぐに何処かに飛ぶ。すね毛を隠すための長めのスカートは酒屋で鍛えた筋肉もりもりの太股にびったりと張り付く。感覚器の状況としては、あまり宜しくない状態ではあるのに、私の心は至って平静で冷静。この後、何が起こっても平気だと、根拠の無い絶対的な確信の元に私は受け入れる体勢を既に整えていた。根拠がないどころか、一寸先に死の闇が待ち構えているのに、私は不思議と落ち着いていた。死への覚悟さえできてしまえば、何に対しても動揺することはない。これは、今の私にしか理解することができない感覚だ!

 そうこう感動している間に、私は落ちる。落ちている。ひたすらに落ちていく。ほんの数秒の出来事の筈なのに、私が感覚する時間の刻みは非常に細かくなり、いわゆるスローモーションの状態で、あたりの風景が私の目の前を流れていく。やはり、こうなるんだ。

 未だに冷静な私は、ゆっくりと流れていく時間の中で、しっかりと納得する。まあ、とりあえず私はこの後死ぬわけだけど、みんなが言っていることは本当だったんだよ、死ぬ前の時間はゆっくりだよ!みんな、憶えておいて!と胸を張って言える。自慢できる。お、すげーじゃん。人に自慢できることと言ったら、たった十問の漢字の書き取りテストの為に徹夜して勉強した事とか、バイト先のおじさんに唆されて、日本酒の利き酒を五本までできるようになったくらいで、どうも冗談めいてしまう馬鹿らしいものばかりだったから。みんなにできなくて、私にしかできない事といったら、自ら命を絶つこと!だめか。やっぱ自慢できないし、真似したくないわ。

 そうこうして、じっくり落下を楽しんでいた私の目の前には、もうほんの五メートル僅かで地面が待ちかまえている。えー、もう終わりかよ。運が悪いことに、ごつごつした大きめな石が所狭しと並んでいて、比較的柔らかそうな地面のクッションが私を待ち受ける気配はない。落ちる前から確認しておけば良かったけど、そんなの恐怖心を煽るだけだから必要はないと考えていた。今になって思えば、ちょっと後悔。そして私はゼロカンマ何秒の間で、眉をひそめる運動神経を刺激し、その直後に私の血やら脳漿やらでぐじゃぐじゃに汚れる岩たちを想像した。ざまあみろ、いやもとい、ちくしょう!私はこの醜い体を、角の猛々しい花崗岩に砕かせ、何がどうなったのかよく分からない状況に仕立てる。自然の力、それも私の落下運動で咲く、岩の上の花。鮮血のアート。私の醜い肉体でもひょっとしたら芸術になっちゃって、それはそれでちょっとは嬉しいかなと思ったりするけれども、やはり私は私の体を作った何者かに抱く憎しみを零さない。誰にも譲らない。

 そして私は、生前最後の行動として体を丸めた。

 その行動に大した意味は無いけれど、強いて言うのなら、生まれ変わりたいという欲求から出た、母親のお腹の中で構える胎児のポーズ。カモン子宮。

 私は膝を折り、腹筋に力を入れて、足の膝を顔の近くまで持ってくる。両手はかるく握り拳をつくり、頭は屈める。そして目を閉じる。

 生まれ変わるのなら、やはり美男か美女で、どちらかといえばやっぱ美女だ。

 そして恵まれた容姿に溺れず、人に奢ることなく、私は穏やかに生きるんだ。

 ぐどん、と今まで聞いたことのないような気持ちの悪い音がして、私の感覚はブツっとシャットアウトされる。真っ黒になる。そして私は、輪廻を待つ。




 私が生まれ変わった場所の天井は、とてつもなく白い。今まで見てきた天井の中で最も白かった。ヤニ、すす煤、血痕もついていない、健全で潔白な天井だ。本当に素晴らしい天井だ。素晴らしすぎて、天井しか見る気にならない。

 もちろん、私は新たな人生に胸を躍らせている訳だから、何時までも天井を見つめ続けるなんて勿体ない。動こう、息を胸いっぱいに吸おう。世界は無限に広がり、私はどこまでも羽ばたく準備ができている。よし、1、2、3!

 あれ。

 だめだ。

 全然だめ。

 体のどの部分もまったく動かないのだ。びんびん命令を出しても、体はまったくの反応無し。はがーん。まあ、だけど、こうやって世界の光を感じる資格を持っている私は、もしかしたら人間に生まれ変わったのかも知れないのだから。それはとてもとてもラッキーラッキー超ハッピー。多分、この世の中の幾多とある生命から、ほんの数パーセントの確率で人間という魂の入れ物にありつけたのだ。少なくとも、視界を持つ生物。それだけで凄い!神様に全身全霊使って感謝感激。

 そして人間だったら、今度こそまともな容姿を得ればいいなーと真剣に願う。前の人生の時みたいな、かろうじて人間の容姿をしているホ乳類なんかはもう御免だ。懲り懲りだ。ああいう肉体には、前世で人生を十二分に楽しんだ魂が、緩みきった魂を引き締めるためだけに入ればいい。私みたいな弱々しい魂が入るべき器ではないのだ。

 そうして、新たな人生へ思いを巡らせているうちに、視界にふと白いものが通った。

 何だろう?

 私は目を凝らす。

 すると、今度は肌色が現れた。

 その肌色の中に薄紅色の淡い線が引かれている。

「えれかちゃーん」

 誰かを呼ぶような声。

 私は焦点を合わせ、その声の主を探った。

 赤く縁取られたそれは人間の唇のようだ。しばらく凝視していると、次第にその人の目、鼻、口が判別できるようになる。

 それは人の顔だ。

「えれかちゃーん、お目覚めですかー?」

 よし!

