6 夜中の訪問者
レニーは湯船に浸かる習慣がない。入浴自体は故郷にも存在するが、彼女は手短なシャワーを好み、一人暮らしを始めてからは自宅に浴槽すら置かなかった。
だが、シルバの館にはシャワーがないと言う。
地下水を湯船に溜め、湯が汚れる度にろ過して使っているらしい。レニーは桶に湯を入れてくれれば良いと言ったが、使用人に、レニーの為に新しい湯を張ったと言われては、さすがに断る事は出来ない。
無人の脱衣所でレニーが白衣を脱ぐと、その下からパイロットスーツが現れる。
肌にぴったりと張り付き体のラインを浮き上がらせるほど薄い灰色の生地は、特殊な繊維を十二層も重ねて作られており、優れた柔軟性と針も通さない頑丈さを併せ持っている。
本来、星間船の操縦者用に作られた物だが、火薬銃程度なら余裕をもって耐える為、最近は護身具として使用している。
左の手首に薄っすらと操作盤が盛り上がっている。指で数度叩くと一部が赤く明滅し、さらにその部分を強く押す。
空気の漏れる音がして、パイロットスーツがレニーの肌から離れた。まるで二サイズは大きい服を着ているかのように、だらりと体にもたれ掛かってくる。
肩口を引っ張るとぐんと伸び、容易く脱ぐことが出来た。
一糸もまとわない姿で浴室へ足を踏み入れると、こじんまりとした浴槽が現れる。少し意外な思いだったが、水が貴重な地域では浴槽があること自体贅沢なのだと考え直す。
浴槽に比べて部屋が広いため、昔はもっと大きい物が置かれていたのかも知れない。
湯を桶ですくい、頭からかぶると砂埃や汗が流れていくのが分かる。数度繰り返し、湯船に足を入れる。
肩まで浸かり、思わず息を漏らす。知らず知らずに溜まっていた疲れが湯へ溶け出すような感覚を覚えた。
眠気を感じ、湯を手にすくい顔を洗った。今夜はまだウーノへの報告が残っている。一方的な音声送信で経過報告した事に怒っているに違いない。下手をすると、町の現状より彼女を悩ます事案だった。
浴槽で膝を抱え、後輩であり部下だった少年の顔を思い浮かべる。
大学時代から彼女を支え、自身を一つも省みず着いてきてくれた。今は大学を休学しているが、実際の所、現状では故郷へ戻れるかさえ怪しい。
レニーは、その献身に応えることが出来ない。ただ身を案じる事でさえ今日また裏切っている。
頼んだ訳ではなく、すべてはウーノが自分で決断した事だが、だからと言って恩を感じないほど彼女は愚かではない。
今度帰ったらしばらくは星間船でのんびりしようか。そんな事を考えながら、湯の中を漂う髪を見つめていた。
脱衣所に戻り、持ってきていたタオルで丁寧に水滴を吸い取る。
そして、背後を振り返りため息をつく。そこには艶やかなドレスがざっと十着は並んでいる。夕食会のために着て欲しいと侍女を通じてシルバに頼まれたものだ。
彼女は幼い頃から父に連れられて財界や政界のパーティーに出席している。ドレスを着るのは慣れているが、自分を着飾って価値を高めようとする行為は好きではなかった。
仕方なく、一番地味な白いワンピースのドレスを着て廊下へ出ると、待ち構えていた侍女に捕まり衣裳部屋へ連れられた。
髪を触られそうになり、慌てて自分で結い、後頭部にまとめた。化粧道具も用意されていたが、それはアレルギーがあると言って逃れた。あながち嘘ではなく、原料の解らない物質を肌に塗るのは、この星の人間ではない彼女にとって危険ではある。
夕食会は思ったより厳かに行われた。ダンスでも要求されたらどうしようかと考えていたが、杞憂に終わり安堵する。
食事中、シルバは疲れているだろう、と特に重要な会話はしなかった。
外出した事を少し咎められたが、あとはドレス姿を考え付く限りの美辞麗句で褒め立てられ、好きな花や色など嗜好について問われるに終始した。
