Ex-1 “飛行”
短い夏はすでに終わり、秋の夜の冷えた空気が、半分開かれた窓から入り込んでくる。
とある情報系大学のとある研究室では、二人の男女がそれぞれのマシンに向かっていた。
「つまり、茨城と岩手に設置されている素粒子発生装置から射出された粒子の衝突を、神岡の施設で観測することで、並行宇宙の存在を立証しようという理論で……って、自分で言ってて分からなくなるなこりゃ」
左手で頬杖をついたまま、教授の過去の論文に挑戦していたのは、四年生の渥美である。彼は縁無し眼鏡を外してキーボードの上に置くと、引き出しから目薬を取り出した。
彼が着ている黒いシャツには、アクションゲーム“ドラゴンズ・ワイルド”のロゴとエクストラ級モンスターのイラストが入っている。それは、彼が数日前、採用面接のために東京に行ったときに手に入れた非売品だった。
「ぶっちゃけ、この辺を理解できなくても、動いてんだからいいんじゃねえかと思うわけだが」
「“枯渇世界”に関わっちゃったのが運の尽き、と」
猫背での作業を中断し、ノートパソコンから顔を上げて口を開いたのは、高校二年生の羽村鏡花だった。夏休みが終わってから一ヶ月以上が経過した今でも、彼女の生活サイクルはほとんど変わらない。すなわち、自宅、学校、研究室のローテーションである。
各務研の座敷童子たる鏡花の言葉に、目薬を挿し終わった渥美は腕を組み、目を閉じてしみじみと頷く。
「だよなァ……しかし、折角の夏休みに引きこもって何やってたんだろな、自分らは」
「何って、エアプレーン製作でしたやん」
うーん、と閉ざした口で唸りながら、渥美の体が右に傾く。綺麗に整頓された教授のデスクの奥、窓の外から、虫の鳴き声がかすかに聞こえてくる。
「エア・エアプレーン製作って感じだよな。実物は“向こう側”なわけだし」
「でもー、設計の手直しするときは喜んでやってたような」
設計は楽しいからいいんだけどよ、と曖昧な表情で答えつつ、渥美は姿勢を戻して時計を見た。鏡花の座る丸椅子も、それにつられて回転する。サーバラックに以前から掛けられている丸時計の近くには、“枯渇世界”の日時を示すデジタル時計が置かれていた。
「そろそろですか、試験飛行」
「ああ、そやね」
渥美は椅子から立ち上がると、机を回り込み、研究室の共用マシンの前に座った。ディスプレイの横には、充電器の上をすっかり定位置としてしまった赤い携帯電話が置かれている。
彼は慣れた手つきで“枯渇世界”観測用のクライアントプログラムを起動し、観測映像を次々と開いていく。
◇
晴れ渡る空の下。近付く春を感じさせる陽気が、少年の表情を僅かに緩ませる。
彼は数名の整備員と共に、長い木製の桟橋の上に立っていた。探索時よりも軽装で、腰にいつもの剣を下げておらず、替わりに四角い背負い袋を背負っている。
一級開拓士のクロス・リュートは、海沿いの浅瀬に面するように建てられた小さな格納庫から、白く塗装された小型の水上機が出てくる様子を眺めていた。
主翼の下にあるふたつの浮舟から白い飛沫を上げながら、機首の推進器によって前進する機体の操縦席には、彼の師匠であるセキ・ジョージが座っている。
──六二式水上偵察機。それは数年前、古い記録を元に製造したものの、駆動機関の出力不足などが原因で、倉庫の中に放置されていたものだった。
クロスは首から下げていた“代行者の証”を正面に構えると、桟橋に近付いてくる白い姿を撮影する。この一ヶ月で聴きなれた、短い旋律と同時に、映像は“証”に記録された。
所々に群生している葦の茶色い茂みを避け、沖側からまっすぐ接近してきた機体は、少し手前で推進器を止め、向きを変えて桟橋に横付けされた。
「順調そうですね」
操縦席から立ち上がり、風除けの眼鏡を外したセキに対して、クロスは少し大きめの声で話しかける。クロスの銃やセキの車と同様に“圧縮空気”の術式を利用していた駆動機関は、術式の改良によって出力が向上し、それに伴って発生する金属的な騒音も大きくなっていた。