 私は頭の中でガッツポーズを取った。

 えれか!

 多分、きっと、おそらくは、女の名前。

「起きれー、起きれー」

 とりあえず私は人間。そして、女!




「おいコラ、目ん玉開いてんなら、さっさと返事しろや!」

 その人の凄みある一声で、背筋がビンッと伸びた気がした。

 唇を動かそうとしたが、唇の存在を認識するだけで精一杯になり、発声には至らない。

「はふー。まだ声がでないんだぁ。ま、いっか。意識が戻っただけでも」

 そう言って、その人は美しく装飾されたネイルを私の目の前に突き出し、片目の瞼をこじ開けた。私は目の玉を抉られるのかと、一瞬慄いたが、それは違った。

 ペンライトの光が私の視界を食い尽くす。

 眩しい。

「すっげー運良いんだからね。ちゃんと自覚しなよ。生きてるだけで、あんたは奇跡」

 その人は女医なのか、ペンライトをくるくる回しながら白衣の胸ポケットに収め、代わりに安物のボールペンを手に取る。彼女の空いている片方の手から出てきたのはA4サイズのクリップボードで、その上にボールペンで何かを書き込んでいる。ボードの上でクリップされているのは、きっとカルテだろう。

「私、喋れます」

 自分の声に、少しだけ驚いた。

 というよりも、言葉をうまく発音できる事に驚いた。

「まみゅあー!やったね、えれかちゃん!」

 何が「やったね」なのか良く分からないが、私自身への驚嘆にそんな疑問は凌駕される。

 私は生まれたてのこの口で発声することができたのだ。となると、予想していたのとは少し異なる。てっきり、誰かの母親が新たな生命を体内に宿し、私はその生命に魂として入り込むものだと思い込んでいた。その時に前の人生の記憶は真っ白に消されて、新たな人生を歩むものだと思っていた。けれど……。

「でもさー、顎の付け根あたりがめちゃくちゃ痛いでしょ。ぎぴぴって感じ?」

 私は手を伸ばしてあご顎付近を触ろうとしたが、手を動かせない。試しにもう一度、他の部位も動かそうとしてみる。しかし、今度の場合は反応があるものの、帰ってくるのは神経を伝わって高速でやってくる痛みだけで、動かせそうな感じがまったくしない。 

「そこね、紅紫こうしの野郎の膝に当たってあご顎ごと砕けちゃってるから。本来ならそこにもギプスやらなきゃいけないんだけど、金なくてさー。え、いや、あんたの親の金が足りねーって言ってんじゃないよ。むしろ、お世話になりすぎて、ここ一年は外来とらなくても良さそうよ。ありがとねー」

紅紫こうし?」

 私はその名詞らしき言葉を尋ねる。私の予想では、それはきっと人の名字だ。

「そうだわ。あんたが一生恨むべき人の名よ。紅紫あやめ。良い名前してるのにねぇ。勿体ない」

 私は一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。私は、私が生きていることを確認する。

「その人が、どうかしたんですか?」

「どうかしたかもないよ。あんたは彼女に殺されかけたんだから」

 その女医は面倒臭そうに応答しているが、目はしっかりとカルテの方に向けられていた。それはきっと、私のカルテではないのだろう。

「私はその……どうやって、殺されそうになったのですか?」

 女医は小さなため息を吐き出し、縁の厚い眼鏡をしなやかな動作で外した。眼鏡のデザインもそうだが、眼鏡によって露わになった彼女の顔は若くて綺麗だ。できれば、私もそんな顔になっていれば良いのだけれど。

「あ、やっぱ憶えてないんだー。そりゃそうだよね。えれかちゃんは日課のお昼寝中だったみたいだし、紅紫こうしは上から降ってきたからねー。認識できるはず無いわぁ」




 ともかく、新たな人生を迎えられた事を喜ぼう。

 そして、私はこの人間の、この体として、人生をやり直す。

 まさか本当に輪廻するとは思わなかったけれど、こうも簡単に新たな生命が巡ってくるとは思わなかった。

 それに、幸運な事に、前世の記憶もすっかり残っている。前の人生で味わってきた屈辱もしっかりと憶えているし、死ぬ前に飲んだ日本酒の銘柄もきちんと頭の中に入っている。

 最高の結果だ。

 自殺して、……良かった。

 どこぞの宗教では、自殺が一番罪の重い行為だと聞いたことがあるが、私の信仰の中ではそんなことはない。何をやっても、私の中にいる絶対神は罪人を許してくれる。そして、有り難いことに、魂は輪廻するのだ。死んだ肉体から離れた魂は、新たな生命に宿る。イェイ!神様は、都合の良い時だけ頼って、結果が出たときだけに感謝するに限る。

 とりあえず、今の状況を整理しよう。

 私の名前は春川はるかわえれか。政府やNPOに多額の資金援助をして余裕綽々な態度を顕示しながら、世の中の景気不景気関係なく三百の企業をビシッと束ねる春川グループの社長、春川泰臣の次女。いわば社長令嬢。

 こういう肩書きは聞いただけで気分が重くなる私の性分。けれど、幸運に幸運は重なるもので、見舞いに来た秘書や三女の春川蘭の話を聞いていると、別に社長の娘だからといって特別な気配りは要らないらしい。お偉いさん方のパーティに毎回出席しなくてもいいし、特別な作法も学ぶ必要はないということ。春川えれかとしての記憶がまったく無い私にとって、彼女の歩んできた人生はまったくの他人のもので、無関係を決めつけたいところではあるけれど。私は春川えれかとしてこれから生きて行くには、最低限の決まりを守らなければならないだろう。つまり、少しは彼女らしくいなければいけないのだ。そうしなければ、まず生活する面で苦労を強いられるし、何よりも、これまでの春川えれかに悪い。