鈍いのか鋭いのか、鷹揚なのかただ抜けているだけなのかよく分からない。それがレニーのシルバへの印象だった。
警備兵の巡回する廊下を抜けて部屋に戻る。
壁にかかったランプに火が灯されており、部屋は思ったより明るい。
脱いだ服や外部端末等が籠に入れられ、長いすの隣に置かれている。彼女の服は自浄効果があり、特に汚れなければ洗濯を必要としない。
天蓋付きのベッドに腰を下ろすと、待ち構えていたように扉がノックされた。
立ち上がって籠の中から収束光拳銃を取り出し、レニーが「どうぞ」と声をかける。
扉が開き、シルバが胸元のざっくり開いたガウン姿で、ランプを片手に姿を現した。
レニーは思い切りため息を吐き出す。大学でも、勘違いした男子学生が寮の寝室に訪れる事が多々あった。すべて蹴り出したが、相手が町長とあっては足を使う訳にはいかない。
どうしてくれようかと思っていると、シルバは優雅に頭を垂れた。
「夜分に女性の部屋を訪れる非礼を許して欲しい、美しきレニー」
「なら自分の部屋へ戻れ。私の星では撃ち殺されても文句は言えないぞ」
冷たく突き放す言い方だったが、シルバは気にした様子もなくずかずかと入ってくる。
「明日から浄水器の設置で忙しくなるだろう? その前にお互いを知っておくべきだと思ってね」
「ここで私が怒って帰ればどうするつもりだ」
「そうなれば、この町の運命もそこまでだったと言うだけさ」
微笑みながら近づくシルバに、レニーは収束光拳銃を向けた。
「そこから一歩でも近づけばランプ代わりに燃やしてやる。石油が節約出来るな、シルバ町長」
「……是非ラウールと呼んでくれ」
両手を上げて一歩下がりながらも、シルバは軽口をやめず、そばにある椅子をレニーの方へ向ける。
「ここに座る。それなら構わないだろう? 本当に少し話をしたいだけなんだ」
「ダメだ。私は忙しい」
「邪険にしないでくれ、勇ましきレニー。美女に銃を向けられるのはそれなりに新鮮だが、ずっとは心臓に悪い」
言いながら椅子に座ってしまった。全くめげない性格らしい。レニーはシルバの頭を少し焦がしてやるかと本気で思い、収束光拳銃の威力を最小に落とした。
「この星は人間を受け入れていない」
唐突なシルバの言葉にレニーの手が止まる。銃を下げて話の続きを促す。
「父の言葉だよ。どういう意味で言ったのかは知らんが、ろくでもない生涯で唯一まともな言葉を残した」
どこか寂しげにシルバは自嘲する。
「この星の歴史は知っているか?」
レニーはかぶりを振る。
「詳しくは知らない。ダニロは、人々は突然荒野に放り出されたと言っていたけれど」
「それはどうやら事実だ。二百年前、私達の先祖は当然荒野に放り出され、そこからラグファリアでの歴史が始まっている。私達を運んだ船はどこから来てどこへ消えたのか、荒野の人間は誰も知らん」
レニーはシルバの言葉尻を素早く捕まえた。
「荒野以外なら居ると言うことか」
「かも知れんな。荒野に降りた、いや、降ろされた先祖は虫と戦い、水を求め、日々を生き残るだけで精一杯だった。詳しい記録が残っていないのはそのせいだ。だが、荒野より東は虫の脅威が少なく、土地は肥沃だと聞く。私達よりはるかに発展する余裕があるのだから、何か記録を残しているかも知れん」
その話は、レニーの頭の隅でくすぶっていた疑問を晴らす物だった。
荒野の技術力は低く、銃や車を東から買っているとは聞いていた。同じ文明から来たであろう人間が、同じスタートを切って、どうして技術力に差があるのかと思っていたが、環境の差だと分かれば納得がいく。
だが、そうなると新しい謎が生まれる。
「けど、東がそれほど豊かなら、何故みんな東へ行かない」