左手の親指を立てて応えたセキは、後部座席から梯子を下ろし、クロスを手招きする。
クロスは点検を始めた整備員を残し、梯子を登って後部座席に潜り込んだ。脇に置かれていた送受信機を被り、小さな端子を胸元の“証”に接続させる。
「あー、接続確認」
「接続確認。そっちも聞こえてるな」
両耳を覆っている装置からセキの声が聞こえてくることを確かめ、クロスは前部座席のミラーに向かって、左手で感度良好の合図を送る。
「大丈夫です」
「よし。どこかに問題が出たら、すぐに戻るぞ」
セキの言葉に頷いた後、クロスが座席や機体の状態を確認していると、“証”から着信音が鳴り始める。彼は座席に座り直し、計器類に目を通しながら、左手の人差指で液晶画面の応答ボタンを叩いた。
「キョーカか」
『いんや、渥美さんなのだぜ。先にフライトプラン、じゃねえや、飛行計画の方に変更が無いかどうか聞いとこうと思ってな』
"証”から発せられた若い男の声は、端子と有線を通じてふたりの耳に伝達される。点検を終わらせた整備員が離れていくのを見つつ、セキが応答する。
「予定に変更は無いが、離水する前にもう一度、意識合わせをしておいた方がいいな」
『ええ、是非。お願いします』
機首の推進器が再び回転し、ふたりを乗せた機体は少しずつ前進を始めた。操縦席のフットペダルと連動した水中舵の動きに合わせて、それは進行方向を変え、浅瀬からの距離は広がっていく。
「今回の試験飛行は、これまでの実験の成果を踏まえた、初の長距離飛行になる。操縦者は俺様、同乗者に馬鹿弟子だ」
◇
渥美は通話相手の低い声を聞きながら、画面に映る白い水上機を観察する。
「機体は前回から弄ってないですかね」
『特に問題が出なかったから、そのはずだ』
「了解っす。とりあえず、各部のモニタは変えずに行きますわ」
鏡花は自分のノートパソコンで画像ファイルを開いた。そこには、地殻変動によって一部が海面下に沈んだ、“枯渇世界”の関東平野が描かれている。
サーバを通じて取得した座標情報を元に、通話相手の現在位置が、小さな赤い円で示される。埼玉県南部、県庁所在地であったはずのその場所は、海と化した荒川を南に望む岬の一角だった。
「よし。ここを“さいたま湾”と、名付けよう──あいたッ」
鏡花の脳天に手刀を振り下ろした後、恨めしそうな視線を無視して、渥美は共用マシンに向き直る。
『どうした、何かあったか』
「いえ。ちょっとボンクラが沸いてたんで。それで、飛行経路ですけど」
『離水後、海岸線沿いに南下し、ヨコスカの港まで飛行する。もし可能であれば、旧都湾内の汚染地域も調査したいところだが……さすがに危険だし、“海竜”もいるしな』
「ああ、“カイリュー”すか。もし撮影できたら、こっちで解析しますよ」
二十一世紀初頭から数世紀に渡り、断続的に続いていた“資源戦争”。その末期において、文明を維持することを放棄した国家などからの無差別攻撃によって、東京の一部地域は重度に汚染されている。“都”に残された記録資料が正しければ、細菌兵器、化学兵器、放射能兵器のいずれも、使用された形跡があった。
加えて、数百年前、湾内に出現した災害級の魔獣が、汚染地域の調査を妨げている、という。
『学者連中の話では、海流や潮汐の作用を最大限に見積もっても、十分に浄化されるまで何千年か必要だってことだから、放っておいてもいいんだが』
「開拓士としては、そうもいかないですか」
『それもあるが……“陸竜”みたいに、なんとかなるんじゃねえかと思っちまったり、な』
およそ二ヶ月前。鏡花たちは協力の末に、“枯渇世界”への干渉を行うサーバシステムで動いていた魔獣のひとつを停止させた。
その際の現象を解析し、魔獣を駆逐することができるなら。そして、無人地域の再開拓を進められるのなら、それはひとつの光明となる。
『ま、何でも一足飛びに解決できるとは思っちゃいないさ』
「私も渥美さんも、協力は惜しまないのですよ」
横から口を挟んだ鏡花に対して、通話相手は笑い声を上げた。まあいいけどな、と渥美も口角を上げながら、彼女に携帯電話を手渡す。