 そういった情報収集を、見舞いにやってきた人達の素振りを観察することで無事に遂げた。何よりも、三女である春川蘭の素行の悪さと、それを傍観だけにとどめる秘書の様子が決定的な情報をもたらした。会社の将来的な経営権は長女が握っているらしいから、次女である春川えれかと三女の春川蘭は、遊び通しの生き方でも問題は無いだろう。いざとなればその長女に任せてしまえば良いのだ。と、私は勝手に判断する。

 けれども、春川家の関係者と話す際には注意を要する。一応、春川えれかを演じなければならないのだ。実際に、私が動かせるのは顔だけで、顔でも目や鼻、口しか動かせないのでコミュニケーションは取り難い。しかしその状態のおかげで、私は春川えれかを少ない動作で演じることができた。

 私の幸運は寝ても覚めても続くのだ。




 私が意識を取り戻して三日後、私の担当医である女医が再び姿を現した。

 私の個室の病室に入っては、大股でベッドの脇に歩み寄り、開口一番に言った。

「どうよ、えれかちゃん。記憶、戻ってきた?」

 女医には、事故前の記憶は一切ないと言っている。事故によってそれまでの記憶を喪失したことにすればとても都合が良いのだ。もっとも、私に春川えれかの記憶は無い。今の春川えれかには、私の記憶しか残っていないのだ。

「いいえ。先生の努力にお応えしたいところなのですが、まだ何も……」

 私がそう言うと、彼女は何かがおかしかったのか、急に体を九の字にしてゲラゲラと笑う。

「アハハッ、そりゃそうだもの。たった三日で私が治せるわけないわ。……ははっ、なんて愉快なのかしら。わたし、あんたのこと、ちっとも治そうとなんて思ってないのよー」

 医者としてあるまじき発言に、私は目を丸くした。

 彼女は笑いを無理やり飲み込む。

「ひぃ……はぁ………えっへん。失礼。笑いすぎた」

 そこにはまったく失礼そうな仕草はない。

「……んまあ、ともかく。記憶に関してはゆっくりやっていこうぜ。それより、えれかちゃんは体の治療の方が先だから。じゃなきゃ、学校行けないでしょー」

 私は短く息を吸い込んで、予め用意してある言葉を丁寧に選ぶ。

「そうですね。早く退院して、学校に行きたいです」

 春川えれかの学校が、私の通っていた学校と同じなのだから驚いた。それに学年も一緒らしいのだが、理系と文系によってクラスが分かれているので、交流する機会も少ない。私は文系で、多分、春川えれかは理系だ。

「そうそうー。あそこはみんな進学するからねー。授業スピードも速い速い。私なんて、夏休みに彼氏とハワイ行ってたら、浦島太郎状態よ。なに?表現が古い。古くて結構。まあ、それはともかく。夏休みのくせに、みんな出校してるもんだから、復習だけのはずの講習が、いつの間にか先に進んでしまってんのよー。ま、取り戻すのは苦労ないし、みんながカリカリ勉強している間に、私は常夏のビーチで遊んできたからねー。ハワイの男も良いもんよ。ハワイの男ってさ、まずトークがライトなのよ。それでね……」

「って、先生。彼氏と一緒にいったんじゃないですか?」

「は?男なんて都合の良い時に付き合ってくれるから、そこらへんはアバウトで良いのよー」

 といった軽い調子で話す女医の先生の話はいつも面白い。時々謎めいた言葉を突然叫び、話を混乱させる時もあったけれど、それも含めて楽しい先生だった。




「ところで、体の調子はどうなの?指くらいは動くようになってない?」

 先生がそう言うと、本当に動くような気がした。

 先生の物言いはぶっきらぼうで、自分で治療を施しているのに、他の医者が担当している患者みたいに私を扱う。それはそれで、先生なりの私への気遣いだと思うし、先生は決して手を抜いて治療しているようには思えないから、私は先生を信用している。

「それでさー、話は本題に入るんだけど」

 先生はクリップボード上のカルテをぺらぺらめくりながら、愉快そうに言う。

「えれかちゃんに会わせたい人がいるんだよねー」

「誰ですか?その人は」

「うーんとね、まあ……会ってからのお楽しみとしておきたいんだけど。やっぱ聞いておきたい?」

 先生は私の目を見ながら、左手でボールペンをくるくると回し、私の返事を待っていた。

 私は先生が言わんとしている人の名を、ある程度推測できていた。

 いずれ会うことになるだろうし、しっかりと確認しておかなければならないのだ。

 私は答える。

「いいえ、楽しみは後にとっておきますわ」

 すると先生は、満足そうに微笑んで「結構」と呟いた。

 そしてその一週間後、私は紅紫あやめと再会する。




 紅紫あやめは同じ病棟の同じ階に入院していて、私の病室からさほど遠くない場所にいた。

 複雑骨折した私の全身は、面会をするため、ベッドのまま紅紫あやめの病室に移動した。本来なら身分やら何やらの関係で、紅紫あやめを私の方に呼ぶべきなのだと、先生は言っていた。しかし、体調が優れている私の方が、彼女の部屋へ行くことになったらしい。

 看護士達にベットと一緒に私を運んでもらう。私は初めて動く周囲の景色に少なからず感動を覚えた。十日間、首も容易に動かせず、同じ風景だけを見せつけられていた私には、全てが懐かしく、同時に大きな期待を感じていた。体が完治すれば、この肉体は完璧に私のものなのだ。私が見る景色を私がつくることができる。消えた両親も、借金も、バイトも、私が見る景色にはもう必要ない。

