Ex-2 “海竜”
地殻変動による地盤沈下は十数メートルに及び、東京二十三区の東部、荒川周辺の低地は海面下に沈んでいる。開拓士のふたりを乗せた水上機は、水没を免れた武蔵野台地に沿って、南東へと飛行を続けていた。
鏡花は両手を丸椅子の両側に乗せて体を支え、猫背を保ちながら足を揺らしている。黙って眺めていた地図から目を離すと、彼女は振り返って渥美に声をかけた。
「そろそろ上野ですけど、何か見えますか」
「わかんねえ。動物園の跡くらい残ってねえかと期待してたんだが」
そこまで言って、彼は眉根を寄せて首を振った。機体の真下を映す別の観測画像には、水没した廃墟らしきものが表示されている。水は澄んでいて、時間をかけて堆積した土砂に埋もれつつある建物を、はっきりと確認することができた。
「よく考えたら自分、上野動物園がどんなだか知らんのよな……」
「なんと、奇遇ですね。私もです」
研究室を沈黙が包み込む。白い機体は、海岸線にそって南西方向へと旋回を始めた。
ゆっくりと回転する映像を見ながら、鏡花は口を開く。
「……なんかこう、道民でもわかるランドマークとか残ってないですかね」
「タワーと都庁と雷門くらいしか知らんがな。スカイツリーは、着工前だったよな」
二十世紀末から資源枯渇のイベントが発生している“枯渇世界”では、新しい建造物がそもそも建築されていない場合が多い。
渥美は東の方角を観測しているウインドウを拡大して、海上にそれらしき鉄塔が見当たらないことを確かめた。
「あー。確かヒルズとかいうのが」
「形知ってるんかい」
再び沈黙。腕を組んで悩む鏡花を放置して、渥美は立ち上がると、研究室の入り口近くに設置されている冷蔵庫に足を向けた。
「ま、東京タワーが残ってることに期待しとこうぜ」
「なんか見逃しそうですけどー」
低いトーンで呟くと、鏡花は自分のノートパソコンに向き直る。
ふたりが目を離した共用マシンの観測画像には、海岸沿いに広がる低木の森と、そこから飛び立った黒い姿が映っていた。
◇
「師匠、何か聞こえませんか」
「……これは、鳴き声か?」
機体の外部にある集音装置から取り込まれた音は、術式駆動機関の騒音を消去した上で、ふたりの送受信機に送られる。短く繰り返される低音の鳴き声は少しずつ大きくなっていくものの、周囲を見回すクロスには、動くものを見つけられなかった。警戒を強めながら、彼は推測を口にする。
「恐らく、下からかと」
「縄張りに入っちまったかね。少し高度を上げるか」
セキがそう言って操縦桿を引こうとした瞬間、機体の右前方を、下から上へと黒い影が通り過ぎた。それは十メートルほど上で大きく羽ばたいて向きを変えると、威嚇するように水上機の上で嘴を開いた。
三メートルを超える黒い翼を大きく広げ、水上機を抑え込むように速度を合わせた黒い鳥に視線を向け、セキは苦々しげに呟いた。
「鴉の変異種とは、厄介な奴に捉まったな」
彼は操縦桿を左に倒し、同時に水上機が海へと向けて旋回を始める。遠くに見えていた前文明の高層建築群が右に流れていくのを視界に収めつつ、クロスは大鴉の方を見上げた。その刹那、衝突音と共に、機体を激しい震動が襲った。
ふたりは送受信機の外から響いた音の方向、左側の主翼へと目を向けた。主翼と衝突してバランスを崩しながらも飛び続けているもう一体の大鴉と、飛散する可動翼の破片。
げえ、とセキが漏らした声に被さるように、上を飛ぶ最初の一体が長い悲鳴のような声を放つ。興奮状態となったそれは、水上機に対して急降下し、蹴りを放つ。再び揺れる機体の中で、クロスは左手を上着の内側に差し入れた。
「撃ちます」
「機体には当てるなよ。慎重にな」
そう答えたセキは、操縦桿を前に倒す。機体が海へと向かって高度を下げていく中、“証”から声が聞こえてくる。
『黒須君、どうなってんのコレ?』
「ちょっと遅いぜ、キョーカ」
白い水上機を追って、ふたつの黒い影が降下してくる。それらに“銃”の狙いを定めつつ、クロスは魔法陣の完成を待つ。
海面から突き出している細長い建造物を、水上機は低下した旋回能力で避けていく。セキは駆動機関の出力を落とし、機首をわずかに上げた。
水上機よりも高い位置を保つため、速度を緩めた大鴉の一体に、クロスが放った銃弾が命中する。
姿勢を戻そうともがきながら落ちていく同胞の姿に、残された片割れは追撃の勢いを緩めた。