『期待してるよ、キョーカ君。だが、今日のところは安全第一で頼むぜ』
「ええもう、お任せあれです」
水上機が桟橋から十分に離れたところで、操縦席の男がレバーを操作し、水中舵が収納される。
『風向よし、進路よし。離水許可求む』
「障害物なし、機体に異状なし。飛んじゃってください」
鏡花の言葉に応じるように、それは機首を上げ、加速し始めた。速度が一定まで上がった段階で機首が下げられ、機体がわずかに浮き上がる。フロートが海面から顔を出し、機体は跳ねるようにしながら進んでいく。
携帯電話から聞こえてくる少年の声が、速度計に示された機体の速度を知らせてくる。
『四十、四十五……五十。師匠、行けます』
『ああ、飛ばすぜ』
再び機首が上がり、揚力を受けた主翼が機体を持ち上げる。更なる加速と共に、海面に映る影が北西へと離れていく。
「速度六十を維持しつつ、高度二百まで上昇してください」
『はいよ』
観測ウインドウに映る機体が、順調に高度を上げていく。一秒ごとに更新され、コマ送りで流れていく景色に、鏡花は悔しそうに呟いた。
「やっぱりムービー撮影の操作方法、覚えてもらうべきだったなー」
『高度百、百十……この二ヶ月、忙しかったからな』
地図上の赤い円が細い軌跡を残しながら、南へと動いていく。鏡花はサーバラックの支柱を両足で交互に蹴って、体を左右に揺らした。
「スピード感というか、浮遊感というか、そういったのを少しでも体感したかったのに」
『まあ、そっちの世界の飛行機よりは全然遅いんだろうけど』
少年の言葉に、鏡花は苦笑する。彼女は首を横に振り、背筋を伸ばして、優しく言葉を発した。
「ううん。サラマンダーより、ずっとは」
◇
『破ァ!』
“証”から聞こえてくる少女の言葉は、別の青年の大声によって遮られた。
『フゥ、危ないところだったな。どうやら性質の悪い女の霊がとり憑いていたらしい。もう少し遅かったら手遅れだったろう』
『寺生まれってすごい!』
「……キョーカもアツミも、いつも通り意味不明だな」
クロスは溜息を吐くと、再び高度計の数値を読み上げる。
「高度百九十……二百。機関にも異常なしです」
「よし。進路を左に修正する」
より高い位置を飛べば、高層建築の残骸を気にする必要は無くなるが、下方の死角が大きくなってしまう。それに、“証”による誘導を前提としていては、他の操縦士の参考にならない。そのため、緊急時以外は地図と計器類、目標物の目視を頼りにして飛行することになっている。
『真面目な話、燃料を必要としない実質無限の航続距離ってだけで、羨ましい限りじゃない』
「……ああ、さっきの続きか」
手元に広げた地図を見ながら、クロスは思案する。彼にとっては、燃料を必要としない機械の方が当たり前で、精製油を大量に消費するような三千年紀の遺物となると、比べようにも考えが及ばないのだが。
「そんなもんかな」
「いやいや、操縦者の方が保たねえよ。集中力とか、胃袋とか」
進路の微修正を終えて操縦桿を戻したセキが、ふたりの会話に割り込んだ。
白い機体は海上に点々と続く廃墟を横目に、まっすぐ飛んでいく。
『あー、なるほど。人間は不便ですね』
「ヨコスカまで順調に飛べたとして、およそ一時間だったか。これでも厳しいものがあるからな」
機体の安定性は実験の繰り返しによって改善されたものの、固定した操縦桿から長時間目を離していられるほどではない。必然的に、操縦席に座るセキの負担は大きいものになる。
「っつーわけでだ、馬鹿弟子よ。俺様はこいつを飛ばすので忙しい」
「了解です」
師匠の言葉を聞いて、クロスは表情を引き締めた。回転する推進器の向こう側、南東の方角へと目を向けつつ、通話相手に声をかける。
「キョーカ、悪いが誘導に専念させてもらう」
『アイサー。気をつけてね』
“証”は沈黙する。位置を確認するために地図に目を落としたクロスは、視線を一瞬だけ“証”に向けた。
「……“ムービー”ね。これが終わったら挑戦してみるか」