 他の患者と共同で使用している病室の窓際に、彼女はいた。

 私のベッドは彼女のベッドに隣接され、先生は鏡を手に抱えた。首の動かない私が、紅紫あやめの姿を確認するために必要な物なのだ。

「えれかちゃんに初めて鏡を与えるわけだけど、自分の顔を見て気を落とさないでね。紅紫の顔もえれかちゃんの顔も、包帯でぐるぐる巻きだから、目、鼻、口くらいしか分からないの。まあ、顔に関して酷い外傷があるわけじゃないから、期待して待ってな。包帯外す頃には元通りさ」

 そう言われて初めて見た、春川えれかの顔は確かに包帯が巻かれていて、どんな顔なのかは分からなかった。ただ一つ言えることは、以前の私の顔より幾分かは顔のラインが細くなっていて、瞳は何かの強い意志を秘めた、逞しい眼光を放っていた。

「んじゃあ、えれかちゃん。紅紫に何か言ってやって。鏡から、紅紫の顔が見えるだろう?」

 そういって先生は鏡の角度を変え、私から紅紫あやめがはっきり見えるようにした。

 紅紫あやめの顔も、確かに包帯だらけで、どんな顔なのか良くわからない。

「……あの、紅紫さん……」

 私はとりあえず、彼女の名を呼び、次に彼女に伝える言葉を続けようとしたが、飲み込んでしまった。これまでに彼女に対してどのような言葉をかけるべきかを色々模索してきたが、目の前にすると、今まで考えてきた言葉や伝えようとしていた意志はどうも嘘らしく感じられてきた。考えにさえ詰まる。

 そんな私の様子を汲み取ったのか、先生は言う。

「まあ、あれだ。紅紫の意識は戻ってないから」

「え?」

 と、先生に対して驚く様子を見せる一方、私は密かに確信する。

 そうだ、紅紫あやめに意識がある筈がない。

 紅紫あやめの意識は今、春川えれかの体の中にあって、私は春川えれかの視覚を使って紅紫あやめを視認している。紅紫あやめは、過去の私なのだ。私が破棄した、忌むべき肉体だ。

 その時、鏡の中の植物人間が、ピクリと動き始めた。

 私は驚愕する。

「っていうのは嘘で、あやめはぴんぴんしてまーすっ!どうも、こんにちは、えれかちゃん!」

 その声は確かに、紅紫あやめの体の方から聞こえてくる。

「そしてそして、とにかくとにかくゴメンねぇ。あやめさ、何を考えていたかよく覚えていないんだけどー、飛び降り自殺なんかやっちゃったみたいで。それで、あやめ一人で落ちてしまえば良かったのに、崖の下でえれかちゃんがお昼寝してたの知らなくて。だから、ごっつんこ!本当なら私達に死んでるのにねー」

 声質は低く、あまり女の子らしくないその発声方法はまさしく紅紫あやめのものだ。その声に合わず、彼女は私達が衝突したことを軽い調子で丁寧に喋る。

「あやめもえれかちゃんと同じで、ごっつんこする前の思い出とか、友達の顔とか、良く覚えていないの。思い出そうとしても、全然ダメ。まあ、でも無理して思い出さなくて良いと思うんだ。それにあやめ、昔のことで自殺するくらい嫌な事があったみたいだから、思い出さない方がハッピーだと思う。知らない方が良いことも、この世の中にはたっくさんあるみたいだからね!どう、えれかちゃん?私の考え!」

「え、あ、まあ……思い出さない方が良いかもね………」

「でしょでしょっ!だからあやめ、若菜ちゃんの怪しい催眠治療はお断りしてるの。てめー、そんなのやってる暇があったら親父の秘書でもやって、ちょっとは勉強してろや!ってね。若菜ちゃん相手に、やんわりな言い方でしょう?」

 それを聞いた先生が、笑顔を浮かべながら左薬指にはめたリングで紅紫の足を素早く強めに突いた。紅紫の短い呻き声が聞こえ、先生は白衣の襟を正す。胸ポケットにピンで刺されているネームプレートには、「春川若菜」と記されていた。

 先生は言う。

「まあ、そういうことで。お互いに痛い思いをしているけれど、過去には縛られず、今を生きていこうぜ。恨みっこなし。OK?えれかちゃん?」

 紅紫あやめの中に新たな魂が入っていることに動揺しながら、私は仕方なく「はい」と答えた。紅紫あやめは満足そうに「うんうんっ」と答え、足をバタバタさせた。その直後に先生に抑えつけられ、紅紫あやめは先生にこっぴどく叱られた。無理もない。この様子では治りも遅そうだ。

 私はそんな新たな魂を得た紅紫あやめを見て、何故だかホッとする思いだった。

 その気持ちの原因は良く分からない。私には関係のない誰かが、私と同じように輪廻して私の肉体に入った。私が今抱いている感情は、それに対する同情なのかも知れない。同じ境遇なら、やはり助かって欲しい。救われて欲しい。

 私は彼女の姿を見て、声を聞いて、心の底から安心した。女の子なのに落ち着いた口調で、丁寧な喋り方もできるのに、あえて悪ふざけしたがる語調。ポジティブな発想、言動。全てが私と正反対なのに。いや、だからこそなのかもしれない。彼女は私が持っていない部分を持っている。彼女と向き合っているだけで、私に欠けている部分が補われていくような充足感を、彼女は私に与えてくれるような気がした。だから私は、彼女ともっと関わり合いたいと思った。

 そうして、春川えれかとしての私と、紅紫あやめとしての彼女の、長い付き合いが始まった。




 それからというもの、絶対安静が大好きな私は紅紫あやめに比べて早く快復し、車椅子に乗せて貰えるようになった。そして私は、紅紫あやめの元に通い、毎日、彼女とお話をした。