「一匹落としました」
「おうよ。これ以上壊される前に、一旦沖へ出るぜ」
ふたりを乗せた水上機は、障害物の少ない沖合へと降下していく。後には、威嚇しながら上空を旋回する二匹の大鴉が残された。
◇
無事に海面へと着水し、駆動機関を準備状態に移行させた水上機を見届けると、渥美は缶コーヒーから口を離し、のんびりと呟いた。
「熊だけじゃなくて、カラスまででっけえのな……」
「感心してる場合じゃないすよ」
携帯電話を片手に横から画面を覗き込んでいた鏡花は、渥美からマウスを奪うと、次々に観測画像を切り替えていく。
操作を続けながら画面を睨んでいた鏡花は、しばらくしてから、軽く息を吐いた。
「他にお仲間はいないみたいですね」
「基本、カラスが襲ってくるのは巣に近づいたときくらいだかんね。海に出れば大丈夫だろ。ほれ」
渥美はそこまで言うと、鏡花からマウスを取り返し、機体の点検を始めた。
鏡花は不安そうな面持ちのまま、丸椅子を引きずってノートパソコンの前に戻る。“枯渇世界”の予測地図と現在位置の表示を見た彼女は、通話状態のままの携帯電話に話しかけた。
「黒須君、汚染地域に入り込んじゃってるみたいだよ」
『そうなのか……見た感じ、危険そうな雰囲気じゃないんだが』
画面に表示された現在位置は、荒川と江戸川に挟まれた区画を中心とした、重度汚染地域の予想円内に差し掛かっている。
「海面までは汚れてないかもだけど、中心の方はどうなってるかわからないし」
『進路を変えた方がいいか。キョーカ君、南で問題ないな』
「はい」
プロペラが再び回転を始め、白い機体は水中舵に従って右へと旋回する。太陽を左前方に据え、ゆっくりと進んでいく機体の細部をチェックし終えると、渥美は携帯電話を受け取って話し始めた。
「左側の主翼と胴体後部に損傷はありますが、飛行は可能ですわ。少しだけ重心がズレてるんで、空中での制動には気をつけてください」
『了解。しかし、そうだな……このまま、もう少し南下してから飛ぶことにするか』
操縦席に座っている通話相手は、少しだけ思案してから語った。それに対し、観測画像を見ていた渥美の表情が曇る。
「あー、それがそうもいかないようで」
「……プラズマ発光、いや、チェレンコフ光かな」
上空から東の方角を観測しているウインドウには、青白く光る海面が映し出されていた。
◇
海中から見えてきた淡い光は徐々に広がっていき、それに従って穏やかだった海面が波打ち始めた。
『何かすげえのが、海ん中から出てこようとしてますわ』
「ああ、把握した。急いで離水する」
短く応えたセキは、揺れる操縦席の中で、手早く計器を確認していく。
盛り上がった海面が割れ、水飛沫と共に巨大な海蛇が姿を見せる。青い鱗が太陽の光を反射し、白く輝いている。目を持たないそれは、水上機を丸飲みにできそうなほどの大きさの口を開いた。
「師匠ッ」
「舌、噛むなよ!」
その言葉と共に、セキは出力桿を安全限界まで押し出した。出力を伝えられた推進器が一気に回転数を増し、機体は弾かれるように前へと跳ねる。次の瞬間、一直線に伸ばされた海蛇の首が、水上機があった場所を横切っていった。
『前方に障害物なし。関さん、舵上げて』
「おお、そうだった」
“証”からの声に、セキの左手が動く。水中舵が引き上げられ、水の抵抗に揺れていた機体がさらに加速する。
海蛇は再び首を持ち上げると動きを止めた。それと同時に、周囲の大気が励起し始める。
『プラズマ系ルーチンの発動を観測。周囲に気を付けてください』
「つっても、もう飛ぶしかねえけどな」
「速度五十、行けま──」
クロスの言葉を遮るように、水上機の周囲にいくつもの水柱が上がる。海面が波打ち、機体が安定を失って大きく左右に揺れる。
降りかかる水飛沫に構わず、セキは操縦桿を引いた。左に傾いた機体は、主翼の先をわずかに水面にかすらせつつ、上昇を始めた。
『沖に向かってます、進路の修正を』
「いいや、このまま加速するぜ」
セキは出力桿に取り付けられた安全装置を引き抜き、予備術式の出力を投入した。螺旋を描くように上昇していく水上機の下で、首を巡らせていた青い海蛇は、目標を見失って動きを止めた。
「よっしゃ、逃げ切れるか」
『黒須君、撮影できる?』
クロスは傾いた機体の中で体を捻り、再び海中へと潜り始めた海蛇に向けて、左手で“証”を構えた。
