第6話 前触れは読む
翌朝、イレナはまだ日が昇りきる前に冒険者ギルドに来ていた。
昨日もらった銅貨は、半分をパンに、半分を明日以降のために残した。首から下げた銅の札は軽いままだったが、貧民街の路地を歩く時、その感触を何度も確かめてしまう自分がいた。
冒険者。
その言葉はまだ、自分のことのようには思えない。
依頼板の前には、すでに何人もの冒険者が集まっていた。剣士、荷運び、薬師見習い。朝のざわめきの中で、イレナはひとり、昨日と同じ背中を見つけた。
リオだ。
革鎧に短剣、丸盾。腰のポーチには色石がいくつか入っている。リオは依頼板を見上げたまま、イレナが近づいてもすぐには振り向かなかった。
「……来たのか」
「依頼板を見ろと言われたので」
リオはそこでようやくこちらを見た。その目つきは昨日と同じく鋭かったが、露骨に追い払う気配はなかった。
「ミロは少し遅れる。薬の補充だと」
それだけ言って、依頼板の一枚を指で叩いた。
『旧水路跡の調査および魔獣の排除 報酬:銀貨一枚二十銅 銅札可』
「昨日より危ない依頼ですね」
「だから人が集まらない」
リオは短く答えた。
「旧水路のあたりに住み着いた魔獣が、行商人の荷車を襲ってる。数は不明。種類も不明。調査して、可能なら排除。昨日みたいな調査だけで済む保証はない」
イレナは羊皮紙を見つめた。
危険。だが報酬は大きい。銅貨ではなく、銀貨に手が届く額だった。
「……私でも、いいんですか」
リオは少し黙ってから言った。
「昨日、お前に助けられたのは事実だ」
言い方は不器用だった。借りを返すでも、礼を言うでもない。ただ事実だけを置く声音。
「でも、勘違いするな。俺はまだ、お前のことを信用したわけじゃない」
「わかっています」
「色なき民なんだろ」
イレナは一瞬だけ息を止めたが、もう否定はしなかった。
「……はい」
朝の喧騒の中、その言葉だけが妙に静かに落ちた。
リオは眉をひそめた。嫌悪というより、言葉の置き場所を探しているような顔だった。
「俺は色なき民のことなんて、ほとんど知らない。ただ……昨日みたいに、魔獣相手に役立つなら連れていく。役立たないなら切る。それだけだ」
「それで十分です」
リオは鼻を鳴らした。
「十分、ね」
そこでミロが駆け込んできた。背中の大きな荷袋を揺らしながら、息を切らしている。
「ごめん、待った? 薬屋のおやじが細かくてさ」
「待ってない。行くぞ」
リオが依頼票を剥がし、受付へ向かった。
イレナはその背中を見ながら思った。
追い返されなかった。
それだけで、今は十分だった。
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旧水路跡は、自由都市の南東にある荒れた石造りの施設だった。
大崩壊の前に掘られたものらしい。今は水も通っておらず、半分崩れた石の溝と、朽ちた水門の残骸だけが灰色の地面の上に口を開けている。
周囲には背の低い灰草がまばらに生え、風が吹くたびにざらついた音を立てていた。
「足跡がある」
先頭を歩いていたリオがしゃがみ込む。
石の縁に、三本爪の跡が残っていた。鳥に似ているが、深い。かなりの体重がある。
ミロが手帳を取り出す。
「鳥型の魔獣かも。旧水路にはたまに灰嘴鳥が巣を作るって聞くけど」
「行商人の荷車を襲うサイズなら、ただの鳥じゃない」
リオが立ち上がった。
「気をつけろ。狭い場所に追い込まれるのが一番まずい」
三人は崩れた水路沿いに進んだ。
左右を石壁に挟まれた細い通路。ところどころ天井が崩れて空が見えているが、全体としては薄暗い。足元には細かい瓦礫が散らばり、踏むたびに乾いた音がした。
イレナは歩きながら、無意識に周囲を読んでいた。
風の向き。石壁のひび。足音の返り方。それから、空気のわずかな揺らぎ。
エルドの部屋で毎日感じているもの。
魔法が起こる直前の、目に見えない変化。