 過去の記憶を持たないという私達の共通点は、私達の親交を深める速度をぐんと高めてくれた。紅紫あやめの飛び降り自殺によって、春川えれかが巻きぞえを喰らったという事実は笑い話に昇華され、私達はいずれ戻ってくる学校生活や、輝かしい未来に思いを馳せるようになった。

 紅紫あやめと会話していない時間は暇と退屈で狂いそうになったので、私は紅紫あやめの過去を綴った物語を書いた。ペンがしっかりと持てるようになるまで時間がかかったが、リハビリも兼ねて、とにかく必死になって書いた。事実のまま書くにはあまりにも辛く、人が見ても悲しくなるだけなので、できるだけ明るい話になるよう、大幅に脚色した。紅紫あやめの一六年間をコメディとして扱いたかった。

 一ヶ月後、私は完成したその物語を紅紫あやめに読ませた。私の執筆を知っていた先生こと春川若菜女医にもその物語を読ませた。「ふぇー、本なんて絵本しか読まないのにー」

 と嘆いてた紅紫あやめは一晩でそれを読了し、枕の下にその物語を綴った原稿用紙の束を置いて寝た。その晩、私の夢を見たと言って、私に泣きながら笑ってくれた。どんな夢かは教えてくれなかったけれど、紅紫あやめは顔に巻かれた包帯を濡らし、肩をひくつかせながら泣いてくれた。

 私の書いた物語を読んだ若菜先生は、私に対し、「本気で物書きになろうとは思うなよ」と吐き捨て、原稿用紙を返してくれた。一部、赤ペンで添削が行われていた。




 入院生活は、十ヶ月続いた。

 最初にあご顎の骨が治り、次に手、腰、足といった順番で体を動かせるようになった。

 そして顔の包帯はいつになっても外されず、それは紅紫あやめも同じだった。

 若菜先生の「楽しみは後にとっておく」という以前の私の発言が何故かしっかりと機能し、退院当日にその包帯を外すことになってしまった。

 できれば早めに、春川えれかの顔を見ておきたかった。

 けれど、春川えれかの姉である若菜先生は言う。

「えれかちゃんの顔は私でも嫉妬するくらいだからねー。できれば包帯を一生外せないような顔にしたいところだけど、口惜しいわー。だから、そう焦んなって」

 急ぐことはないだろう。

 私が待ち望んでいた理想は、もうじき手に入る。

 今の紅紫あやめの肉体に入っている魂には申し訳ないけど、これは神様が選んだ事なのだ。私は、紅紫あやめとしての人生を十六年間も頑張った。辛いことばかりで、思い出したくない過去ではあるけれど、それを明るい物語として書き上げることができた。どんなに嫌な過去を背負ってきた私でも、今の精神状態を持ってすれば、人を笑顔にさせることができる。具体的な夢や希望を手にして、私は舞い上がっているだけかもしれないけれど、直に次の目標をきちんと見据えることができる。

 紅紫あやめとしての私は、自分の肉体だけの問題にとらわれ、困惑し、よく周りが見えていなかった。だから生きることに余裕が無かったし、自殺なんて考えた。今となっては、自殺という決断は成功したけれど、私のようなケースは希なのだと思う。だから、どんな問題にぶち当たっても、常に心に余裕を持つことはもの凄く大事だと思うし、その余裕で周りの人の気持ちを楽にさせる心がけは、絶対に忘れてはいけないと思う。

 私は春川えれかとなり、私を楽しみながら、他のみんなも楽しませたい。

 みんなが笑っていれば、とりあえず辛い過去の事とかは思い出せずに済むし、自殺なんて考えやしないのだから。

 紅紫あやめの笑顔は苦笑いと愛想笑いでいつも引きつり、ただでさえ汚かった。しかしそれはもう、私とは関係ない。

 私の春川えれかの顔は、笑うために綺麗なのだ。綺麗だから笑顔をみんなに振りまく必要があるのだ。

 だからもう、私は笑うしかない。




 退院の時、若菜先生に泣いてお別れの挨拶をしたら、若菜先生は得意の発作的な爆笑で、私達の涙を吹き飛ばした。「今度もまた、あんたらの先生だよ」

 その言葉の意味は、学校に戻ってから判った。

 一年間休学していた私と紅紫は一年生として同じクラスに編入され、その担任の先生が若菜先生だった。瞬く間に男子生徒の絶大な人気を得て、女子生徒からも頼れる姉御として崇められた。もちろん、私と紅紫は驚きのあまり、開いた口が塞がらない状態の中、若菜先生は誇らしげに私達に言う。「春川家の長女は優秀なのよ」

 さて、学校生活の方は思ったよりも忙しく、若菜先生の言っていた通り、毎日、家に帰ったら最低二時間は自主学習をしなければならないほど授業のスピードは速かったけれど、借金返済や、学費、生活費を稼ぎ出すためのバイトをする必要がない私は、以前の生活より遙かに楽で、余裕に溢れていた。

 友達も、たくさんという訳ではないが、色々な面で助け合える友達ができて、何をするにも一緒にわいわいはしゃぎながら遊んだり、勉強することができた。前はせっかく友達ができても、バイトが忙しく、放課後の遊びの誘いに答えることができなくて、疎遠になってしまった友達が多かった。それも、生まれ変わってからは、夜を明かして遊ぶこともできたし、無益だからこそ存分に楽しめる、じゃれ合いもできた。

 とりあえず私は、将来の為に何か技術を身につけたいと思い、様々な資格の取得を試みた。一応、春川社長からの弛まない資金援助のおかげで、進学することにはなっているが、自分の進路を決めるためにも、興味のある分野をできるだけつまみ食いしておきたかった。