シルバは鼻を鳴らし、忌々しげに答えた。
「奴らはオレたちを受け入れないのさ。一方的に物を売りつけるだけで、交流を持とうとしない」
「そうか」レニーは残念そうに呟いた。「東の詳しい事は分からないのか」
彼女は東に強い興味を抱いた。長虫や叫虫など、この星は驚きに満ちている。
「ところで……」
その隙を縫うようにシルバが立ち上がりレニーへ歩み寄った。彼女は考え事をしていた為にそれを許し、思わず身構えた。
「そのネックレスはなんだ? 見た事のない宝石だな」
何気なくと言わんばかりに伸ばした手を、レニーは宙で捕まえた。
歴史の話をしたのは、部屋に留まる口実だったのだ。自分の不注意を反省し、同時に決意を固めた。
「私はただ宝石を……」
そこまで言った所に、レニーの足が上がる。爪先がシルバの顎を捉え、ドレスがはしたなく捲くれる。だが、その姿を見る目はすでに天井を向いていた。
全く予想していなかったのだろうシルバは、それでも優雅な微笑を浮かべようと顔を引きつらせ、椅子を支えに立ち上がった。
「すまない、聖域のレニー。私が性急過ぎたようだ」
脳を揺さぶられ定まらない視点のまま言われては、彼女もシルバの執念を褒めるしかない。
「度し難い男だな、お前は」
「自分に忠実たらんとしているだけさ。だが、ここまで手酷く跳ねつけられたのは初めてかな」
流石に苦笑を浮かべるシルバに、レニーはきっぱりと言っておくべきだと思った。
「シルバ。悪いが私はそういう事に興味がない。そういう風に出来ているんだ」
曖昧な表現に、シルバは首を捻る。
「出来ているとはどういう事だ?」
「私は科学者になる為に生まれ、その為の教育を受けた。異性への興味を持たないように育てられたんだ」
「育てられたね……」
シルバは愉快そうに笑った。
「幼きレニー。お前の故郷でどのような教育が施されているのかは知らないが、私には確信を持って言える事がある。性に興味のない人間など居ない」
迷いのなく、力強い言葉だった。
「お前は人間だ。機械や土くれならいざ知らず、感情を持った肉体が愛を求めない道理はない。ただ何も知らず、己を抑え込んでいるだけだ」
あまりに真剣な声色に、レニーは反論の機会を失った。つい一理あるのではないかと考えてしまう。
ノックが聞こえた。シルバが「入れ」と命令すると、薄いローブを羽織った侍女が、盆に酒らしき瓶とコップを乗せて静かに入ってくる。
「東から取り寄せた果実酒だ。ここらでは滅多に飲めん貴重品だぞ」
その配慮はレニーを怒らせた。個人の趣向をとやかく言うつもりはないが、この町の状況で贅沢を喜ぶと思われている事は看過できない。
文句を言おうと思った瞬間、シルバがテーブルに置いたランプが、侍女の口元を照らした。
「アデーラ!」
レニーが立ち上がり名前を呼ぶと同時に、侍女がシルバの背後に回り首筋にナイフを突きつける。
フードをはぐり、アデーラが顔を晒した。
「今夜は一段とお人形さんみたいだね、レニー」
「お前は……?」
シルバが口を開くと、アデーラが耳元に囁く。
「黙っていな、美男子さん。今は彼女とお喋りだ」
なぜみんな自分と話したがるのか。頭のどこかでそんな事を考えながら、レニーは収束光拳銃の威力を殺傷範囲まで戻した。
「おっと、銃は捨てな。子供が持つもんじゃないよ」
からかいの言葉にさっと血が上るが、冷静さを保ったまま、ゆっくりと銃を床へ置く。
「足でこっちに蹴るんだ」
少し迷ったが、他に選択肢は浮かばず、拳銃をアデーラに向けて蹴った。足元に滑り込んだ銃を、アデーラはさらに右後方へ軽く蹴る。
「目的はなんだ? シルバ町長を人質にしてどうする?」
レニーは状況の変化を求めて、思った事を口に出す。
