7 月の下で
惑星ラグファリアの周囲を舞う二つの衛星が、恒星の輝きを銀色に染めて地上へ弾き落とす。
ぼんやりと夜の海に浮かぶ町は静まり返り、アデーラの足音だけが響く。
彼女はレニーの動きを思い返していた。体捌きは素人だが、反射神経は野生動物ほどに鋭い。しかし、一番厄介なのは瞬時の状況判断と、果敢な決断力だと分かった。
その正確無比さはまるで人間とは思えない、機械のような冷たさをさえ感じる。
アデーラは夜道を駆けながら、正直な所もうどうでも良くなっていた。
彼女の技があれば殺すのは不可能ではない。負け惜しみではなく、アデーラが本気で暗殺を試みれば、対象の能力に関係なく命を奪うことは出来る。
だが、それは彼女にとって勝利とは言えないし、そうする理由も、もはやない。
アデーラは不意に走るのをやめた。とぼとぼと歩きながら頭を掻く。
「このまま帰っちまうかな」
もうこの町に居る理由はない。あの醜い豚に能無しと罵られに行くのも癪に触る。とは言え、報告は傭兵の義務だった。元居た場所では、それだけで仕事を失う事もあり得る。
しばらく迷って、彼女は歩くのもやめた。
どうせ向かえが来る予定だった。わざわざ向かう必要もない。
「どうしてこうなったのかね」
することもなくぼやいていると、後ろから走る音が聞こえた。
振り返り、仰天する。ドレスをはためかせてレニーが追ってきている。
「な、なに考えてるんだあんたは!」
アデーラは思わず彼女の無謀さを心配してしまった。襲撃者を、それも単独で追う危険は誰でも分かりそうなものだ。
五歩ほどの距離で立ち止まり、胸に手を当て荒れた呼吸を落ち着かせながら言い切った。
「……誘拐。……爆発。予想はしていた。これは反乱の始まりだ」
聡明だとアデーラは思った。どういう思考をしているか分からないが、確かにその推測は当たっている。
だが、褒める気にもならず言葉を吐き捨てた。
「だったら、私なんか追ってる場合じゃないだろう」
「私をジモンの元へ連れて行け」
突拍子もない要求に、アデーラは驚きを超えて呆れ返った。
「あんた、実は馬鹿なのかい……? なんで私がそんな事をするんだ」
「反乱の首謀者はジモンに間違いない。奴を叩けば戦いは終わる」
「ほっとけばいいじゃないか!」アデーラは苛立ち混じりに本音を吐く。「土台無理な反乱だ、じきに鎮圧されるさ。そんなことぐらい分かるだろう。守備兵はずっと前から備えていたんだ。シルバは馬鹿だが無能じゃない」
「それじゃ遅いんだ、アデーラ」レニーは真っすぐに相手を見据え、迷いなく言った。「人が死ぬ」
アデーラが弾けるように駆けた。全くの予備動作なしで、一気に加速してレニーへ迫る。咄嗟に上げた両手の左を掴み、捻り上げる。
レニーの背後へ回ると、細い首を腕で締め付けた。
「いい加減にしなよ。あんた何様のつもりだい? ちょっと人と違うからって、何でも出来ると勘違いしてるんだろ。ただの小娘が分別を弁えないからこういう事になるんだ」
左手を拘束され、右手でアデーラの腕を引き剥がそうともがくが、体勢と筋力が違いすぎる。
アデーラは、自分の言葉に頭の芯が燃え上がるのを感じていた。抑えきれない激情が、次々と口からあふれ出す。
「人が死ぬだって? そうさ、人は死ぬもんだ。昔から、今も、これからも人が死ぬ。だからなんだっていうんだ。それでも私たちは生きてきた。泥と血にまみれてね。それを、傷一つない手で、天使のように救おうって言うのかい!」
最後の言葉は、まるで悲鳴のように響いた。
アデーラは弾かれたように顔を上げ、自らの残響を聞く。それはあまりにも剥き出しの叫びで、心から生まれるものだった。
彼女は急に馬鹿馬鹿しくなった。何をやっているんだ私は。そう自嘲して、腕の力を緩める。
瞬間、レニーの右手がアデーラの右耳を掴み、素早く前へ引っ張った。虚を突かれたアデーラは反応出来ず、激痛に抗うためだけに体を前へと投げ出す。そして、軸足が払われたと思った途端、彼女の体はレニーの腰を支点に回転し、背中から地面に叩きつけられた。
衝撃に肺の中の空気が漏れた。必死に空気を求めるが、呼吸がままならない。
二つの月が見える。儚げで、青く美しい。戦場で、穴だらけの宿で、見知らぬ男の肩の向こうで、何度も見た光だった。
そのすぐそばで、レニーの瞳が太陽のように紅蓮の炎で輝いている。
アデーラは気付いた。彼女はただ怒っているのだ。それも、途方もなく。
「私には何もない……」
その声は震えていた。
「私は無力だ。お前が本気なら私はとうに死んでいる。その程度の人間だ。特別なものなんて、何もないんだ。でも、汚染された水で生きる惑星なんて、私には我慢ならない。人がただ人らしく生きることの出来ない世界なんか、私は認めない!」
雲間から射す日の光のように真っすぐなレニーの思いは、アデーラにするとあまりに子供じみていると思わざるを得ない。結局、駄々をこねているだけではないか。
だが、笑う気にはなれなかった。児戯というには、真剣過ぎる。
アデーラはゆっくりと体を起こした。肺活量の限界までため息をついて、立ち上がる。
「百万だ。一ガロルもまからないよ」
金額を提示しながら、アデーラは自分の心境の変化をはっきり感じていた。
その値段はレニー誘拐の十分の一だが、敵地に乗り込むことから、危険はこちらの方が断然高い。それでも構わないと思った。
だが、レニーは困ったような表情を浮かべている。アデーラはその表情を見て慌てた。
「もしかして、ないのかい?」
「うん。私は持っていない」
よく考えるとそれは当たり前だった。宇宙から来た少女がこの星の紙幣を持っている訳がない。ウッドロックが協力しているとしても、彼女が私財など興味ないであろう事はアデーラにも分かる。
「じゃあどうやって私を雇うつもりだったんだ……」
「何か、欲しいものを用意出来るかも知れないと思ったんだ」
アデーラはがっくりと肩を落とした。同時に、目の前の少女を自分が守らなければ、明日にでも死ぬだろうという心配がむくむくと沸いてくる。
自動車のエンジン音が近付いてくるのが聞こえる。レニーを誘拐した後、回収するように頼んだ車だろう。
傭兵にはルールがある。現金以外は受け付けてはならない。その規律は、抗いがたく彼女の中に染み付いている。
「何かないのか?」
そんな事を知らないレニーが問う。
だがアデーラに目下欲しい物などない。常に身軽に、多くの物を持たない。金だけを頼りに生きてきた習性がそうさせている。
激しく葛藤しながら、皮肉めいた口調で答えた。
「綺麗な肌と瑞々しい髪。他は何もいらないよ」
迎えの車はもうすぐ傍まで来ている。
時間のない中で、レニーが「そうか」と返した。アデーラが振り向く。
レニーの口元には、年相応な少女のように笑みが浮かんでいた。