 私がそうやって、新たな人生を満喫している一方、紅紫も色々楽しくやっていて、学校外の人とバンドを組んでは、様々なライブハウスでドラムを叩き鳴らしていた。私としては彼女のハスキーボイスを活かして、ヴォーカルに徹して欲しいところではあったけれど、彼女は「歌えるドラマーの方がカッコイイから」という理由でドラムを叩いている。私の予想では、バンド内でのドラマーの需要が高かった事と、彼女が敬愛しているロックバンドのドラマーがインタヴューで喋ったことに影響されているのだろうと思う。

 ともかく、紅紫とは退院後も付き合いが続いている。むしろ、今でも一番の親友だ。時間があれば、メールや電話でお互いの近況や、日々の愚痴、感動を取り留めもなくお喋りする。同じクラスで毎日顔を合わせているのに、話したいこと、伝えたいことは尽きなく、紅紫とならいくら泣いても、笑っても良いと思える。大事な親友だと、胸を張って言える。むしろ、大好きだった。見ていて飽きないし、紅紫の姿をつい目で追ってしまう時もたくさんあった。




「紅紫って、何でそんなに楽しそうなんだろうね」

 私は彼女に、そう訊ねた事があった。

 その時紅紫は、バンドの練習帰りに立ち寄った骨董品屋のお婆ちゃんの話をしていて、「閉経がきたから夫に別れられた」という重い内容だった。

 紅紫はお婆ちゃんとおじいちゃんに同時に同情して涙を流すという器用な真似をしながら、私の問いにはしっかりと答えて、目元のナトリウムやカリウムやルチンをそっと優しく払う。

「……え。楽しくなきゃ、生きてる意味ないじゃん。えれかは、楽しくないの?」

 私は咳払い一つして、

「楽しいことばかりじゃつまらないもの」

 と意味のつながらない返答でごまかすのだ。

 私は「基本的に人生は苦労しなきゃ楽しむことができない」と考えていて、それとは反対に紅紫は「苦労するなら楽しくない」と断言するのだ。この思想の差。論理の破綻。

 だからこそ、私は紅紫を求めていた。

 紅紫こそが、私が生きる上で重要なヒントや答えを、体現していると確信していた。

 そして私は、紅紫無しの生活が考えられなくなる。

 紅紫あやめの生き方が、私の人生の中で最も貴重な価値を生み出していると思える。

 それを、その瞬間を逃すことを、私は私の人生を無駄にすることだと位置づけていると思うようになる。

 紅紫に依存したくはなかったけれど、依存せずには生きられなかった。それが依存そのものだと、依存してから悟った。出会い方は決して良いとは言えないけど、こうやって紅紫、正確には春川えれかと関係を持てた事に心から感謝したかった。それ自体で、私の人生はとても幸せに思えた。

 この気持ちを彼女に悟られてはいけないと思い、高校二年生になってからはできるだけ気持ちをセーブするようにつとめた。電話やメールの回数も極力、減らすようにした。私の思いが気づかれたら、二人の関係は破綻してしまうのではないかと、常に恐れていた。

 人を想うことがこんなにも辛くて、大変なこととは想像すらしていなかった。

 けれど私は、それに生き甲斐を感じられるようになっていて、もはや依存の域を超えてしまっているのではないかと薄々勘付いていた。

 私は、その苦痛に苛まれているからこそ、最高の瞬間を味わうことができる。




 高校二年生の夏休みの時、紅紫がアマチュアバンドの全国大会の予選を通過していた頃、私は自分の想いを誤魔化す為に、夏期講習に毎日足を運んだ。私の春川えれかへの想いは間違っていると何度も自分に言い聞かせながら、球体の積分に躍起になった。

 夏休みの中頃、一週間ほど紅紫と連絡がつかなくて、どうしたんだろー、いつもなら三日も置かずに連絡をくれるのにーと思っていたら、突然紅紫からのメールが来た。

「ゴメンっ!私に夏がやってきたの」

 卒倒しそうになり、今度はしっかりと胃の中のものを下水道に吐き出し、意識を朦朧とさせながら、私はバス停に備えられた長椅子にへなへなと腰掛けた。死ぬ前に言えなかった、「チクショウ」を今になって本気で言えるようになった。私の夏は始まらずに終了した。

 その後、私は紅紫が通学に使っている路線の最終駅で彼女を呼び出し、飲み屋に強引に連れて行き、飲ませて吐かせて一緒に倒れた。

 時期的には早くも遅くもなく、標準的。そんな紅紫の初体験トークをじっくり聞き、時には赤面し、時には大笑いした。そんなふりをした。親友の勇気ある行動を褒め称えるように装って、私は心のハンカチーフを噛めるだけ噛んでボロボロにしていた。紅紫の恥ずかしさ半分、誇らしさ少々で語る素振りを見ながら、羨ましくて、妬ましくて、愛おしくて、憎たらしくて、私は涙を落とした。グラスに入っている溶けかかった氷を意味もなくグラグラと回し、しきりに足を交差させ、お店のお品書きを値段の高い順に朗読しても、私の気持ちは収まらなかった。そして、最後まで紅紫と視線を合わせる事が出来なかった。ただ私は、「よかったね」「最高じゃん」と声を絞り出し、紅紫は「うんっ」「……まあね」と遠慮がちに答えた。いや、明らかに遠慮していた素振りを、あやめは見抜いていた。

 終電も始電も気にせず飲み明かし、店を出た頃には既に朝日が電線の向こうに顔を出していた。酔いが醒めつつあった紅紫の頬に朝一番の直射日光が差し込み、私はそれに見とれる。「前の私って、こんなに良い顔してたんだっけ」