「そうだねぇ……」
アデーラは曖昧に笑って答えない。代わりに、空いた左手で何かを投げた。レニーが空中で掴む。小瓶の中に液体が詰まっている。
「飲みな。死にはしない」
その言葉で、アデーラの目的がレニー自身だと言うことが分かった。中身は睡眠薬か痺れ薬だろう。
小瓶を持ったまま迷っていると、シルバの手がゆっくりと自分の胸元へ移動しているのが分かった。やめろと叫びたいが、今はその動きに期待するしかない。
「私をどうするつもりだ?」
少しでも気をそらそうと会話を求めた。アデーラの口端が持ち上がる。
「怯えてくれるのかい? レニー。判りきった事を聞くじゃないか」
口調には明らかに楽しむような節がみられた。レニーは嗜虐的な笑みにぞっとしながらも、付け入るならここしかないと覚悟を決める。
「私だってむざむざと死にたくはない。これは飲めない」
「だったらこの首を掻っ切ってあんたを組み伏せ、そのお口に瓶を捻じ込むだけさ」
レニーは小瓶を胸に抱え、険しい表情のまま黙り込んだ。
「早くしな。私はどっちだって構わないよ」
アデーラは彼女を追い詰めている事に笑みを強めるが、その一方で冷静さを失ってはいない。左手でシルバの頭を掴み後ろへ引き寄せた。
シルバの顔が引きつり、懐に入れた手が止まる。レニーは咄嗟に小瓶を目線の位置へ掲げ、アデーラの視線を誘導した。思惑は上手く行ったが、こうした以上飲まないのは不自然になる。
爆弾でも扱うように、小瓶に詰まったコルクを抜く。ポンと空気が弾け、かすかに花の匂いが漂った。
口に寄せ、ゆっくりと小瓶が傾けられる。
その瞬間、シュッと音が鳴り、アデーラの顔に何かが吹きつけられた。思わず目をつぶり、顔を背ける。同時にレニーが小瓶を投げ捨て一気に間合いを詰める。
右手に香水の瓶を持ち、左手でアデーラのナイフの柄を押さえるシルバと目が合った。レニーが跳躍すると、何かを言いたげに口を空けたシルバの胸板へ、体重を乗せた蹴りを放つ。体が椅子ごと後ろ向きに倒れる。
アデーラは巻き込まれないよう後方へ飛び退った。同時に着地したレニーが、シルバを越えて収束光拳銃へ駆ける。
しかし、投げつけられたナイフに、レニーは体を急停止させ仰け反る。胸元を通り過ぎる白刃を追うように、突進してくるアデーラを視界の端で捕らえた。
格闘となれば体格差と技量が物を言う。全く勝ち目がないと判断し、身を屈めアデーラの脇をすり抜けると、テーブルに置かれた果実酒を手に取り壁へ投げつけた。ガラスの割れる音が盛大に響く。
アデーラは怒りに頬を震わせながら立ち上がる。廊下から人の声が聞こえ、時間がない事を悟った。
「まったくやってられないね! どうして素人同然の動きに私が負けるんだい!」
両手を上げて叫ぶと、窓へ向かって歩きながら愚痴を言い続ける。
「理不尽じゃないか。肌も、髪も、その上、戦いまで勝てないなんて、もう馬鹿らしくてやってられないよ! あーもう馬鹿馬鹿しい!」
激情に任せて吐き捨てる言葉は演技に見えない。レニーはこれが本来の彼女なのかと思う。
不意に、どこか遠くで爆音が鳴った。音は石の壁に阻まれて低くこもっている為、規模は分からない。南側は窓が開いている事から、それ以外の方角だと推測出来る。
アデーラは窓枠へ足をかけると、含みのある笑みを浮かべた。
「今のはなんだ?」レニーが問う。
「さぁね。任務に失敗した私には、もう何も関係ないことだよ」
「なら、言えるだろう」
廊下から複数の足音が聞こえる。アデーラは扉をちらりと見やり、レニーへ視線を戻すなり叫んだ。
「やなこった! 大金を逃したお礼は必ずさせてもらうからね!」
次の瞬間、窓から身を投げたアデーラの姿は夜の闇へ消えていった。