◇
“枯渇世界”の太陽が南天に差しかかる頃、白い水上機は湾内から外洋へと抜け出していた。
「佐々木さんが見たら“なんて事だ、ここは東京だったんだ……”とか言いそうな絵面ですよね」
新たに撮影された画像をスマートフォンから共用フォルダに転送し、内容を確認していた鏡花が呟く。
渥美が振り向くと、ノートパソコンの画面には、砂浜に埋もれかけた電波塔が映し出されていた。
「先輩なら言いかねんね……しかし、よく撮れてるな。公開できないのが残念だわ」
肩をすくめてそう言うと、渥美は共用マシンに向き直った。
『もうじきヨコスカが見えてくる頃ですね』
『ここまで来れば大丈夫だろ。さすがにこれ以上無茶な飛行はさせたくねえ』
携帯電話からの声を聞きながら、渥美は観測画像を切り替えていく。エンジンの一部が映ったウインドウを見つめる彼の後ろから、鏡花が声をかけた。
「どんな感じすか」
「んー、コマ送りだとはっきりせんけど……関さん、三番シリンダが不調みたいなんで、いったん切ってみてください」
『三番な、やってみる』
映像が遠景に切り替えられ、共用マシンのディスプレイに、左右に揺れる白い水上機の姿が映し出される。
『よし、出力安定。かなり楽になった』
「ひとまず、横須賀までそれで我慢してください。急制動でどこかにズレが出たのかもしれないですね」
渥美は鏡花に携帯電話を手渡し、椅子の背もたれに体を預けて息を吐いた。
「黒須君、調子はどう? 無事でなにより?」
『ちゃんと生きてるぜ、乗り物はまたボロボロだけどな。師匠の車に、連絡鉄道、これで三回目か』
苦笑を浮かべつつ、鏡花は自分のノートパソコンに向き直る。
「“海竜”の解析、まだ途中なんだけど、対処するのはもうしばらく待った方がいいかも」
『何か問題があったか』
鏡花は片手でキーボードを叩き、エディタに打ち込んでいた解析中の情報を前面に表示させた。
「オブジェクト名“Leviathan”。初期出現座標を中心として、水上、水中を無作為に回遊する。初期座標は恐らく、汚染地域の中心に指定されてるんじゃないかと」
画面に表示している内容をスクロールさせながら、鏡花は言葉を続ける。
「で、一定距離内に特定の物質を検出すると、それを体内に取り込んでから、サーバ上のレメディエイション・プログラムを実行するみたい」
『レメディエーション?』
「名前だけでその内容は不明。みら兄ィがちょうど神岡の見学に行ってるから、なんとか調べられないか頼んでみたとこ」
鏡花は受信メールのボックスを開き、まだ返信が無いことを確かめた。
『ふむ……その言葉にはどういう意味が?』
「えーと。直訳すると“治療”だけど、この場合は“浄化”の方が近いかも。恐らくは、取り込んだ物質に応じた無毒化、無害化のための処理が行われるものと推測される」
外から聞こえてくる虫の声と、キーボードを叩く音だけがしばらく続いた後、再び携帯電話から声が聞こえてきた。
『つまり“海竜”は、汚染浄化のために用意された術式ってことか』
「プログラムの解析と、上空からの実態調査を進めていかないと、確かなことは言えないけどね」
『場合によっては、消滅させた方が不利益になりかねない、と』
「そだね」
通話相手の言葉を、鏡花は肯定した。共用マシンを操作していた渥美がふと手を止め、顔を上げて呟く。
「ああ、なるほど。理論上は、十分なエネルギーさえあれば、放射性元素を転換することも不可能ではないな」
「放射線とか厄介そうですけど。何にしても、“飽和術式”が完成したら“海竜”を実験台に、って案は保留ですか」
「まあ、そやろね」
『……また意味不明になってきてるけど、状況は把握したと思う。助かるよ、キョーカ』
「はっはっは、そう褒めるなー」
鏡花が空いている手で頭を掻いたとき、彼女の携帯電話から、もう一人の男の咳払いが聞こえてきた。
『さて。盛り上がってるところを悪いが、そろそろ港だ。少し高度を下げるぜ』
「ああっと。どこが変になっててもおかしくねーんで、ホント慎重にいきましょう」
渥美は慌てて、水上機の向かう先を映した観測画像に目を向ける。荒い画像の中でも、密集した工場の廃墟が立ち並ぶ海岸沿いの一角、小さな港に、いくつもの船が停泊する様子を確かめることができた。
晴れ渡る空の下、白い機体は時折左右に揺れながら、少しずつ海面へと近付いていった。