 口には出さず、紅紫と一緒に線路沿いを歩いて帰路につく。紅紫の別れ際の一言。「ありがとう、えれかちゃん」

 若菜先生に告げ口しようかと一瞬考えたが、それは告げ口というよりも、相談になってしまうだろうと考え、思いとどめた。その前に、先生に会ったら、先生を包丁かナイフか、ハサミで刺してしまいそうだ。

「えれかも彼氏作りなよ」と直接紅紫は言わなかったが、本当はそう言いたかったに違いない。何故なら、私にそんなものができないのは紅紫や若菜先生がよく知っているし。そしてなにより私自身が確信している。

 醜いのは顔じゃなかったのだ……。




 その後、私達は高校三年生になり、受験戦争に駆り出され、死にもの狂いで勉強した。それと同時にバンド活動も盛んになってきた紅紫の志望校は、全国的に有名な大学だった。いくら勉強をしてきても、所詮私は地方の無名大学だ。圧倒的な能力の違いを感じた。

 紅紫の勉強している姿はあまり見たことがなかったので、私はその差にずっと前から違和感を感じていた。私はそのことを紅紫に尋ねると、紅紫はいつもこう答えていた。「愛の力やおーん。それさえあれば、何でもできるんだってー。だからえれかも……」

 受験は終わり、私も紅紫も志望校に合格した。若菜先生は紅紫の合格だけをものすごく喜び、私は、確かにそのとおりなんだよなーと自分に言い聞かせた。

 そう、私の場合、進学できただけでも幸運なのだ。試験に落ちた時の就職活動の為に、資格試験を色々受けていたのだから。それらの費用の資金援助をしてくれた春川グループの春川社長には本当に感謝すべきだし、もちろん今でも感謝している。お金を出してくれたのも嬉しいけれど、私自身に三年間の延命措置を施してくれた事の方でも、もっと感謝しなきゃだめだ。私を春川えれかとして扱ってくれて、私を春川えれかとして生かしてくれたのだ。欲を言えば、更なる整形の為の手術費用も支払って欲しかったけれど、それはさすがに無理なのだと思う。私という人間に春川えれかとして生かさせることに意味があり、体をいじったら元も子もないのだから。

 そして卒業式当日、私は式には出ず、あの崖に立っている。

 その崖は三年前、私が自殺を試みた場所で、輪廻を望んだ場所だ。

 結果として私は死ななかったし、輪廻も起きなかった。

 私はそれを、病院から退院する日に悟り、絶望したのだ。

 私は春川えれかの体に乗り移った訳ではない。

 私は乗り移ったと思い込んでいただけだった。

 春川家のみんなが、私がそう思うように騙してきたのだ。

 事の始まりは、若菜先生が私と春川えれかを間違って呼び起こしたのがきっかけだった。

 その後、変態的な推測能力を駆使した若菜先生は、あえて私を春川えれかの名で呼び続けた。本物の春川えれかに紅紫あやめを演じさせたのは、若菜先生のアイディアで、先生はきっと私の自殺した理由をなんとなく推測できていたのだろう。その理由を、私が入院中に書いた物語で確認する事になった春川えれかと若菜先生は、顔の皮膚の矯正手術と偽って、私に整形手術を行い、私を春川えれかの顔にした。そして春川えれか本人は、彼女の希望で紅紫あやめの顔にするよう、整形手術を、姉であり医師である若菜先生にお願いした。そうして、顔の入れ替わりが実現した。顔を入れ替えるという話は全くないわけであって、犯罪者とそれを追跡する警察官との間に行われてしまったというストーリーの映画もあるくらいだ。多分、珍しくない。驚くべきことではない。父親の「強く生きろ」とはまさにこの事で、私はむしろその事実を喜んで受け入れた。

 しかし、人の生き方とは、顔などで決定的に選択されるわけではなかった。

 紅紫あやめの顔をした春川えれかは、その才能を十二分に活かし、学業も課外活動でも大いに活躍し、紅紫あやめとしての三年間を楽しんだ。存分に楽しんだ。かといって私は、春川えれかの顔を持ってしても、元の春川えれかのような活躍はできず、懸命に頑張ったところで、地味に無難な大学に進学できるくらいだ。それに、何よりも決定的なのは、紅紫あやめに彼氏ができたことだ。それに紅紫の彼氏は、性交の前戯として彼女の全身を舐めた後、顔中にキスをする。「可愛くて、愛おしくて仕方がない」と言う彼氏は、私の初恋の人だ。そして厄介なことに私は今でも彼を諦めきれず、密かに思っていたりする。どうすれば良いんだろ、やりきれないわーとずっと思い続けてきた私の三年間、正確には紅紫の彼氏になった一年半。紅紫あやめの過去よりも辛い、私の現在と現実だ。

 顔を交換しなければ良かった、とは思わない。

 体ごとを交換できたら良かった、とは思えない。

 結局、私という人格に問題があった。そして、それがどんな肉体に宿ろうとも、春川えれかには勝てない。若菜先生が常々言う、「相対評価しかできない人間は一生報われねー」という言葉の意味が、今ようやく分かるような気がするが、私には絶対評価などできない。私がどんなことをしようと、私が一番信じている親友の紅紫あやめが、私を認めてくれなければ、私は報われず、救われないのだ。




 私の夢は半分叶っている。

 それは女になる事と、恋をする事だ。

 私は春川えれかの顔を得て、女になれた。しかし、人並みの恋はできても、成就は果たされなかった。けれどよく考えてみれば、その女になる事と、恋をするという目標は、きっと相対的なものだったのだ。

 普通の女の子というありもしない存在が目標で、あまつさえ、その具体化した姿が紅紫あやめの顔をした春川えれかだったのだ。

 多分きっと、私の目標である春川えれかが私を認めてくれれば、すべてが許される。私のこのどうしようもない悩みの塊は一気に氷解して、私自身が解放される。なんて、大げさな表現をするまでもないけれど、とにかく彼女に私を認めて欲しい。