「止まって」
イレナが小さく言った。
前を歩いていたリオが足を止める。
「何だ」
崩れた天井の縁で、細かな砂がぱらりと落ちた。ひびの奥で、三本爪が石の縁を掴み直すのが見えた。
「上です!」
次の瞬間、頭上の崩れた天井から灰色の影が落ちてきた。
鋭いくちばし。長い脚。
骨ばった翼を半ば退化させた、鳥と獣の中間のような魔獣だった。胴は痩せているのに、首だけが異様に太い。その喉のあたりが脈打つように膨らんでいる。
「灰喉鳥か!」
リオが叫び、盾を前に出した。
一羽ではない。左右の石壁のひびから、さらに二羽、三羽と姿を現す。旧水路全体を巣にしていたらしい。
一番近い一羽がくちばしを開いた。
イレナには魔力の色は見えない。だが、喉袋が膨らみ、首の筋肉が一瞬だけ硬くなるのが見えた。空気がざらつく。冷たいような、焼けるような、嫌な予感。
「リオ、伏せて!」
リオは反射的に身を沈めた。
その頭上を、黒い泥のようなものが横薙ぎに飛んだ。石壁に当たった瞬間、じゅっと嫌な音を立てて煙を上げる。腐食液だ。
「っ、危な……!」
ミロが青ざめる。
リオは低く舌打ちした。
「こいつら、腐食を吐くのか」
二羽目が跳ねた。くちばしではなく脚で来る。イレナはその爪の向きと体重の乗せ方を見た。
「右!」
リオが盾を右へ傾ける。爪が盾の縁をかすめ、火花のような音が散った。
リオの目が、ほんの一瞬だけイレナを見る。
今のは偶然ではない、と確かめるような目だった。
「ミロ、下がってろ!」
リオが左手を前に出す。指が開く。息を吸う。
予備動作。
エルドの訓練で何度も見た動きだ。
だが、灰喉鳥も同時に動いた。
一羽が低く身を沈める。脚に力を溜めている。飛ぶ。
しかも、リオの魔法が発動するより半拍早い。
「前じゃない、上!」
イレナが叫ぶ。
リオが顔を上げたその瞬間、灰喉鳥が真上から飛びかかってきた。リオは詠唱を切り、火球ではなく盾で受けた。衝撃でよろめく。
もしあのまま前方に火球を撃っていたら、喉を爪で裂かれていた。
「イレナ!」
名前が呼ばれた。
短く、咄嗟に。
だが確かに、自分に向けられた声だった。
「次、左の喉が膨らんでる!」
イレナは即座に返した。
左手の石壁際にいた個体の喉袋が大きく膨れている。吐く前兆だ。リオは足を踏み替え、腰のポーチから色石を一つ抜いた。
赤い色石。
それを指で弾くように投げる。
石は灰喉鳥の足元で割れ、遅れて火が弾けた。
魔法そのものではなく、封じられた効果の解放。イレナにも見える火炎が、一羽の脚を包む。悲鳴のような鳴き声。体勢が崩れる。
「ミロ、目を狙え!」
「え、僕が!?」
「投げ薬があるだろ!」
ミロは慌てながらも腰の瓶を掴み、震える手で投げた。透明な液体の入った小瓶が灰喉鳥の顔で割れ、白い煙が上がる。目潰し用の薬品らしい。灰喉鳥が暴れ、石壁にくちばしを打ちつけた。
その隙に、残る二羽が同時に動く。
一羽は地面すれすれを滑るように低く。もう一羽は壁を蹴って高く。
挟み撃ちだ。
イレナの背中に冷たい汗が流れた。
魔力は見えない。だが、身体の動きは見える。
脚の沈み。首の角度。翼の残骸のような前肢の開き方。空気の擦れる音。
「下のは囮! 本命は上!」
リオが即座に上へ火球を放つ。
火が灰喉鳥の腹をかすめ、魔獣が悲鳴を上げて落ちた。その真下に滑り込んでいたもう一羽のくちばしが空を切る。
リオは着地の勢いのまま短剣を抜き、下から突き上げるように喉元へ刃を入れた。
黒い体液が飛び散る。
最後の一羽が逃げようと後ずさった。
だがミロの投げた二本目の瓶が脚元で割れ、足場の瓦礫をぬるりと滑らせる。よろめいたところへ、リオの三発目の火球が直撃した。
灰喉鳥たちはようやく動きを止めた。
旧水路に、荒い息だけが残った。
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