 崖から再び飛び降りようとしている私の前に、私が捨てた顔を身につけた春川えれかが登場。

「ごめーん、あやめー!本当の事言っちゃうと、実は私、あんたのアクの強い顔がめっちゃ好きで、本当はそんな顔になってみたかったのー。だから見て見て、今の私の顔が、あやめの顔!とうとう実現したんだよ!ちゃきーん、どうだー、格好良いだろー」

 と戯けながら続けて、

「私の顔、押しつけちゃってごめんね。でもさ、あやめにとっては、私の顔の方が良いと思うんだ。みんなにはキレイ綺麗、超かわいー、ペット希望って言われ続けてきたその顔だけど、実際、味気なくてつまんないんだわ。ただもてはやされるだけで、面白くもなんともないの。そんな顔をあやめに押しつけたことは本当に悪いと思ってるんだけど、こうやって交換した方が、お互いのタメになったでしょー」と適度にスマイル。

 しかし、そんな大円団は待っていない。

 春川えれかの本当の考えは、紅紫あやめの顔でも人生を十分に満喫できるという証明を私に見せつけたかっただけなのだ。

 そうやって、私は春川えれかを疑うようになってしまった高二の夏。彼氏ができてから、本当に幸せそうに微笑むその笑顔は、彼氏よりも私自身に向けられていた筈だ。

 崖の先端に一歩足を踏み出そうとしている最中に、今度は若菜先生が登場。

「ごめーんよー、紅紫ぃ。別に私の研究の実験に使いたかったとか、そんな黒い話じゃなくてー。これは同意のもとに行われたものなのよー。紅紫は春川えれかとして生きることを強く望んでいたし、えれかちゃんもそれに答えてくれた。むしろ、感謝しなさいよ、えれかちゃんに。あいつは本当に強い子なんだからね。そうじゃなきゃ、誰があんたの顔なんか貼り付けたいと思うのよ!」

 と、激しく叱咤しながら、続けて、

「せっかく、私も羨むえれかの顔を付けているんだから、もう少し堂々と生きなさいよー。なんでここで死ぬ必要があるのよー、私の手術が台無しじゃん」

 と、何故か突然、若菜先生がお腹を抱えて爆笑。

「あんたなんかより、えれかちゃんの方が辛い過去を背負ってるのよー。自殺なんて、この甘ったれが!両親に逃げられたとか、借金を背負わされたとか、死ぬ気でバイトしないと生活していけないとか、自分の顔が嫌だとか、そんなの些細すぎて、悩みの一つにするには馬鹿らし過ぎるだよっ!あんた、えれかちゃんから、昔の話を聞き出したことがあんのか?えれかちゃんが、あんたとの衝突で記憶を無くしたって言ったけど、あれはえれかちゃんの本心だったんだって知ってんのか!本当に記憶を消したいのは、あんたじゃなくて、えれかちゃんの方だったんだぞー」

 私より、春川えれかの方が辛い過去を背負っていた。だからあの逞しい魂。

 といった一ひねりが加わった結末も、私には訪れない。

 春川えれかの言葉も、若菜先生の言葉も、私の想像の産物だ。実際に二人が現れたとして、私が想定する以上の言葉を喋ってくれるとは思えない。どうせ言うなら、春川えれかが「せっかく生かしてもらったんだから、もう少し気楽に行こうよー」とか、若菜先生が「死ぬんだったら、もっと楽な方法があるよー。ってか、顔を傷つけて欲しくないから、飛び降りるのは止めなー」といった感じだろう。そんな発想しかできない私は、きっと二人を信じてはいないんだろう。

 とりあえず、落ちよう。

 私のこの腐りきった人格に、別れを告げよう。

 前回の落下を救ってくれた二人には感謝しなければいけないけど、今度こそ、私自身の問題だ。誰からも助けられてはいけないし、私はそれを望んではいけない。

 私は最後の最後まで、弱いのだ。なのに一人で生きていきたいのだ。

 強くなりたいけれど、強くなるには一人でなくてはだめだ。孤独に耐えなければだめだ。

 だけど孤独は嫌なのだ。常に側に誰かが居て、そっと励まし続けて欲しい。

 そんな生き方じゃなきゃ、私は私を続けられない。




 私はダイブした。

 落下した。

 でも、Aカップの胸の中には、一抹の希望があった。 

 前回とは違って、悔しくて恥ずかしいけれど、ちょっとした願いがあった。

 私が落下するその地面で、春川えれかがまた昼寝なんかしていないかなーって事に。

 卒業証書とか、学業とかその他もろもろで貰った色々な賞の楯をほっぽりだして、薄目で私が落ちてくる空を眺めていないかなーって。

 私のこのダイブの本当の意味を分かってくれて、それを受け止めてくれるのなら、きっと崖の下でしっかりと待ち受けてくれると思うから。

 私は落下の最中、春川えれかの顔で不敵に微笑む。死への覚悟さえできてしまえば、何に対しても動揺することはない。前回の落下でそう思った私の頭は、一つの葛藤で熱く煮えたぎっているからだ。

 あなたに、待っていて欲しい。振り向いて、認めて欲しい。

 その想いと、彼女の返答に対する不安が、死よりも恐ろしい。

 その気持ちは、死への恐れを凌駕して、私を内側から食い尽くそうとしている。

 だから今の私は、……ドキドキだ。

 フラれるのは分かっている。

 けれど、私のこの興奮は熱くなり、抑えきれなくなり、どうしようもない。

 だからもう、誰にも止められない……。

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